on my own

話し相手は自分だよ

6月24日の日記

唐突に静かな気持ちになる、たとえば今日のように昼寝しすぎた日の夜更けなどに。静かな気持ちになったついでにボロボロのふやけたノートを引っ張り出してきて、小さな文字で細々と綴られた当時の心境を読み耽ったりする。しんしんと。そして若いなぁとか思うのだけど、そのノートを使い切ってから2年しか経っていないことに、つまり私が今も『若い』という事実にゾッとする。この『ゾッ』はうまく言葉にならない。これからも私はいろんなことを間違え、いろんなことに気がつき、ときに気がつき損ね、試行錯誤を繰り返しては学んでいかなければならないというそのことにゾッとする。


本人には絶対に口が裂けても言えないが、老年期と言われる年頃の人を見ると「あとは死んでいくだけだから楽でいいよな」と思ってしまう。その歳になってしまえばもう誰も彼を変えられないし、もちろん彼も変わる必要がない。そのやり方でその歳まで生命を維持できたのだから、彼のやり方は結果論的に正解だったと言わざるを得ない(そういう意味で、私は儒教で説かれる『年長者への敬意』に共感する)。長距離走で前を走る人に対する妬みにも似ている。もちろん彼らは遠く険しい道のりを命がけで走り抜けてきたわけで、それは理解しつつも、羨ましく思う気持ちをどうしても止められない。


のいさんは本当に多趣味だね、と先輩に言われた。先輩は旦那さんとしばしばスキーや旅行を楽しみながらも、主な楽しみはお酒を飲むことなんだと言う。私は私の趣味を趣味とは思っていない。世間一般で言われる趣味とは『余・暇』を潰すための手段であり人生の時間を深めるためのエッセンスだ。私にとっての趣味は痛み止めのモルヒネや登山者の握るロープに例えられる。日々はあまりにも面倒なことやしんどいこと、つらいこと、理解しかねることに満ちていて、気を確かに持たないとすぐにそれらに毎日を埋め尽くされてしまう。そのため、頭の中に常に楽しいことや好きだと思えることをいくつもストックしておいて、状況に応じて選び、自分を楽しませ、和ませて、シンドいやメンドいに押し潰されないように引っ張り上げてやるのだ。そうすれば生活に潜んだ面白さや周りの人の温かい気持ちにも気づけるくらいに感受性が回復する。そうやってメンタルを即時回復しながらしか私は生きていくことができない。


私ものいちゃんみたいに夢中になれる趣味が欲しいとか、どうしてそこまで好きになれるのか知りたいとか、そういうこともよく聞かれるが、私には逆に夢中になれる趣味もなくどうやって生きていけるのか本気で意味がわからない。麻酔なしで開腹手術をするようなものではないのだろうか。わからない……と、ついこの間までは思っていたのだが、最近になって何となく分かり始めてきた。私が舞台やサブカルなどのコンテンツに注いでいるエネルギーを、多くの人は人間関係に注ぐのではないだろうか。地元の友達、学校の友達、職場の仲間、恋人、家族、子どもなどなど。彼らが自らの外側に張り巡らすセーフティネットを、私は自らの内部に張り巡らせ、自分のメンタルがどこまでも落ちていかないようにしている。
誰もひとり取り残されて死にたくはない。死なないようにする方法が異なるだけで、私はそれを内側に取り込んでしまうことを選んだ、それだけの話だ。そのおかげで、私は眠る前の静かなひと時に「今日はまあまあ楽しかったな、よくやれたな」と思える。今夜は冒頭で書いた通り昼間寝すぎてしまったので、少しだけその静かな時間を引き延ばして、自分の内側やその外側に、目を凝らしてみたかった。

私はひとりの夜を寂しいと思ったことはない。