on my own

話し相手は自分だよ

背徳を食べよう!お一人様・博多風もつ鍋

私は一人っ子だ。
つまり、バースデーケーキの苺は全部私のものだった。
そんな私でも、人と食事をするときは、特に料理がドカッと大皿で出てくる飲み会などでは、みんなにきちんと料理が行き渡るように気を配らなければならないことは理解している。
正直クソ面倒くさい。面倒くさくない?
お肉取りすぎたかなとか、あの人ピザの生ハムのってないとこ取ってるなとか、周りに気を配りながらも、私このマグロとアボカドのやつ3皿くらい1人でイケるんだけど、などと薄暗いことを考えてしまう。


友人を部屋に呼んでDVDの応援上映会など催す際に、よく博多風もつ鍋で鍋パをするのだが、これも私にとっては苦悩と葛藤の時間だった。
友達と食べる鍋は美味しいし、楽しい。しかし、もつ鍋は私の大好物であり、本当なら鍋に入っているもつは全部私が食べたいし、「締めはラーメンとうどんと雑炊、どれにする~?」なんて気の利いたせりふを吐くこともなくラーメンで強行採決したい。私一人で議席過半数を占領したい。
悶々としながら過ごしていたある日、私の耳に悪魔がそっと囁いた。


「ひとりでもつ鍋、しちゃえばいいじゃん?」


その手があったか───
それから私はもっとも美味しくお一人様もつ鍋を楽しむために、週一でもつ鍋を作って試行錯誤した。さすがに友人が来るときに作る3〜4人分の分量だとちょっと多すぎるので、スープがちょうどいい濃さになり、気持ち悪くならずに食べきれる量を研究した。最近ようやく理想の味に近いレシピにたどり着いたので、ここに公開しようと思う。
ちなみに私は料理の専門家でもなければ勉強したわけでもなく、単に自分がやりやすく作業が簡単なことと、私好みの味になることを目指しているので、こまけぇことは見逃してほしい。


ベースにさせてもらったのはこちらのレシピ。
cookpad.com


これを私好みにお一人様アレンジした分量はこちら。

キャベツ 1/4玉
ニラ 1束
牛小腸(マルチョウ) 200g
乾燥にんにくチップ 適量
白ごま 適量
輪切り唐辛子 適量
【スープ】
水 2カップ
だしパック 1つ
だし昆布 1枚
鶏ガラスープの素 大さじ1
薄口しょうゆ 大さじ2
みりん 大さじ1
はちみつ 小さじ1
チューブにんにく・しょうが 好きなだけ

・たくさん食べられる人ならキャベツは1/2玉入れちゃっていい。春キャベツより普通のみっしりしたキャベツが合う。
・もやしは水っぽくなってしまうので入れない。
・私はしょうがを相当いっぱい入れるがこのへんは好みで。



①「今日、背徳食べよ」と決めた瞬間、鍋に水を入れて、だしパックとだし昆布を浸してしばらく置く。

夜食べるなら、朝もうスープの準備をしちゃう。
だしをしっかり取っておくことで、醤油が少なめでも十分に濃いスープができる。
本当はだしパックまで入れる必要ないと思うんだけどあとで入れ忘れそうだから入れちゃう。


② スープの材料を全部鍋に入れる。
鶏ガラスープで味付けた料理って絶対美味しいからすごいよね。


③ もつの下処理。沸騰した湯(1lくらい)をゆっくり回しかける。
f:id:noi_chu:20200516181302j:plain

近所の肉屋で買ってきた新鮮な牛小腸をざるに入れて、熱湯をかける。
店のおじさんは「下処理~? いらないよ水でさっと洗えばそれで」と言っていたが、なんとなく余計な脂が落ちる気がして……
水切りラックをうまく使って、お湯がまっすぐ排水口に流れるようにしている。こうすればシンクが油でべとべとにならず、後片付けが楽。
終わったらしっかり水を切る。


④ もつを鍋に入れて中火にかける。アクが浮いてくるのですくう。

f:id:noi_chu:20200516181328j:plain

昆布は沸騰する前に、だしパックは沸騰したら2~3分で取り出す。

f:id:noi_chu:20200516181118j:plain

アク取りの様子。ざっと取ったら、あまり火に長くかけすぎるともつがしぼんでしまうので、いったん火を止めて、もつを先ほどのざるに引き上げる。


⑤もつを取り出したスープに野菜を入れて、乾燥にんにくチップ、輪切り唐辛子、白ごまを入れて火にかける。
f:id:noi_chu:20200516181316j:plain

適当にカットした野菜をスープに沈めて、その上から乾燥にんにくチップ、輪切り唐辛子、白ごまを思うさまふりかけ、火にかける。
つまり、もうもつには火が通ってるので、これ以上は煮込まず、野菜は野菜だけで煮る。
乾燥にんにくチップを、普通のにんにくのスライスにしてみたこともあるんだけど、ちょっと味がくどかったので私はチップが好みだな。


⑥もつを炙る。
はい、山場です。舞台で言えば一幕のラスト。
使うのは、どのご家庭にも必ずひとつはあるだろう、おなじみのコレ。

f:id:noi_chu:20200516181154j:plain

トーチバーナーです。網は近所の何屋なのかよくわからん店で100円くらいで買った。
(普段は写真の奥に見えてる、排水口の上にセットした水切りラックに網を乗せて、油がそのまま排水口に落ちるようにしてるんだけど、「これだけ油が落ちました!」というのをやるために今回はボウルの上で炙った。)
腸壁の部分は炙ると固くなってしまうので、炙る前に箸でひっくり返して、ぽよぽよの脂身の部分が表にくるように揃える。

f:id:noi_chu:20200516181253j:plain

しばらく炙るとこうなるので、暫し眺めたり、嗅いだり、つまんでこのまま食べたりする。ふふっ、か~わいい

f:id:noi_chu:20200516181225j:plain

これだけ油が落ちました! わかりづらいな。やらなきゃよかった。


⑦もつを鍋に戻し、完成!!
f:id:noi_chu:20200516181239j:plain

もつと戯れている間に野菜にもしっかり火が通ったので、もつをコロコロと鍋に放り入れたら完成!!!


もちろん、鍋を全部食べたあとは、好きなように締めてもらったらいい。
私は細麺を入れてラーメンにするのが好きだ。このスープの量で、麺をそのまま入れると水分を吸ってスープがなくなってしまうので、別の鍋で軽く茹でてから改めてスープに入れて煮込みラーメンにする。


というわけで、おうちで一人で簡単に食べられる背徳の作り方でした。
こんなに美味しいもつ鍋、本当は誰にも教えたくないんだけど、楽しいことがめっきり少なくなってしまったこの頃なので、ぜひ、自宅で背徳を存分に味わってほしい。
トーチバーナーを持っていない人はこの令和の世にさすがにいないとは思うんだけど、万が一持っていない人がいたら、宅配ピザに追いチーズして炙ってトロトロお焦げにしたり、自宅で炙りエンガワ塩レモン寿司を作ったりなど楽しみが無限大なので、この機会に買っちゃって損はない。

私はまた眠り、目を逸らし、黙るべきなのか ──ハエのたかるタコスを食べて決意したこと

メキシコを旅して分かったのは、「基本、この国の食べ物にはハエがたかっている」ということだ。裏路地の大衆食堂でも、今ふうの小洒落たオープンカフェでも、旅行者向けのお高いレストランでさえ、ハエとのエンカウントは不可避だった。私は最初こそハエを払おうと努力したが、ものの数分で諦めてしまった。だって、あとからあとから無限に飛んでくるハエをいちいち払っていては食事にならない。私は「このハエは1分前まで犬の糞にたかっていたかもしれない」などと想像することを自らに禁じながら、無我の境地で食事をやりすごしたのだった。衛生観念ポルファボル。

f:id:noi_chu:20191106202853j:plain
グアナファトの市場の犬。

場面は変わり、ある秋の日の東京、私はとある企業の中途採用面接を受けていた。知名度は低いが伝統と実績のあるきちんとした企業だった。そこで私は、面接官である中年の男性社員が女性社員のことを一貫して「うちの女の子」と呼んではばからないことに、かなり大きな違和感と反感を抱いた。家で奥さんに「うちの女の子が立て続けに産休入ってさ〜」などと話す分には問題ないとしても、採用面接で、ましてや女性の応募者相手に「うちの女の子」を連発ってどういうことだよ、もし入社したら私もおまえの女の子ズの仲間入りかよキッッッッッショ!!! と、帰宅後にキレたツイートをひととおり投下して、一息ついて、ふと、思った。

『これってもしかして、メキシコのタコス屋で「なんでここのタコスにはハエがたかってるんだ!」とキレるのと同じことだったりするのだろうか?』

ああ、と、何だか急に、いろんなことが腑に落ちたような感じだった。

おそらく、キレ始めた私に向かって、タコス屋の主人はこう言うだろう。
「何を言っているんだ? ハエがたかっていたって、食べても死にはしない。現にここの人はみんなハエのたかったタコスを食べて生活している、今までもずっと。おまえがそんなに騒いだところでハエは根絶されないし、他のお客も気分が悪くなる。黙って食べるか、そんなに嫌なら出ていけよ」

そういうことだ。いちいちハエに怒って、追い払おうとしていては、食事にならない。この国の食事風景にはハエがいるのが当たり前なんだし、むしろそれがこの国らしいと言う人までいる。ハエを介して恐ろしい伝染病がまき散らされているならともかく、たかがハエごときで人は死なない。それなら、あの日の私みたいに、なるべくハエを見ないように、気にしないように、いないものとして、黙って食事をした方がずっと建設的だ。


それはともすれば、インドで「どうして歩いてるだけで物乞いに囲まれなきゃいけないんだ!!」と憤ったり、エチオピアで「ガスも水道もないなんてありえない!!」と気絶したりすることと大差ないのかもしれない。
それでも、日常のどんな隙間にも入り込んでくるハエが、どうしても視界に入ってきてしまって、やり過ごすことができない。

山手線を埋め尽くす車内広告。若くあれ、美しくあれ、そのままのあなたは見苦しい。女は謙虚に華やかに男を立てろ、男は強く逞しく女を守れ。20代はこうしろ、30代でこれはキツい、40代の大人にふさわしい何ちゃら。こんなあなたは価値がない、こんなあなたは恥ずかしい、こんなあなたでは全然足りない。あなた以外の人は問題ないと思っているので問題ない、あなたさえ我慢すればいい、黙って従えばいい。

一匹一匹はとても小さな虫である。彼らは今すぐ私たちを刺し殺したりしないが、確実に、静かに、僅かずつ私たちの精神衛生や生活環境に影響を与えている。しかし、あまりにも小さく、あまりにも多いので、無視して生活する方がラクなのは明らかだ。堪え切れず、「ハエがたかってるものは食べたくない」と声を上げれば、「どうしてそれくらい我慢できないの? 私は平気だよ。生きづらそう、もっと寛容になりなよ」などと言われて口を塞がれる。そうして、黙っていた方が賢明だということを嫌でも学習させられる。

さらに、この社会には、この虫がもとから見えない人も多く存在する。その中には、原因はハッキリしないながら、なんとなく生きづらかったり、なんとなくイヤな気分になることが多かったりする人もいるだろう。そんな人がある日、無数に飛び回る虫が見えるようになったところで、それは私が前のエントリで「寝た子を起こす」と表現したことと同じで、決してその人を救ってくれるとは限らない。本来、内面化された固定観念差別意識から私たちを解放するはずのエンパワメントの力が、「寝た子を起こす=余計なことをする」程度の効力しか持たず、せっかく起きた子に「こんなものが見えてしまうなら眠っていた方がマシだった」と言わせてしまうのがこの社会だ。


それでは私は、タコス屋でキレ散らかすような不毛な行為をやめて、黙ってハエまみれのタコスを食べ続けるべきなんだろうか?

いや、でも。でもやっぱり、食べ物にハエがたかっているのは、おかしいだろ。日本は"一応"、G7の一角を担う先進国なんだから。


たぶん、何の権力も持たない、批評家でも社会活動家でも何でもない一市民としての今の私にできることは、ハエの一匹一匹に腹を立てて、片っ端から潰そうとすることではない。また、ハエを見ないふりしている人に一方的に怒りをぶつけたり、改心させようとやきもきすることでもない。

そうではなくて、一度もっと広く、遠くを見ることだ。どうしてみんな、こんなにたくさんのハエに気がつかないのか。どうして、ハエを潰そうとすると邪魔されるのか。ハエはそもそもどこから沸いてくるのか。せめて、少しでも衛生的な場所で暮らすにはどうしたらいいのか。そう言う私もどこかで誰かの食事の邪魔をしていないか、ハエの湧きやすい環境づくりに加担していないか。そういうことを、できる範囲で真剣に考えたり、それを言葉にしたり、共に生きる人たちと話し合ったりすることなのだと思う。もちろん、時には怒ったり、悲しくなったり、途方に暮れたりしながら。

今日の私たちの当たり前の生活は、ハエなんかよりももっと大きくて凶悪なものをまっすぐ見据え、黙らされても黙らず、時にそれで命を落としてきた人たちの不断の闘争の上に成り立っている。そんな、勲章を受け、TED Talksや国連に招かれスピーチをするようなアクティビストになる必要は全くない(というか無理)にせよ、自分たちの住む場所を少しでも今より良くするためにどうしたらいいのか問い続けること、いま何が議論されているのか知ることを、疎かにしていいはずがない。

そして、私は信じている。私たちには、真摯に声を上げる誰かを不当に黙らせる権利などない代わりに、自ら声を上げる権利があるのだということ。誰かが声を上げても「どうしてそんなことでいちいち騒ぐの?」と冷笑する人だけでは決してなく、「何があったの? 何が問題なの?」と耳を傾けてくれる人はきっといるのだということを。


劇団四季の『キャッツ』をきっかけにブロードウェイ・ミュージカルの虜になったのは大学生の頃だ。夢中で通い詰めた舞台から得られた多くの経験は、私の目を開かせて、私の世界を広げてくれた。特に、NY留学中に観劇した『Kinky Boots』『Matilda』『Fun Home』『The Curious Incident of the dog in the Night Time』、そして今年ようやく見に行けた『Dear Evan Hansen』は、生きづらさや困難さ、弱さを抱えた多くの人をエンパワーする強力なメッセージ性と美しさとを持って、いまも私の心に焼き付いて消えずにいる。

人は誰も、その属性や身体的特徴、文化的バックグラウンドによって差別されない、傷つけられない。すべての人は美しく、その身体や心はその人だけのものだ。私たちは本来、誰を愛しても愛さなくても自由だし、誰にも指図されないし、誰からも貶められない。

そんなメッセージを受け取り、涙を流したりして、劇場を出て、日常である現代日本社会に帰ってくる。そうすると、劇場を出る前と比べて、より多くの、より多種のハエが見えるようになっている。面倒くさい。嫌になる。うんざりだ。でも、同時に、内側にくすぶっていた得体のしれない何かが、私の身体からすっと抜けていき、代わりに温かなエネルギーが満ちていくのを確かに感じる。

そうやって私は今まで、ミュージカルはもちろん、漫画や小説、音楽や絵画、アニメや映画、多くの優れた創作物に触れて、たくさんの豊かなものを受け取ってきた。現実では身を切るようにつらいこともたくさんあったけど、すぐれた表現者たちから道しるべを与えてもらって、何とか今日まで生きてこられた。それなのに、『あるがままの現実を見て、あるべき姿を見ない』ことを良しとしては、私の大好きな作品たちに申し訳が立たない。だからもう、眠らないし、目を逸らさないし、黙らない。これからは、少しずつできる範囲で、ちゃんと自分を守りながら、戦っていきたいと思う。


という、きわめて個人的な決意表明でした。ちなみに、件の面接は、「長く働く気はあるか?」と聞かれたので「女性の管理職の方はいますか?」と聞いたら「いますよ! えーっと、2、3人くらい……」と歯切れ悪く答えられ「ホォー…」と赤井秀一みたいな反応をしてしまったせいか知らないけど落ちたし、メキシコでは無事におなかを壊しました。やっぱり食べ物にハエがたかっているのはおかしいんだよ!!!!!!!! メキシコの歴史的建造物や遺跡、博物館は素晴らしかったので、機会があったらまた行きたいです。タコスはしばらく見たくもない。

When life itself seems lunatic, who knows where madness lies? Perhaps to be too practical is madness. To surrender dreams — this may be madness. To seek treasure where there is only trash. Too much sanity may be madness — and maddest of all: to see life as it is, and not as it should be!” ──ブロードウェイ・ミュージカル ”Man of La Mancha” より

つづ井さんは寝た子を起こしてしまったかもしれない ──地獄は地獄のままでありつづけるという話


【9/15追記しました】

はじめに言いたいことは、つづ井さんのメッセージは、彼女のファン層と影響力を鑑みても、おそろしく真っ当で、健やかで、まさしくこの時代にそぐうものだということだ。つづ井さんのような、感性のやわらかさと絶妙なバランス感覚を併せ持った方から、このようなメッセージが発信されたことをとても嬉しく思うし、彼女の気づきと決意が多くの女オタクの心にまっすぐ届いて、救いとなったことに間違いはない。それでも、きっとどこかに、つづ井さんでさえ救えなかった人、それどころかますます心の闇を深めてしまい、苦しんでいる人がいるのではないかと思い、このエントリを書いている。というか、いま、現在進行形で、私が苦しんでいる。この文章が同じ地獄を見ているどこかの誰かに届くことを願います。


つづ井さんの「メッセージ」、という書き方をしたが、実はつづ井さんは、誰かに何かを語りかけようとしていない。ただ、自分の身に起きたこと、自分の心の中で起きたこと、そこで自分はこうすることにしました、ということを書いているだけで、「みんなこうしようよ」「こうするべきだよ」とは一言もいっていない。私はこれをとても賢明というか、なるほどなぁ~と思ってしまったのだが、結局ここで「独身オタクでも自虐やめようよ」「自分に自信を持つべきだよ」と書いてしまうと、「女は結婚して子供を持つべきだよ」勢とやってることが同じ(つまり、他人に自分と同じあり方を強いる)ということになってしまう。彼女はこれを巧妙に回避している。無自覚なのだろうけれど……。


つづ井さんのnoteを読んで多くの人が感動した。幸せな気持ちを分けて貰えた。これは紛れもない事実だ。しかし私はこれを読んで、「いい文章だなあ、RTしたい!」と感動すると同時に、自分の心の中のゴチャゴチャと片付かず薄暗い片隅で、なにか意地悪な気持ちが蠢くのをはっきりと感じていた。


これを読んだ人たちは、他人からとやかく言われ傷つき疲れた自分を慰めてもらった心地がするだろう。そして、(つづ井さんがそうすることをまったく奨励していないにもかかわらず)、私も自虐をやめて、自分のあり方を肯定しよう! と思うだろう。繰り返すが、もちろんそれは素晴らしいことだ。自分が自分であるだけで、何かが間違っているような気がする状態というのは、あまりに苦しく、悲しい。


しかし、彼女たちはそう時を置かずに気がつくはずだ。自分で自分を否定する日々から脱したところで、そこはともすれば、元いた地獄とそう変わらない、また別の地獄かもしれないということに。


一つめの地獄。"私は"自分のあり方を否定しない。自虐しない。そして他人も貶めない。私はこれでいいんだ! そう決めたところで、"私"のあり方を否定し、貶め、改心させようとしてくる人たちは、いなくならない。それどころか、他人のあり方に口出ししてくる人のウザさが明白になってしまったぶん、今までよりしんどくなってしまう恐れさえある。


ここで隙あらば自分語り。
子持ちの既婚女性に囲まれて仕事をしたことのある私の経験から言うと、「独身で寂しいでしょ」という類の圧力に対し、「私は趣味もあるし友達もいるからぜんぜん寂しくありません、毎日とっても楽しいですよ」と反撃に出るのは、これ以上ない悪手である。それが紛れもない事実であろうと、だ。そんなことを言えば彼女たちは目の色を変えて「この哀れな小娘の考えを改めねば」とますます圧力を掛けてくることになる。


じつは、彼女たちは私に、彼氏や旦那と子をもうけて幸せになってほしいわけではない。本当はただ『自分の人生を肯定してほしい』のだと、気付いたのはその職場に入って半年ほど経った頃のことだった。そこで私は対応を変えた。「ほんっと結婚したいし子どもも欲しいんですけど、なかなか出会いがないんです。良い人いたらマジ紹介してくださいよ~!! イケメンで金持ちのインド人がいいな笑」とかなんとか、そんなふうに返すと、彼女たちは「何よインド人って~! まずはインド美人に負けないメイクを勉強しなさいよ~」とにこにこ笑ってその話題を終わりにしてくれるのだった。


パートタイムとして働く彼女たちは皆、子供や家庭のために、一度自分のキャリアを捨てている。
そんな彼女たちを、既婚子なしの上司は「まともな仕事をしたことのない人たち」と陰で蔑んでいる。
「今夜は娘の好きなホイコーロー作るの」と言いながら退勤処理をし、「快速行っちゃう~」とものすごい勢いで職場を出ていく背中を、どういう気持ちで見送ればいいか分からなかった。


私が言いたいのは、現代日本社会というのは単に独身オタク女性が迫害される社会なのではなく、自分の選んだ人生を自分で肯定できない人のたくさんいる社会ということだ。さらに、自分の人生は本当にこれでよかったのか、確信を持てない人たちは、自分と違う人生を選んだ人を否定することで、自分の人生を肯定しようとする。つまり、私の職場でいうと、パートさんたちは私や上司を「可哀そうな、寂しい人」扱いすることで、そしてキャリアウーマンの上司はパートさんたちを「安易に家庭に入った人」扱いすることで。そしてそれは決して、彼女たち個人の「怠慢」や「努力不足」に100%起因する事態、つまり完全な自己責任ではありえない。
そんな社会において、自分の独身オタクというあり方に胸を張り、「私は幸せです」と言い切れるつづ井さんに対して、反感を抱いたり、彼女を僻んだりする人に向かって、少なくとも"私"は「人の足を引っ張る嫌なやつ」と石を投げることができない。


二つめの地獄。私たちがつづ井さんに心動かされ、今の自分のあり方に確信を抱いたところで、つづ井さんは責任を取ってくれない。


いや、取る必要なんか全然ないよ。ないんだけど、つまり、私の人生の選択の責任を、私以外の誰もとってくれない、というシンプルな事実。シンプルだけど、ときどき忘れそうになる。


私たちには選択肢が与えられている。ことになっている。男を愛するも女も愛するも自由。結婚するもしないも自由。子どもを産むも産まないも自由。


それでも「結婚出産」=「問答無用で良いこと、素晴らしいこと」という価値観は未だ保存されたままでいる。「愛する人といっしょになりたい」「自分の子どもに会ってみたい」という人に結婚や出産のリスクを並べ立て「あなたの人生は本当にそれでいいのか、後悔しないか」と水を差す人は、いなくはないだろうがメチャメチャ嫌われるだろう。しかし、その逆をする人は……言うに及ばず。


そんな社会で、あえて、問答無用で祝福されないほうの人生を選ぶ人、また特に選んだつもりはないが自動的にそうなった人が、果たして、私は自分の人生を後悔しませんと、胸を張って言えるだろうか? 何だかんだで振り切れることができず、悩み続けるのではないだろうか?
選択ができるようになった、素晴らしいことだ。それでも、私たちはみんながみんな、膨大な情報を処理し、自分の状況を冷静に考慮し、誰にも忖度せず、純粋に自分の意志で、最適な行動をとることができるだろうか? 中にはいろんな理由でそれが難しい人がいる。傍目からは決して幸福でない選択をしてしまう人がいる。そんな人たちを、「あなたにも選択肢が与えられていたのに。きちんと考えて行動できなかった、この状況を予測できなかったあなたが悪い」と突き放す社会であるなら、もしかするとそこは単に2Pカラーの地獄ではないか?


つづ井さんのように自分を肯定できない人もいる。つづ井さんのように思い切れず、マッチングアプリをアンスコできない人もいる。もちろん、その人たちにつづ井さんのような人が遠慮・配慮する必要はまったくない。
ただ私は、そんな人たちの葛藤が、意味のない、時代にそぐわない、弱者の思考だと、一蹴される社会であってほしくないと思う。人生に回答編なんて存在しない。日本がとってもポリティカリー・コレクトで、どんな個人の尊厳も守られる天国のような場所になる日はまだまだ来そうにない。私たちの多くは悩み続け、苦しみ続け、また後悔をする、その繰り返しで歳を取っていくのだと思う。もちろん「これは私の選んだ人生で、わたしは私が大好きだ」と言えたらそれ以上うれしいことはない、でも、そう言えないことで、また自分を責めることほど、悲しいこともない。


つづ井さんは辛い思いをしながらも、自分を、自分をかたちづくる全てを誇ることを私たちに教えてくれたし、それは本当に素晴らしいことだ。その点をしつこいくらいに繰り返したうえで、私は、自分のあり方を問い続ける人のことを尊敬する。そして、現在進行形でどじょうの如くもんどりを打って悩み苦しんでいる私自身のことを、今夜くらいは祝福してあげたいと思う。



【9/15 追記】
想像をはるかに超えて多くの方に読んでいただいているようです。ありがとうございます。ちょっと反応を見て回ったら気になる反応がありましたので、言いたいことを言わせてください。

①私はつづ井さんの言うことやこれからすることをひとつも非難しません。つづ井さんのnoteを読んで自虐をやめようとか自分を肯定しようと思った方々についても同じです。このエントリで何をさておいてもまず始めに言ったように、とても素晴らしいと思うし本当にその通りにしていただきたいです。

②私はつづ井さん個人に向けてこれを発信していません。私がつづ井さんに何かを要求していると読み取った方が複数名いましたが、私は私を救うためにこれを書いただけです。
つづ井さんに責任を取れとも、配慮しろとも言ってないし、そういう表現はちゃんとひとつひとつ否定していたはずなんですが、誤解を招いてしまったなら申し訳ありません。以後このようなことが起きないよう対策を講じます。

③こんなことを長々と書く意味が分からない、だから何? 知らんがな、という反応もわりと多くありましたが、あなたには意味ないんでしょうけど私にはあるんです。これも何故かよくわからないんですけど、他人が作ったものが自分のために作られていないことに怒り出してしまう人っているんですよね。not for meという便利な言葉があるので使ってください。

共感を寄せてくださった方も本当に多くいらっしゃって、夕飯を抜いて書いた甲斐があったなあ(夕飯を抜くことは推奨しません)と泣きそうになりました。この記事は、ご指摘にもあったように、何も訴えていないし何も非難していない、何の発展の見込みもないどん詰まりの私のお気持ちです。それでもこんな私のお気持ちに寄り添ってくれる方がこんなにいるなら、きっとすこしずつ、私が「地獄」と呼んだ場所も良くなっていってくれるのではないかと思いました。ありがとう。Let's make the world a better place.

【ひとこと】
ブログにコメントもたくさんいただいています。ありがとうございます。私の文章からなにかを受け取って言葉を尽くしてくださったことにただ感謝です。質問もいくつかいただきましたが、特に私からお返事することはありませんのでご了承ください。

ポリコレ暴走機関車の見た『プロメア』

『プロメア』を観た。具合が悪くなった。

観終わってからも胃のあたりの不快感が消えず、鍵アカウントでぶちぶち小言をこぼしていたところ、フォロワーがこちらのツイートを共有してくれた。

私の不快感の元凶はこの方がきちんと整理して語ってくださっており、これ以上言うべきことは特にないはずなのだが、ただ暴れ狂うだけでは赤ちゃんになってしまうので、「じゃあどうしたらよかったんだよ」というのを頑張って考えてみたいと思う。

まず、上記ツイートの方は

中島かずきさんが「『差別を受ける者との共生』という自分にとってのテーマの集大成」と仰っている

と仰っているが、実際にそういう発言をしたわけではなく、インタビューの中で

差別される者との共存とはなんぞやというテーマも、これまで新感線のほうでずっと書いている話で、そういう意味では集大成

と語っていただけとのことで、以前からそのテーマに関心があって出来たのがコレなんだったらますます絶望が深まるばかりなのだが、とりあえず
『プロメアのコアのテーマ』『差別を受けるものとの共生』(コアは別のところにある)
であるということは念頭に置いて、なるべく落ち着いて話をしていきたい。
もちろんネタバレを多分に含みます。


ガロについて

とにかくバカだということが作中で繰り返し強調される。突き抜けたバカだからこそ突破口になりうることはあるし、理論より気持ちで動くキャラクターは共感を得やすいというのは分かる。それでもちょっとバカすぎやしないだろうか。バカすぎるというか、中身がなさすぎて、物語を強制的に(かつ、見た目良く)動かすための歯車に成り下がってしまっているというか……。
例えばクレイの正体を知るシーン。家が燃えて、おそらく自分以外の家族全員を失ったであろう彼にとってクレイは、唯一無二の精神的支柱だったはずだ。そのクレイが非人道的な人体実験に関与しバーニッシュを苦しめていることを知って、ちょっと洞窟で反省して、即座に勲章を返上しにクレイのもとに向かう。「うなぎが絶滅危惧種だと知ったので反省して今年の土用の丑の日にはうどんを食べようと思う」くらいの軽さだ。すべてを失った世界で唯一信じられる理想を打ち砕かれた人間のとる行動とは思えない。もうちょっと迷いとか、葛藤とか、怒りみたいな、ぐちゃぐちゃした心情を吐露する場面があってしかるべきじゃないだろうか。「テロリスト野郎があんなこと言ってたけど、嘘だよな? 嘘だって言ってくれよ旦那!!」みたいなシーンとか、もしくはリオの言うことを嘘だと決めてかかった結果として自分も人体実験に加担してしまいそこでやっと後悔とともに真実を受け入れるとか、やりようはいくらでもあるはず。そこで初めて、「こんなもの!!」と勲章を投げ捨て、踏みつけ、クレイを睨みつける。熱いじゃん……。

リオについて

ガロに比べればまだキャラクターがはっきりしている。顔がかわいい。あんまり突っ込むところはない。

クレイについて

どう見てもヒトラーであり、彼の思想はどう考えても優生思想であり、バーニッシュを動力源としたエンジンはどう見てもホロコーストである。ナチス式敬礼をしないのが不思議なくらいだ。
彼が悪に心を染めた要因となるようなエピソードは語られない。それはそれで良い、むしろ好ましい。「実は幼いころに自らの炎が原因で両親を亡くし」などと言われても冷めるだけだ(そういう観点から言えば『弱虫ペダル』の御堂筋くんの過去編は残念だった。御堂筋くんには何の理由もなく、何の目的もなく、ただキモくて嫌なやつでいてほしかった)。
一口に悪役と言ってもそのあり方はさまざまで、中には主人公より観客の支持を集めてしまうラブリーチャーミーな敵役もいる。しかしクレイを見ていてもヒトラーだなあ……としか思えないので、とにかく生理的嫌悪がすごい。ムスカのような可愛げもない。……いや、ほとんど存在まるごとネットミームになってしまったムスカと比べてはいけないかもしれない。
しかも、そのヒトラーを殺さず生かす、という選択肢をガロは選ぶ。自分から二度も全てを奪い去った男を、である。たとえば、リオをも凌ぐ炎エネルギーの持ち主であるクレイを煽って煽って限界まで発火させてプロメアにぶつけて相殺させてGOOD BYE、という人柱的な使い方もできたはず(サンド伊達のゼロカロリー理論を参考に)。ガロがとにかく「みんなを救いたい」という思想の持ち主だったことを強調させたいのは分かるが、こいつはどう考えても生き残る資格がない。もしスピンオフやアナザーストーリーがあるならなるべく苦しんだ後に派手に散ってほしい。隅田川の花火みたいに。

(追記: お風呂場でスピッツのα波オルゴールを聞いていたらだんだん頭が冷えてきて、「どう考えても生き残る資格がない」と言ってしまったことを撤回したくなった。たとえどんな極悪人でも"生きる資格"のない人なんていません。クレイ憎しで自分を見失っていました。ただ、フィクション内での表現として、「苦悩しながらも断腸の思いでかつての師を手にかけ、それを背負って生きていく弟子」というのはだいしゅきなのでそういうのが見たかったという素直な気持ちも否定できない。でもプロメアの雰囲気には合わないかな。でもきっちり罪は償ってほしい、相応の報いを受けてほしいので、どうだろう、弱体化したプロメアと一体化して「ぷろめあたん」的なマスコット生物になっちゃうとか……?)

バーニッシュとプロメアについて

というわけで、どう見ても社会的弱者である。自力では何ともしがたい要素で差別を受けており、一部の目立つ過激派のせいで大きくイメージを損ねているという点では、少数民族や異教徒、性的少数者のようでもあるし、社会に"害"をなすお荷物であるという描かれ方からは、身体・精神障害者の暗喩のようにも受け取れる。
ただ「燃やしたいという衝動」については、また別の考え方が可能であって、たとえばこれを『反社会的な思想・信条』のメタファーとすると、「燃やしたいというのはどうしようもなく湧いてくる心の声であり、燃やさないと生きていけないのに、社会的タブーであるがために規制され、罪に問われる」というのは、「君たちは自由ですよ(ただし法律・良識の範囲内でネ)」という国家権力や社会の合意に対するカウンターであるという見方もできる。私の友人には重度のショタコンがおり、18禁の同人誌をひっそりと描くことでその欲望を昇華しているという。好きでショタコンになったわけではないのに、欲望に身を任せた瞬間に犯罪者になってしまう事実が本当につらいと話していた。現実の少年には指一本触れない=誰も傷つけないことをプライドとして日々同人誌を生産し続ける彼女のことを、バーニッシュを見て少し思い出したりした。
しかし、ご存じの通り、彼らの発火能力は最終的に失われてしまう。たとえバーニッシュが社会的弱者をあらわしていても、彼らの炎が反社会的思想をあらわしていても、エルサの氷の力のような二面性を持っていたとしても、はたまた人間のコントロールの及ばない自然災害をあらわしていようが、もうあのラストで全部台無しだ。現実に議論の種となっているイシューを最後どう片付けるか、どう折り合いをつけるのか、と固唾を飲んで見守っていたのがバカみたいだ。
ちょっと長くなりそうなのでラストについては別項で深めたいと思う。

ガロとリオの関係性について

「バーニッシュも飯を食うのか」と、差別どころか人間扱いさえしていなかったガロが、一瞬で「バーニッシュは同じ人間! 苦しめるなんてヒドイ! 俺はみんなを救いたい!」と豹変するのが気に入らない。個人的に気に入らないだけでシナリオ上大きな問題はないです(『グリーンブック』を見た後も同じようなことで騒ぎまくった)。もう少しバーニッシュへの差別意識や嫌悪感を残したままリオと関われなかったのだろうか。バカには保守的で頭の固いバカと、周りの言うことで自分もころころ変わるバカと、いくつかタイプがあるが、ころころタイプのバカだと本当に人間性に厚みがなくなってしまう……代わりに話を進めやすくなる。先ほど「歯車に成り下がっている」と言ったのはガロのこういうところだ。差別意識というのはそんなにクイックルワイパーを使ったみたいに一拭きでお手軽きれいになってしまうものなのだろうか。そう簡単じゃないから、バーニッシュが焼いたというだけでピザが投げ捨てられる世界になってしまったのではないのか。
こいつはただ自分の衝動のために俺の大切な街を燃やし続けたテロリスト、手を貸すのはマジで気に入らねえが、ここは一時休戦だ! と、睨みあうようなシーンがなかったことが残念で仕方がない。なるべく殺さないようにしてるし、何か問題でも? と涼しい顔でテロ行為を正当化するリオのドライさ、キレた魅力を殺してしまっている。相反する二人だからこそ、あの共闘も、キスシーンも光るのではないか。せめて「リオ・デ・ガロン」と「ガロ・デ・リオン」で言い争う場面くらいあったって良かったと思う。頼んでもないのに「リオ・デ・ガロン」って、もう完全降伏に等しくない?

ラストシーンについて

とにかく、発火能力を焼失させるべきでなかった、の一言に尽きる。
「ぼくのかんがえたさいきょうのプロメアのラストシーン」がどういうものかというと、何だかんだで今この瞬間の地球大爆発は防いだものの、バーニッシュたちの衝動は消えてくれなかった。戦いを通して、リオの言う『衝動』について未だ理解も共感もできないが、とにかく自分がリオたちバーニッシュを変えたり、いないことにすることはできないと気付いたガロ。何だかんだで壊滅してしまった街を再建にかかるが、彼はあえて『燃えやすい街』を作り、「いつでも燃やしに来い、俺が全部消してやる」とリオに告げる。リオはバーニッシュたちの集落に帰っていき、彼らは適度に距離を置いてそれぞれの生活を営むが、時折ガロの街を襲撃する。リオとガロの炎バトルは街の人たちにとって一大イベント、最大の娯楽となり、マッドバーニッシュが来るたびに街は大賑わい。いいぞ! 燃やせ! どうせまた建てればいいだけだ! キャー!! リオたゃがうちを燃やしたわ!!! ご褒美~~~!!! 倒れるご婦人。リオくーん!! うちも燃やして~~~!!! ピースくださ~~~い!!! ったく、消すのは俺たちレスキュー隊なんだから、あんまり煽るなよな!! そう言いながらもニヤつきを隠せないガロたちレスキュー隊の面々なのであった……。
えーーーーこっちのほうが絶対熱いじゃん!!!! 中島かずきどうして私に助言を仰がなかったの??? という茶番はさておき、本当に、どうして、あんなラストにしてしまったんだろうという気持ちが消えない。バトルが気持ち良ければそれで良いのだろうか? 私はかっこいい上にシナリオもちゃんとした映画が見たいと思うのだが、かっこよければ整合性は二の次で許されるのか? そのないがしろにされた整合性のせいで作品の品位がガクッと落ちてしまっても、キャラクターがペラペラになっても、話として一貫性がなくても、それでもかっこよければそれでいいの? 本当に?

技術を持つ者の社会的責任について

冒頭で「差別と共生はプロメアのメインテーマではない」ということを確認したのはなぜかというと、「なぜ差別と共生をプロメアのメインテーマにしなかったのか」という憤りがあるからである。男同士のホモソーシャル的友情の勝利なんて掃いて捨てるほどあるテーマなのだから、せっかく「~とはなんぞや」という思索を続けてきたのだったら、なぜそれを作品にして社会に投げかけなかったのか。私はすべての作品がポリコレに丁寧に配慮して、弱い立場の人をエンパワーし、人々が日々生活で抱える難しさに示唆を与えてくれるような、『ブラックパンサー』みたいに社会現象まで巻き起こす大作になるべきだとは微塵も思っていない。思っていないのだが、これだけの素晴らしい画を作るアニメーションの技術力があり、シーンごとにバチバチに嵌まる音楽があり、実力のある役者をそろえておいて、「頭カラッポで楽しめる整合性無視のアクション大作」を作るというのは、あまりにも、あんまりにも勿体ない。「頭カラッポでどっぷり楽しめるシーンもありつつ、きちんとアップデートされた価値観に基づいた社会的メッセージを織り込み、メインターゲットである10代~20代の若者にただ頭カラッポな2時間を過ごさせない」作品を、どうして作れなかったのか。観客も、そんなものは全然ほしくないっていうことなのか。それがなんだか無性に悲しい。

ウルトラハイパー余談・差別と共生について

先日、NHKで「ムスリム社員の働く日本企業で、イスラム教への理解を深めるために交流会が行われた」というニュースが流れていた。この交流会に参加した日本人の社員が、「みんないっしょなんだということがわかりました」と笑顔でコメントしているのを、私はぞっとする思いで聞いた。「みんないっしょ」というのが「みんな同じ人間」という意味なのだとしたら、お前は今までムスリムを何だと思っていたんだという話だし、文字通り「みんないっしょだということがわかった」と言うなら、「いや全然いっしょじゃねーーーだろうが交流会で気絶してたの???」と全力で突っ込みたい。私たちは違う。全然違う。神様も歴史も文化も思考も全然違う。この国の人間は「共生」を考えるとき、何故か「みんないっしょ」にしたがる。「話せばわかりあえる」と思いたがる。だから「自分と違うしわかりあえない」相手に出会うと、排斥(そんな人は最初からいませんでした~)もしくは同化(いっしょになれば嫌われないよ~)の二択しか選択肢がなくなってしまう。「違うままで、お互い深入りせずに、そこにある」という選択肢を、何故かとらない。そんなことをすれば「わかりあおうとしないのは怠慢だ」となる。具体例を挙げれば、「カムアウトしやすい職場を作ろう!」なんていうのはちゃんちゃらおかしい。どうして「ゲイの人もぼくたちといっしょなんだということがわかりました」とマジョリティが納得できる環境をわざわざ整えなければいけないのか。お互いのセクシュアリティに踏み込まなければいいだけの話だ。作るべきなのは「カムアウトする必要のない職場」である(もちろんしたい人はすればいいし、カムアウトした人が不当な扱いを受けないようにしなければならない)。
バーニッシュが能力を失ってしまう描写はあまりにも「日本的」だった。そうやってアイヌ民族琉球民族も在日外国人も移民も難民も「みんないっしょ」もしくは「そんな奴らはいなかった」という扱いを受けてはずなのだから、もう令和なんだからそんなものは打ち破ってほしかった。全然違う私たちが全然違うままで楽しくやっていける未来を描いてほしかった。ただただ、残念だ。

オンデマンド・レビュー『ドリフェス!』

10代の頃にNetflixとかApple Musicとか便利なサブスクサービスがあればよかったのにな、わざわざ在庫のある遠くのTSUTAYAに行かなくて済んだのに、とよく思いかけますが、10代の頃にそんな片手でアニメや映画が見放題のサービスがあったら10000%受験に失敗していたので、なくてよかったな、というところにいつも落ち着きます。Twitterも同様に、受験期にTwitterがなくてよかった。今の受験生は誘惑を振り切るのに大変だろうなあ。英語学習とか情報共有とか、有効に活用できる子はいるのでしょうけど、ごく一部だろうなと思います。私はおそらく大学受験期にTwitterが一般的でなかった最後の世代なので、そういう意味では「いい時代」に生まれたのかもしれない。とにかく誘惑に弱い。マシュマロ・テストとか全然我慢できる気がしない。


f:id:noi_chu:20190725210224p:plain


さてドリフェス!です。このあと追加でいただいた追いマシュマロでとりあえず4話までみてねとのことだった(ありがてえ)ので、とりあえず4話まで視聴しました。ネタバレらしいネタバレはないけどいろいろ遠慮がないので注意してね。

私の周りにはいろんなオタクがいまして、特に舞台・観劇ジャンルに限って言えば、ヅカ、四季、アイドル、歌舞伎、2.5、などなど、本当にイカれた多彩なメンバーが揃っているのですが、その中でも私がいつも何となく文化が違うなと思っていたのが「アイドル」オタクの皆さんでした。AKB、ジャニーズ、KPOP、アイドル育成コンテンツ、若手俳優など。共通点は、「応援する」という行為に比重がかけられているところです。すなわち「アイドル」は「育てる」ものであり、「育てる」行為こそがオタクをオタクとして存在せしめている。
この思想が、私にはどうしても相容れない。

私はこれを、私の観劇オタクとしてのベースが劇団四季にあるからだと考えました。私は少なく見積もっても100回は四季の舞台を観ていますが、四季の役者がセリフを噛んだり、飛ばしたり、振りを間違えたりしているところを、(もしかしたら気づいていないだけかも……というのはさておき、)一度たりとも見たことがない。まじめなシーンでニラミンコのかつらが吹っ飛ぶとか、不可抗力のトラブルこそあれ、練習不足が伺えるような瞬間というのを本当に見たことがないんです。

そういう舞台を当たり前に見ていたので、自然と「役者は100%の状態で舞台に上がるもの」という期待が形成されています。役者は完成された状態であらわれるので、私の側に「舞台に上がれるレベルになるまで」の役者のストーリーを受容し楽しむという発想がない。アンサンブルばかりやっていた推しがプリンシパルにキャスティングされた瞬間などは膝から崩れ落ちるくらい嬉しいんですが、推しの成功や躍進の陰にファンの姿はなく、ただただ役者の努力だけがある。役者の皆さんはいつも「お客様の応援があってこそ」とおっしゃるが、客ができることはお金を出して彼らの日々のたゆまぬ努力や美しさやきらめきを購入することだけ(差し入れをする人もいますが。四季の出待ちは個人的にゆるさんぞ!!!)で、私の意識の中ではなんとなく、役者は客とは隔てられた場所にいて、基本的にアンタッチャブルな存在なんです。

私だけじゃなくて、ふだん幅広くミュージカル(500席以上のハコでかかる舞台)を見ている層って、この傾向が強いんじゃないかなと思います。たとえばミュージカル俳優ではないタレントが帝劇の舞台なんかに立つとだいたい批判が出るし、聞いた話では、とある人気演目のダブルキャストの片方が、あまりに歌が完成されてないので、舞台のヤマのひとつであるはずのソロナンバーのあとに拍手がまったく起こらなかった、なんてこともあったようで……。

というわけで、予備知識ゼロでドリフェス!を観始め仰天しました。「5次元アイドルプロジェクト」ってなんだ? と思いつつ。

し、し、素人・・・!!???
すごい、ものすごい、あっぱれなくらい、声優が、素人・・・・・。
観ながらだんだん情緒が不安定になってくるくらい、素人・・・・・・・・。

どういうことだよ・・・・・・と気が遠くなりつつも観続けると、たしかに徐々に、徐々に違和感はうすれ、それが声優が成長しているのか私の耳が適応し始めているのか、正直よくわからないながらも、ああ頑張っているんだな、彼らも努力しているのだな、というのがわかってくる。このへんで軽くググったりウィキったりすると、彼らが本当に声優としてはキャリアゼロで、舞台役者としてもまだまだ駆け出しだということが判明。(唯一、純哉くんの声だけ知っていましたが、『ボールルームへようこそ』の賀寿くんも、わりとちょっとアレだったな……と思い出したり……。)
なるほど、「2次元」のアニメキャラである彼らと、「3次元」の若手俳優である彼らをまとめて「5次元アイドル」なのか、と。2次元の天宮奏くんたちの成長と3次元の石原壮馬くんたちの成長がオーバーラップする構造になっているというわけなのであった……。

正直、本当に、正味な話、声はまずどんなに頑張ってもちょっとじょうずな素人だし、歌も特別うまくないし、ダンスも「あ~3Dモデルが動いている~」という感じだし、曲も歌詞も振り付けもおしなべてダサイし、これをどう楽しめば? という感じで、だんだん本当に気が遠くなってきて、あ~やっぱり私にアイドルコンテンツは無理なんだ、成長するのを待ってる余裕なんてないんだ、せっかちだし、マシュマロ・テストは我慢できないし(←別問題)、not for meでした、センキューグッバイ・・・・
と、心を閉ざしかけたところで、ふと、画面の中で誇らしげに踊る彼らを見て、私の脳裏に過る光景がありました。


IZ*ONE_Dear My Friends + INTRO + Memory│2018 MAMA FANS' CHOICE in JAPAN 181212

PRODUCE 48。
2018年の夏、偶然録画されていたこの番組をなんとなく観始めた私は、日本人と韓国人の女の子たちがともに夢とプライドを掛けて、一生に一度の挑戦に命を燃やす、その熱、いたましさ、ひたむきな姿勢に撃ち抜かれてしまいました。まだデビュー前のひよっこ練習生であるところの彼女たちは先生たちに何度も何度も叱られ、ダメ出しされ、「どうしてここにいるのかわからない」とか「何をしているのかまったく理解できなかった」とか煽るってレベルじゃねーぞ! という真顔コメントにひたすら耐え、それでもデビューを果たすため、最後の12人に選ばれるために何度でも立ち上がる。
当時、仕事が鬼のように忙しく、キツく、当たり前みたいに遅くまで孤独に残業し、土曜も仕事をし、日曜はまったく気が休まらず、朝起きた瞬間に「うわっ朝が来てしまった・・・・・来るなよ・・・・マジ・・・・・」と絶望するという毎日を送っていたのですが、毎週プデュを観ながら練習生の子たちといっしょに泣き、笑い、喜び、どんなに仕事がきつくても、「チェヨンちゃんやカウンちゃんが頑張ってるんだから私もがんばらなきゃ・・・・・」と気力を振り絞って、なんとか最もヤバイシーズンを、彼女たちとともに生き抜いたのでした。IZ*ONEがFNSに出演したときは本当に本当に嬉しかったな~~~。


そして気づく。私、アイドルコンテンツ、普通に楽しんでたじゃん!! 楽しむどころか、生きる糧にしてたじゃん!? チェヨンちゃんが笑うから私に明日があったじゃん・・・・・・???
そしてもう一つ気づく。私がずっと消費してきたのは「完成品がいきなり出てくる」コンテンツだった。私はただ、チケットを買ってそれを遠くから目撃するだけ。でもアイドルは始めから終わりまで、ファンとともにある。ずっと近くにいて一緒に歩いてくれる。「応援する」「育てる」ということにどうしても抵抗があったけど、きっとアイドルって、ファンが推しのために出来ることというのが、たくさんたくさんあるんだなあ……。それはそれで、とっても素晴らしく、うれしいことかもしれないな……。
と、いままで何だかんだと理由をつけて敬遠していたアイドルコンテンツの魅力というか、楽しみ方が、ちょっと分かったような気になったのでした。


ただ、最後にドリフェス!に話を戻すと、これは、これだけは本当にどうしようもないことだと思うんですけど、ふだん全身筋肉みたいな生身の人間が目の前でガシガシ踊って歌も当然うまい、みたいなのを見すぎていて、3Dモデルが踊る様子も、実際に3次元の若手俳優が歌って踊る様子も、どうしても物足りなくて、やっぱりアイドル育成系のゲームやアニメはnot for meだった……。上段で「楽しみ方が分かった」とか言っててそれかよ、という感じで、なんか申し訳ないんですが、同じ広義の舞台オタクとしてアイドル・若手俳優オタクの皆さんにはシンパシーを感じるし、特に2.5舞台のチケットの渋さにはいつも心底同情しているので、お互いチケットを協力したりなどして共存しましょうね、あと特に上手なワカハイの皆さんはぜひ2.5じゃないミュージカルにおいでください、という気持ちです。

オンデマンド・レビュー『さらざんまい』

ところで、「おすすめ」されるのが苦手です。「おすすめ」されるということは、「おすすめ」してくれている人はその作品が好きで、きっと私も好きになってくれると思うから薦めてくれているわけで、何だか「うっ・・・・・」と身構えてしまいます。そのキラキラピュアピュアしたお薦めの気持ちが眩しい……。人が推しについて数時間話し続けるのとかは全然聞けるんですけど。「ね、のいちゃんも私の推し、好きになってくれたでしょ?」などと言われてしまうと、かつてカルトだと知らずにとあるキリスト教系の教団に通って聖書の読み方を習っていた頃、先生役のお姉さんに「ね、のいちゃんもこれで神様を信じるよね?」と言われて言葉に詰まったときのことを思い出してしまいます。その教団からは何度聖書を教えてもイエスを信じないということで見捨てられてしまったのですが。
それでも、人が「これは見る・語る価値がある」と思ったものは知りたい。しかし「おすすめ」されるのはキツイ。
というわけでTwitterで「他人の感想をガチで聞いて回りたくなった作品」をマシュマロで募集しております。本でも漫画でも、映画でも映画でも、映像があれば舞台でもOKです。AmazonプライムNetflixにある作品だと有難い。見て、ましな感想が書けそうだったらこうしてブログにしていきたいと思います。ホームにピン留めしてありますので、よかったらあなたをざわつかせた作品をこっそりお聞かせ願えますと幸いです。

f:id:noi_chu:20190721212700p:plain

オンデマンド・レビュー(←いま考えた)第一弾、「さらざんまい」です。ネタバレ含みます。

(クリックしても購入しても、のいには一銭も入りませんのでご安心ください)

名前自体は聞いたことあってビジュアルもどこかの駅にポスターが貼ってあるのを見たことがあったのですが勝手に「作画の良いケロロ軍曹」みたいな感じかなと思ってまったく見る気がありませんでした。「おすすめ」してくださって感謝です。

一話を見終わった時点では「えっ、何もわかんなかった!!!!!」と叫ぶ以外に特にすることがありませんでした。ちょっと世界観のクセが強すぎて、「今どきの若者はこういうわけわかんないものを面白いと錯覚するのか? さすが箸が転がっても面白い年頃じゃな……」と老害ismに走りそうになってしまったくらいなのですが、二話、三話と見続けるほどに、だんだん脳がこの「気の違ったプリキュア」ワールドに適応し始め、少しずつこれがどういう物語なのかわかってきました。
というか、だいたいプリキュアなんですよね。少年たちには守りたいものがある。つながりたい人がいる。それを脅かすものを倒し、大切なものを守るために彼らは変身する。異界の力を手に入れる。それにはリスクがともなう。最終的に彼らは一皮むけて成長する。ただ、いちいち癖が強いだけで……。
皿は「円」であり「生命」の「器」である。「生きること」とはすなわち「欲すること」である。この考え方すごい面白いですよね、『生物は遺伝子の乗り物』ならぬ『人間は欲望の乗り物』というところでしょうか。人間ひとりの単位で見れば「始まりも終わりもある」んだけど、人と繋がりをつくることで、幾多の「始まり」と「終わり」が限りなく接近し、いつか「円」になるわけです。最後に割れたサラちゃんのお皿や川に飛び込むトオイは「小さな死」を意味してるんじゃないでしょうか。生きることはつまり、少しずつ死んでいくことで、同時に少しずつ新しくなっている。異界とまじわって「ちょっと死んだ」彼らは、たとえどんな悲痛な未来が待っていても、生きる限り自分は何かを欲し続けるんだということ、そして生きている限り誰かと繋がり続けるんだということを学びました。そしてそれは自分が選ぶのだということも。それはつまり生命のエネルギーを得たということで、意地汚く見苦しくも生にしがみつくことを肯定する、メチャメチャ前向きで社会的なメッセージだったと思います。
繰り返し出てくる「橋」や「川」のモチーフもすごく効果的で、単に河童の生息地が川だし舞台が浅草だから、というだけでなく、あちらとこちらの境界線としての川、イニシエーションとしての川、禊としての川、と、深読みすればなかなか考察が捗りそうな感じで、まあ私にそんな知識もないので「民俗学っぽいぜ」と悦に浸るだけで終わっちゃうんですけど。
結局カワウソって何だったのかよくわからないし、敵を倒すためでなく尻子玉を転送する(????)ために秘密の漏洩が必要なのもいまいちなんでだよという感じだし、ケッピの絶望がそもそも悪いんじゃないか?という気もしなくもなく、また「つながるためには(さらざんまい!するためには)知られたくない秘密を暴かれなくてはいけない」というのもそんな「私たち心友だから隠し事はナシだよ」みたいなのってどうなんだよとか、エンタのカズキへの想いの描き方が軽すぎてちょっと……とか、そのあたりは何度も見てきちんと考察・批評してるブログがほかにあると思うので、私のほうで深く考えるのはやめておきます。


全11話を見終わり「カワウ~~~ソイヤァ~~~」と口ずさみながらネット上の反応を見ていて、すごく興味深いなと思ったんですけど、「最終話死亡説」で軽くひと悶着あったみたいですね。
死亡説とか死神説で有名なのはトトロで、もちろんそれに言及して「あの物語から何を受け取ったの???」とガチギレしている人を見かけたのですが、気持ちすごくわかります。私も〇〇〇〇〇〇という作品のメインの二人でラブラブエッチな同棲妄想みたいなことをしている人を見て「あの作品を見て出てくるのがそれか?? お前は義務教育の国語の授業を辞書に載ってるエッチな単語に片っ端から下線を引いて過ごしていたのか??」とイライラしたり……これはぜんぜん違うお話でしたね。いやでもあの二人でラブラブエッチはねーよ頭沸いてんのか?
気を取り直してさらざんまいですが、カズキとエンタは既に死んでいてトオイは自殺……というのはよく考えなくてもトオイが11話かけてカズキやエンタから受け取ったことが全部ブチ壊しというか人生ゲームに猫が乱入してグチャグチャにされて全部やり直しみたいな感じだと思うんですけど、きっと死亡説に面白みを感じてしまう層というのは、「博士の愛した数式」に出てくる博士みたいに記憶が10分程度しかもたないんだと思います。そりゃ10分の単位で見たら死亡説は面白いです。宗教画のパロディとか思わせぶりなセリフとか。しかしそれも11話という長期スパンで見ると一瞬で意味をなさなくなる。でも彼らは10分で記憶がなくなってしまうので、短いスパンでしかメッセージを受容することができない。「全体」を俯瞰して、何が起きていて、何を伝えてくれようとしているのか、分からないというか、そういうことに全然興味がないんじゃないでしょうか。
私はそういう見方をする人をつまんないし勿体ねーなと思いますが、それは私が私の見方を唯一無二で絶対に正しい(私が思うんならそうなんだろう。私ん中ではな。)と思っているからで、「私の見方が一番正しいんだ! 死亡説なんてクソだ!!」とFF外から乗り込んで相手を否定する資格なんかもちろんありません。というか「100%正しい解釈」なんてどこにもありません。多分、幾原監督の頭の中にだってないでしょう。私がこれまで2000字近く使ってえらそうに書き散らしたものだって「お前はなにを言っているんだ」レベルの妄言である可能性さえあります。
それでも「70%くらいはまっとうな解釈」というのは、その作品が一定の質を有する限り、どの作品にもあるというのが私の持論です。そして作品をフラットに眺めて、社会的な意義とか、芸術的な価値とかについて考えるとき、「70%まっとうな解釈」にたどり着いていることは大前提として、受け取り手に要求されてしかるべきことだと思うのです。もちろん暇なスキマ時間を潰すために適当に流し見して「トオイくんの夢女になりて~」とか呟く、という見方だって否定されるべきではないし、繰り返しになりますがそもそも作品なんてリリースされた瞬間に見た人のものになってしまって、その人の頭の中にどう取り込まれるか決める権限なんか誰も持ってないんですが、「70%まっとうな解釈」に一所懸命たどり着こうとする行為って、結局製作者への敬意の現れなんじゃないかと、私は思います。あとめっちゃ楽しいしね。ラブラブエッチ妄想の人も楽しいことは楽しいんでしょうけど……。イライラするのでやめておきましょうね。

さらざんまいの話をぜんぜんしてませんが、今後もこんな感じで感想を書いていけたらと思います。

っていうかハッパ育てて生計立ててる男子中学生サイコーでは?

高校をやめて図書館に通っていた頃の話 ――トロブリアンド諸島の夢

春が来るたびに思い出すのは、一冊の本のことだ。
それはうちの近所の図書館の、薄汚れて擦り切れた古い蔵書の一冊で、私はそれが何階のフロアのどのあたりにあったかまで鮮明に思い返せる。
いつまでも胸に残る金言が記されていたわけでもない。目を見張るような美しい挿絵がはさまれていたわけでもない。
それでも、その記憶は今もなお私の深いところにあって、私の心を救ってくれる。


f:id:noi_chu:20190326193314j:plain
宮古島の夕日。


実は私は高校を出ていない。
厳密に言うと、高3まで通ったが、卒業できなかった。
どうして学校に行けなくなってしまったのか、今となってはよく思い出せないし、どの病院に行っても病名は結局つかなかった。いじめられているわけでもなんでもなかった。友達はたくさんいたし、部活なんか意味もなく4つくらい入っていた。
あの頃の私に何が起こっていたのか、ちょっとセンセーショナルすぎて書くのが憚られるのだが、教室に入って授業が始まると、頭の中がとにかく殺意でいっぱいになってしまうのだった。これは高1の秋くらいから前触れもなく始まった。前の席の奴の脳天に手元のシャーペンを勢いよく突き立てる妄想が頭から離れないので、もはや先生のお話どころではなくなってしまう。もちろん成績はガタ落ち、テストの順位はほとんどクラス最下位だった。
そんなこんなで、高2の5月頃からいわゆる五月雨登校になり、高3に入ったころには教室に入らず、保健室で自習をするようになった。
ちょっとした進学校だったせいか、保健室登校はあまり歓迎されなかった。昼休み、お弁当を友達と食べようと廊下を歩いていたら、学年主任に「保健室登校中なのに、構内をウロウロするのはちょっと」と小声で言われた。また、担任は自分のクラスに不登校の生徒がいることが恥ずかしくてたまらないようで、詳細は伏せるが地味な嫌がらせを受けた。そういう細かなことが重なって、高3の秋から私は学校に行くのをすっぱりやめた。つまり、高校を卒業することを諦めた。
苦労して入った第一志望の高校を辞めるには勇気が要った。それでも私は退学を選んだ。留年までして卒業に固執するよりも、高卒認定(いわゆる大検)をとって早く大学に行ったほうが精神衛生によさそうだという判断だった。


学校に行くのをやめた私の、一日のスケジュールはこんな感じ。
朝、8時起床(舐めくさっている)。母が作ってくれたお弁当を持って、制服を着て、近所の図書館に一番乗りする。学校に行くわけでもないのに制服なのは勿論ラクだからである。毎日毎日図書館に来る謎の高校生に、何も言わず閲覧室のデスクの利用票を渡してくれた図書館の方には本当に頭が上がらない。
図書館の資料を使わずに自習していると叱られるので、地図帳なんかをあてつけがましく机の隅に広げながら、昼過ぎまで勉強。
1時過ぎに、通っていた小さな塾の自習室が開くので、電車で移動し、お弁当を食べる。ひとりぼっちでひたすら自習。
4時を回ったくらいから学校を終えた塾の仲間がやってきて、いっしょに講義を受ける。近くのスーパーにカップ麺をみんなで買いに行くのが数少ない楽しみだった。10時になる前に帰路に就く。10時半帰宅。12時に就寝。
当時の私の日記にはこう書き残されている。「受験のことだけ、私のことだけ考えてればいいから毎日しんどいけどハッピー」。
塾の講義を受けている間、例の殺意の発作は一度も起きることはなかった。


毎日そうやって10時間強を受験勉強に充てていたわけだが、ひとりで黙々と進めるにも限界があって、わりと頻繁に飽きが来る。飽きたなあと思ったとき、私は素直に作業を中断して、図書館の館内をウロウロし、蔵書を物色することにしていた。特に社会学の棚が好きで、文化人類学という学問領域があることをそのとき初めて知った。
ある日、何となく手に取った本に、トロブリアンド諸島の住民について、マリノフスキーという文化人類学者が研究したことが書いてあった。
トロブリアンド諸島とはニューギニア島の東にある小さな島々の総称で、そこでは古くから「クラ」と呼ばれる儀礼的な交易がおこなわれているのだという。簡潔に言うと、そこの人々はカヌーに乗って、ただの貝で出来た首飾りと腕輪を、首飾りは時計回りに、腕輪は反時計回りに、隣の島に運ぶ。そして返礼の品を受け取り、自分たちの島に帰ってゆく。このクラはたいへん危険な旅で、それに加わること自体が名誉であり、英雄的な行為だ。人々はその装飾品といっしょに、それにまつわる、かつての英雄たちの歴史と物語とを語り継いでいく。そうやって人々は繋がり合い、混ざり合って、命を紡いでいく。


それを読んだとき、私は「ああ、もし将来私が本当にダメになったら、トロブリアンド諸島に行って、クラ交易に参加しよう」と、わりと本気で心に決めた。


当時の私のステイタスは実質『中卒』であった。大学受験さえ成功すれば、日本の大学は入るのは難しくても出るのは簡単だといわれるので、きっと卒業までなんとか漕ぎつけられるだろう。しかし受験に失敗すれば、私は『中卒』のまま、もしかしたらショックで引きこもりになってしまうかもしれない。つまり私はそのとき『中卒引きこもりニート』と『まともな四大卒』のルート分岐点にいた。これは私にとって相当な精神的負荷となっていた。
しかし、『トロブリアンドショック』を受けて、私はひとつ大きな気づきを得た。
たとえ中卒メンヘラニートだろうが、はたまた有名大卒バリキャリOLだろうが、トロブリアンド諸島に行ってしまえば、そこでは「隣の島に貝のネックレスを届けた人」が偉いのだ。私は体力にはそんなに自信がないが、お話を書いたり詩を書いたりするのは得意だし、絶対音感まで備えているので、きっと良い吟遊詩人になれるだろう。過酷な旅を終えた私は砂浜に腰下ろし、ネックレスを大切そうに手で撫でながら、伝説の中の英雄たちについて歌った唄を、コーヒー色の肌の島民たちに聞かせる。私の歌声は波打ち際で弾ける飛沫に溶けて、いつか世界の海を巡るだろう。
そういうことを考えたら、今まで私を縛っていたものがスッと、お祓いしたみたいに消えていく心地がした。


精神科に通院し、精神安定剤を服用しながら受験するという、なかなかクレイジーな挑戦だったが、結果としては第一志望の大学に合格し、晴れて私は年齢的には現役で大学生になることができた。
こんな状態の私が大学に合格することを、家族も友人も、後で聞いたが塾の先生さえも、(私以外の)誰も信じていなかったが、やはり周りの人が学校の授業を受けている間、ひとり静かに受験のための勉強に専念できたことが功を奏したのだと思う。


私のこの図書館でのエピソードを読んで、「は? それがどうして心の救いになるの?」と混乱する人も多いだろう。私が言いたいのは、つらくなったらトロブリアンド諸島で貝殻を運びましょうね、ということではない。人は誰しも、他人とは共有できない、その人だけのファンタジーを持っていて、ままならない毎日に擦り減っていく魂を、その虚構世界に癒してもらっているということだ。それは幼いころ家族と過ごした夏のキャンプ場かもしれないし、電気屋の店頭に置かれたテレビに一瞬映された異国の青年の横顔かもしれない。何がその人にインスピレーションを与えるかはその瞬間まで誰にも分からない。それが、私の場合はあの日の図書館の文化人類学の棚だった。
あれから、他人の脳天にペンをブッ刺したい欲求はきれいさっぱり消えてくれたものの、私はお世辞にも、情緒の安定した立派な人間になったとはいえない。ただ、時々うんざりしたり全部放り出しそうになったとき、ふと都会の喧騒の狭間から、あの音が聞こえてくる。一生行くこともない、そもそも実在しない、私の内的世界の大海にぽっかりと浮かび、揺れる、あの島に寄せる波音が。