母親という存在について、私はここ数年、意図的に思考停止をしてきたように思う。生活の中でさまざまな選択をしていくにあたり、私は母親の存在を考慮に入れることをしなくなった。疎遠になったわけでも、ましてや絶縁しているわけでもなく、昨年新しく柴犬を迎えてからなんて毎日のように写真が母からLINEで送られてくるし、それに対して私も「世界一かわいいちゃんだわ~ん」とか「おしゃんぽ行ったかわん?」とか反応を欠かさないので、むしろ学生時代と比べてもコミュニケーション量は増加している。それなのに、私は「ママとは友達です」とは口が裂けても言えない。きっと一生言えない。
多分、私にとっての母親は大きすぎて、複雑すぎて、永遠に解けそうにない長々とした計算式のようで、私は幼いころからいつもその難解さを持て余していた。母の事をどう思えばいいか分からなかった。特に私が家を出てから、母は何を思ったか突如として親戚の優しいおばさんのような立ち位置にシフトしてきたので、私はその問いをずっと留保したまま今日まできてしまった。
正直なところ、小学生みたいな言い方になってしまうが、私は母はすごい人だと思うし、いい人だとも思う。国家資格を持ってフルタイムでバリバリ仕事をしていて、もう何年も管理職をしている。お調子者で、馬鹿馬鹿しいことが好きで、隙あらばひとりで歌ったり踊ったりするところは私にとてもよく似ている。常に最悪の事態を想定する私の性分はおそらく母から受け継がれたもので、たとえば友人が5分連絡なしに約束に遅れると「〇〇線 事故」などでツイート検索したりして万一友人が事故で亡くなっていた場合にいちいち備えてしまう(というのはさすがにエクストリームな例ですが)。そういうところで私は本当にI'm my mother's daughterだなと感じる。
一方で母は、私のやることなす事すべて一旦否定しないと気が済まないが、それを彼女は『母親としての重要な役割のひとつ』だといつも豪語している。私は何か新しいことを始めるとき、全く根拠もないのにぼんやりと「できるんじゃん?」と思ってしまうタイプの能天気な人間だが、私が「〇〇をしようと思う」というような発言をした時の母の反応は決まって「あんたみたいな人が〇〇なんて絶対にできるわけない」だ。一番古い記憶が「あんたみたいな人が一年生の子をお世話なんかできるはずない(小学校の記憶)」で、以下「一年生~お世話」部分を塾通い、高校受験、厳しい部活、大学受験、大学通学、海外旅行、独り暮らし、大学院進学、留学、就職、仕事、資格取得……に挿げ替えたものが断続的に続けられる。「いいじゃない、やってみなさいよ」と言われたことは神に誓って一度もない。
しかし能天気な私はそう言われてもやらずにいられないので、「無理」「後悔する」「やめておけ」「死ぬぞ」「あんたなんか私の娘じゃない」などの刺々しい言葉を背中に受けながら結局、実行に移してしまう。そうしてそれが軌道に乗ったり何とか成功したりすると、ここで母は突然神様のように協力的になる。塾から帰った私のために夜食を用意してくれた。○○大なんか何浪しても無理、と言いながら受験料を払ってくれた。バイトが遅くなった日は駅まで車で迎えに来てくれた。日本からNYに向けてα米を送ってくれた。一人暮らしで使う家電を品定めして値切ってくれた。私は突然のハイパー菩薩タイムに多少ビビりながらもそれを遠慮することはなかった。いつもそうだった。
しかし、この、ハイパー菩薩タイムに突入するまでの悪魔のような母の姿とその口から吐かれる呪詛があまりにも恐ろしいので、随分長いあいだ、私の中の"母親"のイメージはメドゥーサの如き禍々しい様相を呈していた。それが嫌で苦しくて半ば家出同然で実家を飛び出してから、冒頭で言った通り私はなるべく、なるべく母親の事を考えないようにしてきた。どうしたって被害者ぶりたくなってしまうし、自尊心をダイレクトに傷つけるべく発されたとしか思えない罵詈雑言を数えきれないほど受け続けて疲れ果てていて、いくら頑張っても許せそうになかった。そもそも、『誰かに何か酷いことをされた自分』を認識すること自体がまずしんどいことに違いなかった。周囲の人は菩薩タイム中の母の姿しか知らないので、私が母に何を言われたと訴えようと信じてもらえない。母は母で、私が視界から飛び出していったことによって心の中の何かが吹っ切れたのか、よく分からないが突然丸くなった。私を否定するようなことも言わなくなって、まるで牙を抜かれたようになってしまっていたので、余計、あの恐ろしい日々は私の脳が作り上げた妄想だったのではないかと思ったくらいだった。
そして今日、ふらふらと歩いていたら、本当に何の前触れもなく、雷が落ちたみたいに、私はハッと、「あれ、もしかしてうちの母って、良い人なのでは?」と思った。意味が分からないと思うが私にも全然分からない。たぶん神の啓示をうけたマザー・テレサやジャンヌ・ダルクも直後はこんな気持ちだったろうと思う。
『ハイパー菩薩タイム』などと茶化して皮肉っていた、あのときの母は本当に協力的だった。母が助けてくれなかったら最後までやり遂げることのできなかったことがたくさんある。刺々しく文句を言いながら、呪詛を吐きながら、いつも母は私の味方だった。どうして今まで気づかなかったんだろう。いや、気づくわけがない。棘が鋭すぎて、その棘に包まれた母の献身を、私はいままで一度だって真正面から認識できていなかったのだ。
そして私は思った。「いや、うちの母さん、子育て下手すぎでは? ってか不器用すぎでは!??」
母は私の決意を一度ひん曲げてやることによって私を強くしてきたと思っているのかもしれないが、私はそのたびにきっかりしっかり傷ついて挫かれていやんなってしまってきたので、あれさえなければもう少し素直で明るい人間になっていたと思うし、母親をメドゥーサに喩えるような娘になっていなかったはずだ。実家を出て丸3年、母の日から数日遅れて、(なんか知らんが突然)私はやっと母が私にしてくれたことを真っ直ぐな気持ちで受け止め、感謝できるようになった。しかし分からない。どうして母はあんなに非効率とも言える子育てを実践していたのか。彼女をそんなダークな子育てへ駆り立ててしまうほどに彼女の娘は出来が悪かったのか。母自身は私に対して繰り返し言ってきたことをどう思っているのか。聞けるわけない。
というわけで謎は残りつつも、頭の中でまとめられたこと、理解できたことだけ、せめてもの思いで書き残しておく次第である。