on my own

話し相手は自分だよ

6月28日の日記

この間、パスケースを落とした。パスケースの中には定期の他に職場のセキュリティカードが入っていて、私はそのために筆舌に尽くしがたい思いを味わった。財布も携帯も鍵も一度も落としたことなんかなかったのに、あの一瞬のせいで私の人生は、職場のセキュリティカードを落とした迂闊で間抜けな人生へと塗り変わってしまった。
その前には、よく利用していた家具のネット通販サイトから私のクレジットカードの番号が流出し、その結果、深夜0時にお風呂から上がってスマホを見たら4万5千円の利用通知メールが届いているという怪事件にまで発展した。実家に財布を置き忘れて近所の知り合い宅に金をたかりに行ったのは先々週の夜更けのことだ。極め付けに、先日階段をたったの三段転げ落ちてしたたかに打ち付けた肘が未だに痛い。



こんなにも不運が続くのも人生史上稀に見ることだったので、先週末、明治神宮にお祓いに行った。なぜ明治神宮かと言うと、もはや観光地化されていてお出かけするだけで楽しそうだったし、何より大抵の神社が「一万円から」と設定する初穂料が五千円スタートでたいへん良心的だったからだ。たったの五千円でどれだけ私の厄が祓われたのか数値化してくれるガイガーカウンターが入り口に設置してあればよかったのだが、そんなものは未来永劫開発されそうにないので、まあ気持ちの問題だよな、と思いながらお札を持って帰った。お札はベッドフレームに立て掛けるようにして置くことにした。毎朝毎晩、二礼二拍手一礼をするほど熱心ではないものの、目が合えば一礼くらいはするようにしている。



どこで見かけたのか忘れてしまったが、日本人の宗教観について、「日本人の言う『無宗教』とは、特定の宗教的組織に属していないこと」という記述を読んで、なるほどそれだと膝を打った。
日本人は宗教的でない、という言説を見聞きするたびに、それは絶対に違う、誰もお守りを踏めないし鳥居を蹴っ飛ばせないはず……と悶々としていたから、雲が晴れたような心地だった。社訓が独特で社長のパワーが強い企業などを、私たちは「宗教っぽい」などと形容したりする。宗教=【共通のルールに従う人の集合】そのもののことだと理解しているからこその表現に違いない。



教祖が国際指名手配されたとあるカルト教団の信者女性のところに1年通って聖書の読み方を習った話はまた別の機会に回すとして、私の見たところ、小さな集団(この"小ささ"は敷地面積や規模の大小ではない)を敬遠する人々にほどなく近いところに、そのような組織の中にようやく心の安寧を見出す人々というのも確かに存在する。また、「シューキョーなんて気持ち悪い、まっぴら」などと豪語する人がまさしく『宗教的』な集団や活動に入れ込んでいるケースも珍しくなさそうだ。そういう人たちを、いかに集団の狂気から遠ざけるかが、現代日本社会の課題である。みたいなことを村上春樹が言っていた。(私は村上春樹のことは「やれやれ、僕は射精した」くらいしか知らないけど、彼のオウム真理教についてのルポルタージュやエッセイはすごく好きで何度も読み返している。)
お守りは踏めないし鳥居は蹴っとばせない人たちが、1日5回礼拝するムスリムを見て「厳しい宗教だ」という感想を抱く。「職場のセキュリティカードを落としてしまったり、不運が続くので、明治神宮で五千円支払ってお祓いをしてもらった」という冒頭の文章を読んで、まったく違和感を抱かなかったのだとしたら、その感性はたいへん"宗教的"だと言わざるを得ない……かもしれない。