パッドマンと「正しさ」について
就活の面接でよく聞かれるとされる質問に「あなたの尊敬する人」というのがある。私はついぞ聞かれなかったが、もしこの質問をされたら、「インドで生理用ナプキンを作ったおじさん」と答えようと固く心に決めていた。
おじさんのことを知ったのは、大学生のころに偶然目にしたブログ記事からだったと思う。彼は小さな村の貧乏な一般家庭の出の、妻を愛する普通のインドのおじさんだ。彼の何がすごいのかと言うと、いまだ生理がタブー・禁忌・穢れとされるインドで、衛生的な生理用ナプキンを誰でも製造できる機械を開発するのみならず、その地域の女性がみずからナプキンを製造販売し利益を得るシステムを発案し、女性の自立と人々の啓蒙に貢献した。大統領から栄誉ある賞を賜り、国連やTEDでスピーチを披露するなど、今や世界中から称賛の声鳴りやまぬスーパーヒーローなのだ。
もちろん最初から順風満帆に事が進むはずもなく、妻に逃げられ、村から追ん出され、なかなかに散々な目に遭うのだが、彼はそれでもくじけず「正しさ」へと向かって、結果、多くの女性を救った。ひととおりのストーリーを読んだ私は感動に打ち震えた。当時、就活、というか、どう働くべきか、みたいなことに悩んで行き詰って、毎日毎日鬱屈としていた私の目に、おじさんは聖人君主のように見えた。
その「ナプキンおじさん」が『PAD MAN』という映画になったので、さっそく観に行った。
映画そのものの評価はたくさんの人が文章にしているので、あえて私は細かいことを言うつもりはない。素晴らしい映画だった。あのおじさんの話を、お堅いドキュメンタリーにするのではなく、ボリウッドムービーの明るさ、楽しさ、老若男女みんなに伝わる明快さで表現してくれたことを心から嬉しく思う。
ちょっと話は逸れるが、前に私の恩師がしてくれた話があって、「地形としてはたいへん珍しいがなかなか観光資源として生かし切れていない渓谷がある。ここに人を呼ぶにはどうすればよいか」という問いを、トップ大学とFラン大学のそれぞれのゼミで問いかけたところ、トップ大学の学生は「その渓谷の価値や歴史がよくわかる資料館を建てる」と答え、Fラン大学の学生は「でかいバンジージャンプを作る」と答えた。私はこの話が大好きでよく引き合いに出すのだが、「楽しさ」が人に与えるパワーというか訴求力は決してバカにできない。楽しければそれは勝手に続くし、人はどこからともなく集まってくる。
もちろんこの世のすべてのものがコンテンツとして面白おかしいものである必要はない。それでも、「ナプキンおじさん」は「インド映画」に翻案されて然るべきものであったし、それ以外はありえなかったと断言できる。ありがとうインド。ありがとうおじさん。これを読んだ人でパッドマン未見の人は今すぐ観に行ってください。
私がおじさんをすごいと思うポイントがもうひとつあって、それは他者へと向かう想像力だ。だっておじさんに生理は来ない。月に5日、お腹が痛くて、股の間から血が出続けて、部屋には入れてもらえず、学校にも仕事にも行けず、黙って耐えていることしかできないインドの女性たちについて、今まで誰もきちんと想像して、慮ってこなかったから、21世紀にもなって映画冒頭のような状況がまかり通っていたのだ。
……と、映画を見るまでは思っていたのだが、実際におじさんがしたことを映像で見せられると、実はおじさんにそんな想像力なんて大してなかったんじゃないか? と、思わずにいられなくなってしまった。
どういうことかというと、本当に妻の気持ちを「想像」できるなら、恥ずかしさのあまり号泣された時点でナプキン作りを完全に諦め「君に毎月ナプキンを買えるほど稼ぐ男になるよ」となるべきだし、女子医大の校門に張り付いてナプキンを配ろうとする姿はけっこう怖い。女子学生たちは少なからず恐怖を覚えたはずである。私だったら通報してる。
人に寄り添い、助けになるのに、「想像力」…つまり、「相手の気持ちがわかること、わかろうと努力すること」は、そんなにも大切だろうか?
結局、おじさんがすごかったのは、「自分が正しいと思うことをやり続ける」という点であり(それを「強さ」と呼ぶのではないかと私は常々思っている)そのおじさんの「正しさ」は世界基準のリベラルな「正しさ」に思いっきり合致していた、だから彼はスーパーヒーローになりえた。
「自分が正しいと思うこと」は、必ずしも「みんなが正しいと思うこと」や「Aさんが正しいと思うこと」と一致せず、そのミスマッチはときに相模原の事件のような悲劇を生む。強さ=正しさではないことはこのことからも自明である。渋谷の交差点で100人に聞いたら100通りの正しさがあるわけで、社会とかいうものはこの「正しさ」を、なんとなくそれとなくすり合わせて妥協しあって暮らそうとする人たちの寄り集まったものでしかない。
おじさんの「正しさ」は世界を揺り動かした。そこに「想像力」は必要なく、ただおじさんの「強さ」があった。
母の友人の娘さんに、ゆりちゃんという、二十代半ばの心優しい女の子がいて、彼女はその繊細さからどこに行ってもうまくやることができない。学校もバイトも、がんばりすぎて、うまくやろうとしすぎて、すぐにダウンしてしまう。今は両親の自営業を手伝っているが、彼女と会うたびに、彼女が焦りを覚えていることがひしひしと伝わってくる。
そんなゆりちゃんだが、お姉さんもお母さんもお父さんも、みんなゆりちゃんのように心優しく、ひとの気持ちを思いやれる人たちなので、いつも「ゆりのペースでやればいいのよ」と言っている。私はそれを真綿で首を絞めるような行為だと思いながらも咎めることができない。私としては、刺身にタンポポを乗せるような仕事でもいいので、ハードルを下げに下げてでも何かを始めたらいいと思うのだが、私はゆりちゃんの気持ちのしんどさやつらさがよく分かってしまう、保健室登校経験者であり、ゆりちゃん側の人間なので、「どの口がよくも」と考えてしまって、ゆりちゃんにハッキリともの申すことができない。
今回パッドマンを一緒に見に行ってくれたT女史は、ある意味でオーガニックなティーンエイジを過ごしたので、ゆりちゃんのような人の気持ちがまったくわからないらしい。
「えっ、家出たら!? 派遣の単発バイトとかやればいいじゃん!? 毎日家にいるとかヤバイよ、何でもいいから始めなよ」
と、今まで誰もゆりちゃんに言えなかったことを、きっとT女史なら出会って3分で言ってあげることができるんだろう。それでゆりちゃんはきっと多かれ少なかれ傷つくのだろう。ショックを受けるだろう。でも、それでゆりちゃんが奮い立って、現状を何か変えることができるのなら、T女史は「正しさ」でゆりちゃんを導いたことになる。
「ゆりのペースでいいのよ」と「刺身にタンポポを乗せろ」では、実は後者のほうがゆりちゃんを救うことになるのなら、「他者へと向かう想像力」などというものは、いったいどこまでのリアルな効力を持つのだろうか。
クソのような不正入試や、上沼恵美子に対する蔑視発言など、うんざりするようなニュースが虫のようにわき続ける現代日本で、いま必要とされているのは、常に「正しさ」をアップデートし続ける勤勉さと、その「正しさ」を実践するエネルギーを持つ人、つまり「正論で殴る」人たちなのかもしれない。
そんなことを考えながら、その夜は終電で帰った。翌日も仕事なのに、終電まで遊ぶのは、正しくないことだとはわかっていたが、渋谷の交差点を歩く100人に99人は正しさをだいたい実践できない人であり、私もそのうちのしがない1人なのだ。