on my own

話し相手は自分だよ

高校をやめて図書館に通っていた頃の話 ――トロブリアンド諸島の夢

春が来るたびに思い出すのは、一冊の本のことだ。
それはうちの近所の図書館の、薄汚れて擦り切れた古い蔵書の一冊で、私はそれが何階のフロアのどのあたりにあったかまで鮮明に思い返せる。
いつまでも胸に残る金言が記されていたわけでもない。目を見張るような美しい挿絵がはさまれていたわけでもない。
それでも、その記憶は今もなお私の深いところにあって、私の心を救ってくれる。


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宮古島の夕日。


実は私は高校を出ていない。
厳密に言うと、高3まで通ったが、卒業できなかった。
どうして学校に行けなくなってしまったのか、今となってはよく思い出せないし、どの病院に行っても病名は結局つかなかった。いじめられているわけでもなんでもなかった。友達はたくさんいたし、部活なんか意味もなく4つくらい入っていた。
あの頃の私に何が起こっていたのか、ちょっとセンセーショナルすぎて書くのが憚られるのだが、教室に入って授業が始まると、頭の中がとにかく殺意でいっぱいになってしまうのだった。これは高1の秋くらいから前触れもなく始まった。前の席の奴の脳天に手元のシャーペンを勢いよく突き立てる妄想が頭から離れないので、もはや先生のお話どころではなくなってしまう。もちろん成績はガタ落ち、テストの順位はほとんどクラス最下位だった。
そんなこんなで、高2の5月頃からいわゆる五月雨登校になり、高3に入ったころには教室に入らず、保健室で自習をするようになった。
ちょっとした進学校だったせいか、保健室登校はあまり歓迎されなかった。昼休み、お弁当を友達と食べようと廊下を歩いていたら、学年主任に「保健室登校中なのに、構内をウロウロするのはちょっと」と小声で言われた。また、担任は自分のクラスに不登校の生徒がいることが恥ずかしくてたまらないようで、詳細は伏せるが地味な嫌がらせを受けた。そういう細かなことが重なって、高3の秋から私は学校に行くのをすっぱりやめた。つまり、高校を卒業することを諦めた。
苦労して入った第一志望の高校を辞めるには勇気が要った。それでも私は退学を選んだ。留年までして卒業に固執するよりも、高卒認定(いわゆる大検)をとって早く大学に行ったほうが精神衛生によさそうだという判断だった。


学校に行くのをやめた私の、一日のスケジュールはこんな感じ。
朝、8時起床(舐めくさっている)。母が作ってくれたお弁当を持って、制服を着て、近所の図書館に一番乗りする。学校に行くわけでもないのに制服なのは勿論ラクだからである。毎日毎日図書館に来る謎の高校生に、何も言わず閲覧室のデスクの利用票を渡してくれた図書館の方には本当に頭が上がらない。
図書館の資料を使わずに自習していると叱られるので、地図帳なんかをあてつけがましく机の隅に広げながら、昼過ぎまで勉強。
1時過ぎに、通っていた小さな塾の自習室が開くので、電車で移動し、お弁当を食べる。ひとりぼっちでひたすら自習。
4時を回ったくらいから学校を終えた塾の仲間がやってきて、いっしょに講義を受ける。近くのスーパーにカップ麺をみんなで買いに行くのが数少ない楽しみだった。10時になる前に帰路に就く。10時半帰宅。12時に就寝。
当時の私の日記にはこう書き残されている。「受験のことだけ、私のことだけ考えてればいいから毎日しんどいけどハッピー」。
塾の講義を受けている間、例の殺意の発作は一度も起きることはなかった。


毎日そうやって10時間強を受験勉強に充てていたわけだが、ひとりで黙々と進めるにも限界があって、わりと頻繁に飽きが来る。飽きたなあと思ったとき、私は素直に作業を中断して、図書館の館内をウロウロし、蔵書を物色することにしていた。特に社会学の棚が好きで、文化人類学という学問領域があることをそのとき初めて知った。
ある日、何となく手に取った本に、トロブリアンド諸島の住民について、マリノフスキーという文化人類学者が研究したことが書いてあった。
トロブリアンド諸島とはニューギニア島の東にある小さな島々の総称で、そこでは古くから「クラ」と呼ばれる儀礼的な交易がおこなわれているのだという。簡潔に言うと、そこの人々はカヌーに乗って、ただの貝で出来た首飾りと腕輪を、首飾りは時計回りに、腕輪は反時計回りに、隣の島に運ぶ。そして返礼の品を受け取り、自分たちの島に帰ってゆく。このクラはたいへん危険な旅で、それに加わること自体が名誉であり、英雄的な行為だ。人々はその装飾品といっしょに、それにまつわる、かつての英雄たちの歴史と物語とを語り継いでいく。そうやって人々は繋がり合い、混ざり合って、命を紡いでいく。


それを読んだとき、私は「ああ、もし将来私が本当にダメになったら、トロブリアンド諸島に行って、クラ交易に参加しよう」と、わりと本気で心に決めた。


当時の私のステイタスは実質『中卒』であった。大学受験さえ成功すれば、日本の大学は入るのは難しくても出るのは簡単だといわれるので、きっと卒業までなんとか漕ぎつけられるだろう。しかし受験に失敗すれば、私は『中卒』のまま、もしかしたらショックで引きこもりになってしまうかもしれない。つまり私はそのとき『中卒引きこもりニート』と『まともな四大卒』のルート分岐点にいた。これは私にとって相当な精神的負荷となっていた。
しかし、『トロブリアンドショック』を受けて、私はひとつ大きな気づきを得た。
たとえ中卒メンヘラニートだろうが、はたまた有名大卒バリキャリOLだろうが、トロブリアンド諸島に行ってしまえば、そこでは「隣の島に貝のネックレスを届けた人」が偉いのだ。私は体力にはそんなに自信がないが、お話を書いたり詩を書いたりするのは得意だし、絶対音感まで備えているので、きっと良い吟遊詩人になれるだろう。過酷な旅を終えた私は砂浜に腰下ろし、ネックレスを大切そうに手で撫でながら、伝説の中の英雄たちについて歌った唄を、コーヒー色の肌の島民たちに聞かせる。私の歌声は波打ち際で弾ける飛沫に溶けて、いつか世界の海を巡るだろう。
そういうことを考えたら、今まで私を縛っていたものがスッと、お祓いしたみたいに消えていく心地がした。


精神科に通院し、精神安定剤を服用しながら受験するという、なかなかクレイジーな挑戦だったが、結果としては第一志望の大学に合格し、晴れて私は年齢的には現役で大学生になることができた。
こんな状態の私が大学に合格することを、家族も友人も、後で聞いたが塾の先生さえも、(私以外の)誰も信じていなかったが、やはり周りの人が学校の授業を受けている間、ひとり静かに受験のための勉強に専念できたことが功を奏したのだと思う。


私のこの図書館でのエピソードを読んで、「は? それがどうして心の救いになるの?」と混乱する人も多いだろう。私が言いたいのは、つらくなったらトロブリアンド諸島で貝殻を運びましょうね、ということではない。人は誰しも、他人とは共有できない、その人だけのファンタジーを持っていて、ままならない毎日に擦り減っていく魂を、その虚構世界に癒してもらっているということだ。それは幼いころ家族と過ごした夏のキャンプ場かもしれないし、電気屋の店頭に置かれたテレビに一瞬映された異国の青年の横顔かもしれない。何がその人にインスピレーションを与えるかはその瞬間まで誰にも分からない。それが、私の場合はあの日の図書館の文化人類学の棚だった。
あれから、他人の脳天にペンをブッ刺したい欲求はきれいさっぱり消えてくれたものの、私はお世辞にも、情緒の安定した立派な人間になったとはいえない。ただ、時々うんざりしたり全部放り出しそうになったとき、ふと都会の喧騒の狭間から、あの音が聞こえてくる。一生行くこともない、そもそも実在しない、私の内的世界の大海にぽっかりと浮かび、揺れる、あの島に寄せる波音が。