on my own

話し相手は自分だよ

オンデマンド・レビュー『さらざんまい』

ところで、「おすすめ」されるのが苦手です。「おすすめ」されるということは、「おすすめ」してくれている人はその作品が好きで、きっと私も好きになってくれると思うから薦めてくれているわけで、何だか「うっ・・・・・」と身構えてしまいます。そのキラキラピュアピュアしたお薦めの気持ちが眩しい……。人が推しについて数時間話し続けるのとかは全然聞けるんですけど。「ね、のいちゃんも私の推し、好きになってくれたでしょ?」などと言われてしまうと、かつてカルトだと知らずにとあるキリスト教系の教団に通って聖書の読み方を習っていた頃、先生役のお姉さんに「ね、のいちゃんもこれで神様を信じるよね?」と言われて言葉に詰まったときのことを思い出してしまいます。その教団からは何度聖書を教えてもイエスを信じないということで見捨てられてしまったのですが。
それでも、人が「これは見る・語る価値がある」と思ったものは知りたい。しかし「おすすめ」されるのはキツイ。
というわけでTwitterで「他人の感想をガチで聞いて回りたくなった作品」をマシュマロで募集しております。本でも漫画でも、映画でも映画でも、映像があれば舞台でもOKです。AmazonプライムNetflixにある作品だと有難い。見て、ましな感想が書けそうだったらこうしてブログにしていきたいと思います。ホームにピン留めしてありますので、よかったらあなたをざわつかせた作品をこっそりお聞かせ願えますと幸いです。

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オンデマンド・レビュー(←いま考えた)第一弾、「さらざんまい」です。ネタバレ含みます。

(クリックしても購入しても、のいには一銭も入りませんのでご安心ください)

名前自体は聞いたことあってビジュアルもどこかの駅にポスターが貼ってあるのを見たことがあったのですが勝手に「作画の良いケロロ軍曹」みたいな感じかなと思ってまったく見る気がありませんでした。「おすすめ」してくださって感謝です。

一話を見終わった時点では「えっ、何もわかんなかった!!!!!」と叫ぶ以外に特にすることがありませんでした。ちょっと世界観のクセが強すぎて、「今どきの若者はこういうわけわかんないものを面白いと錯覚するのか? さすが箸が転がっても面白い年頃じゃな……」と老害ismに走りそうになってしまったくらいなのですが、二話、三話と見続けるほどに、だんだん脳がこの「気の違ったプリキュア」ワールドに適応し始め、少しずつこれがどういう物語なのかわかってきました。
というか、だいたいプリキュアなんですよね。少年たちには守りたいものがある。つながりたい人がいる。それを脅かすものを倒し、大切なものを守るために彼らは変身する。異界の力を手に入れる。それにはリスクがともなう。最終的に彼らは一皮むけて成長する。ただ、いちいち癖が強いだけで……。
皿は「円」であり「生命」の「器」である。「生きること」とはすなわち「欲すること」である。この考え方すごい面白いですよね、『生物は遺伝子の乗り物』ならぬ『人間は欲望の乗り物』というところでしょうか。人間ひとりの単位で見れば「始まりも終わりもある」んだけど、人と繋がりをつくることで、幾多の「始まり」と「終わり」が限りなく接近し、いつか「円」になるわけです。最後に割れたサラちゃんのお皿や川に飛び込むトオイは「小さな死」を意味してるんじゃないでしょうか。生きることはつまり、少しずつ死んでいくことで、同時に少しずつ新しくなっている。異界とまじわって「ちょっと死んだ」彼らは、たとえどんな悲痛な未来が待っていても、生きる限り自分は何かを欲し続けるんだということ、そして生きている限り誰かと繋がり続けるんだということを学びました。そしてそれは自分が選ぶのだということも。それはつまり生命のエネルギーを得たということで、意地汚く見苦しくも生にしがみつくことを肯定する、メチャメチャ前向きで社会的なメッセージだったと思います。
繰り返し出てくる「橋」や「川」のモチーフもすごく効果的で、単に河童の生息地が川だし舞台が浅草だから、というだけでなく、あちらとこちらの境界線としての川、イニシエーションとしての川、禊としての川、と、深読みすればなかなか考察が捗りそうな感じで、まあ私にそんな知識もないので「民俗学っぽいぜ」と悦に浸るだけで終わっちゃうんですけど。
結局カワウソって何だったのかよくわからないし、敵を倒すためでなく尻子玉を転送する(????)ために秘密の漏洩が必要なのもいまいちなんでだよという感じだし、ケッピの絶望がそもそも悪いんじゃないか?という気もしなくもなく、また「つながるためには(さらざんまい!するためには)知られたくない秘密を暴かれなくてはいけない」というのもそんな「私たち心友だから隠し事はナシだよ」みたいなのってどうなんだよとか、エンタのカズキへの想いの描き方が軽すぎてちょっと……とか、そのあたりは何度も見てきちんと考察・批評してるブログがほかにあると思うので、私のほうで深く考えるのはやめておきます。


全11話を見終わり「カワウ~~~ソイヤァ~~~」と口ずさみながらネット上の反応を見ていて、すごく興味深いなと思ったんですけど、「最終話死亡説」で軽くひと悶着あったみたいですね。
死亡説とか死神説で有名なのはトトロで、もちろんそれに言及して「あの物語から何を受け取ったの???」とガチギレしている人を見かけたのですが、気持ちすごくわかります。私も〇〇〇〇〇〇という作品のメインの二人でラブラブエッチな同棲妄想みたいなことをしている人を見て「あの作品を見て出てくるのがそれか?? お前は義務教育の国語の授業を辞書に載ってるエッチな単語に片っ端から下線を引いて過ごしていたのか??」とイライラしたり……これはぜんぜん違うお話でしたね。いやでもあの二人でラブラブエッチはねーよ頭沸いてんのか?
気を取り直してさらざんまいですが、カズキとエンタは既に死んでいてトオイは自殺……というのはよく考えなくてもトオイが11話かけてカズキやエンタから受け取ったことが全部ブチ壊しというか人生ゲームに猫が乱入してグチャグチャにされて全部やり直しみたいな感じだと思うんですけど、きっと死亡説に面白みを感じてしまう層というのは、「博士の愛した数式」に出てくる博士みたいに記憶が10分程度しかもたないんだと思います。そりゃ10分の単位で見たら死亡説は面白いです。宗教画のパロディとか思わせぶりなセリフとか。しかしそれも11話という長期スパンで見ると一瞬で意味をなさなくなる。でも彼らは10分で記憶がなくなってしまうので、短いスパンでしかメッセージを受容することができない。「全体」を俯瞰して、何が起きていて、何を伝えてくれようとしているのか、分からないというか、そういうことに全然興味がないんじゃないでしょうか。
私はそういう見方をする人をつまんないし勿体ねーなと思いますが、それは私が私の見方を唯一無二で絶対に正しい(私が思うんならそうなんだろう。私ん中ではな。)と思っているからで、「私の見方が一番正しいんだ! 死亡説なんてクソだ!!」とFF外から乗り込んで相手を否定する資格なんかもちろんありません。というか「100%正しい解釈」なんてどこにもありません。多分、幾原監督の頭の中にだってないでしょう。私がこれまで2000字近く使ってえらそうに書き散らしたものだって「お前はなにを言っているんだ」レベルの妄言である可能性さえあります。
それでも「70%くらいはまっとうな解釈」というのは、その作品が一定の質を有する限り、どの作品にもあるというのが私の持論です。そして作品をフラットに眺めて、社会的な意義とか、芸術的な価値とかについて考えるとき、「70%まっとうな解釈」にたどり着いていることは大前提として、受け取り手に要求されてしかるべきことだと思うのです。もちろん暇なスキマ時間を潰すために適当に流し見して「トオイくんの夢女になりて~」とか呟く、という見方だって否定されるべきではないし、繰り返しになりますがそもそも作品なんてリリースされた瞬間に見た人のものになってしまって、その人の頭の中にどう取り込まれるか決める権限なんか誰も持ってないんですが、「70%まっとうな解釈」に一所懸命たどり着こうとする行為って、結局製作者への敬意の現れなんじゃないかと、私は思います。あとめっちゃ楽しいしね。ラブラブエッチ妄想の人も楽しいことは楽しいんでしょうけど……。イライラするのでやめておきましょうね。

さらざんまいの話をぜんぜんしてませんが、今後もこんな感じで感想を書いていけたらと思います。

っていうかハッパ育てて生計立ててる男子中学生サイコーでは?