on my own

話し相手は自分だよ

ポリコレ暴走機関車の見た『プロメア』

『プロメア』を観た。具合が悪くなった。

観終わってからも胃のあたりの不快感が消えず、鍵アカウントでぶちぶち小言をこぼしていたところ、フォロワーがこちらのツイートを共有してくれた。

私の不快感の元凶はこの方がきちんと整理して語ってくださっており、これ以上言うべきことは特にないはずなのだが、ただ暴れ狂うだけでは赤ちゃんになってしまうので、「じゃあどうしたらよかったんだよ」というのを頑張って考えてみたいと思う。

まず、上記ツイートの方は

中島かずきさんが「『差別を受ける者との共生』という自分にとってのテーマの集大成」と仰っている

と仰っているが、実際にそういう発言をしたわけではなく、インタビューの中で

差別される者との共存とはなんぞやというテーマも、これまで新感線のほうでずっと書いている話で、そういう意味では集大成

と語っていただけとのことで、以前からそのテーマに関心があって出来たのがコレなんだったらますます絶望が深まるばかりなのだが、とりあえず
『プロメアのコアのテーマ』『差別を受けるものとの共生』(コアは別のところにある)
であるということは念頭に置いて、なるべく落ち着いて話をしていきたい。
もちろんネタバレを多分に含みます。


ガロについて

とにかくバカだということが作中で繰り返し強調される。突き抜けたバカだからこそ突破口になりうることはあるし、理論より気持ちで動くキャラクターは共感を得やすいというのは分かる。それでもちょっとバカすぎやしないだろうか。バカすぎるというか、中身がなさすぎて、物語を強制的に(かつ、見た目良く)動かすための歯車に成り下がってしまっているというか……。
例えばクレイの正体を知るシーン。家が燃えて、おそらく自分以外の家族全員を失ったであろう彼にとってクレイは、唯一無二の精神的支柱だったはずだ。そのクレイが非人道的な人体実験に関与しバーニッシュを苦しめていることを知って、ちょっと洞窟で反省して、即座に勲章を返上しにクレイのもとに向かう。「うなぎが絶滅危惧種だと知ったので反省して今年の土用の丑の日にはうどんを食べようと思う」くらいの軽さだ。すべてを失った世界で唯一信じられる理想を打ち砕かれた人間のとる行動とは思えない。もうちょっと迷いとか、葛藤とか、怒りみたいな、ぐちゃぐちゃした心情を吐露する場面があってしかるべきじゃないだろうか。「テロリスト野郎があんなこと言ってたけど、嘘だよな? 嘘だって言ってくれよ旦那!!」みたいなシーンとか、もしくはリオの言うことを嘘だと決めてかかった結果として自分も人体実験に加担してしまいそこでやっと後悔とともに真実を受け入れるとか、やりようはいくらでもあるはず。そこで初めて、「こんなもの!!」と勲章を投げ捨て、踏みつけ、クレイを睨みつける。熱いじゃん……。

リオについて

ガロに比べればまだキャラクターがはっきりしている。顔がかわいい。あんまり突っ込むところはない。

クレイについて

どう見てもヒトラーであり、彼の思想はどう考えても優生思想であり、バーニッシュを動力源としたエンジンはどう見てもホロコーストである。ナチス式敬礼をしないのが不思議なくらいだ。
彼が悪に心を染めた要因となるようなエピソードは語られない。それはそれで良い、むしろ好ましい。「実は幼いころに自らの炎が原因で両親を亡くし」などと言われても冷めるだけだ(そういう観点から言えば『弱虫ペダル』の御堂筋くんの過去編は残念だった。御堂筋くんには何の理由もなく、何の目的もなく、ただキモくて嫌なやつでいてほしかった)。
一口に悪役と言ってもそのあり方はさまざまで、中には主人公より観客の支持を集めてしまうラブリーチャーミーな敵役もいる。しかしクレイを見ていてもヒトラーだなあ……としか思えないので、とにかく生理的嫌悪がすごい。ムスカのような可愛げもない。……いや、ほとんど存在まるごとネットミームになってしまったムスカと比べてはいけないかもしれない。
しかも、そのヒトラーを殺さず生かす、という選択肢をガロは選ぶ。自分から二度も全てを奪い去った男を、である。たとえば、リオをも凌ぐ炎エネルギーの持ち主であるクレイを煽って煽って限界まで発火させてプロメアにぶつけて相殺させてGOOD BYE、という人柱的な使い方もできたはず(サンド伊達のゼロカロリー理論を参考に)。ガロがとにかく「みんなを救いたい」という思想の持ち主だったことを強調させたいのは分かるが、こいつはどう考えても生き残る資格がない。もしスピンオフやアナザーストーリーがあるならなるべく苦しんだ後に派手に散ってほしい。隅田川の花火みたいに。

(追記: お風呂場でスピッツのα波オルゴールを聞いていたらだんだん頭が冷えてきて、「どう考えても生き残る資格がない」と言ってしまったことを撤回したくなった。たとえどんな極悪人でも"生きる資格"のない人なんていません。クレイ憎しで自分を見失っていました。ただ、フィクション内での表現として、「苦悩しながらも断腸の思いでかつての師を手にかけ、それを背負って生きていく弟子」というのはだいしゅきなのでそういうのが見たかったという素直な気持ちも否定できない。でもプロメアの雰囲気には合わないかな。でもきっちり罪は償ってほしい、相応の報いを受けてほしいので、どうだろう、弱体化したプロメアと一体化して「ぷろめあたん」的なマスコット生物になっちゃうとか……?)

バーニッシュとプロメアについて

というわけで、どう見ても社会的弱者である。自力では何ともしがたい要素で差別を受けており、一部の目立つ過激派のせいで大きくイメージを損ねているという点では、少数民族や異教徒、性的少数者のようでもあるし、社会に"害"をなすお荷物であるという描かれ方からは、身体・精神障害者の暗喩のようにも受け取れる。
ただ「燃やしたいという衝動」については、また別の考え方が可能であって、たとえばこれを『反社会的な思想・信条』のメタファーとすると、「燃やしたいというのはどうしようもなく湧いてくる心の声であり、燃やさないと生きていけないのに、社会的タブーであるがために規制され、罪に問われる」というのは、「君たちは自由ですよ(ただし法律・良識の範囲内でネ)」という国家権力や社会の合意に対するカウンターであるという見方もできる。私の友人には重度のショタコンがおり、18禁の同人誌をひっそりと描くことでその欲望を昇華しているという。好きでショタコンになったわけではないのに、欲望に身を任せた瞬間に犯罪者になってしまう事実が本当につらいと話していた。現実の少年には指一本触れない=誰も傷つけないことをプライドとして日々同人誌を生産し続ける彼女のことを、バーニッシュを見て少し思い出したりした。
しかし、ご存じの通り、彼らの発火能力は最終的に失われてしまう。たとえバーニッシュが社会的弱者をあらわしていても、彼らの炎が反社会的思想をあらわしていても、エルサの氷の力のような二面性を持っていたとしても、はたまた人間のコントロールの及ばない自然災害をあらわしていようが、もうあのラストで全部台無しだ。現実に議論の種となっているイシューを最後どう片付けるか、どう折り合いをつけるのか、と固唾を飲んで見守っていたのがバカみたいだ。
ちょっと長くなりそうなのでラストについては別項で深めたいと思う。

ガロとリオの関係性について

「バーニッシュも飯を食うのか」と、差別どころか人間扱いさえしていなかったガロが、一瞬で「バーニッシュは同じ人間! 苦しめるなんてヒドイ! 俺はみんなを救いたい!」と豹変するのが気に入らない。個人的に気に入らないだけでシナリオ上大きな問題はないです(『グリーンブック』を見た後も同じようなことで騒ぎまくった)。もう少しバーニッシュへの差別意識や嫌悪感を残したままリオと関われなかったのだろうか。バカには保守的で頭の固いバカと、周りの言うことで自分もころころ変わるバカと、いくつかタイプがあるが、ころころタイプのバカだと本当に人間性に厚みがなくなってしまう……代わりに話を進めやすくなる。先ほど「歯車に成り下がっている」と言ったのはガロのこういうところだ。差別意識というのはそんなにクイックルワイパーを使ったみたいに一拭きでお手軽きれいになってしまうものなのだろうか。そう簡単じゃないから、バーニッシュが焼いたというだけでピザが投げ捨てられる世界になってしまったのではないのか。
こいつはただ自分の衝動のために俺の大切な街を燃やし続けたテロリスト、手を貸すのはマジで気に入らねえが、ここは一時休戦だ! と、睨みあうようなシーンがなかったことが残念で仕方がない。なるべく殺さないようにしてるし、何か問題でも? と涼しい顔でテロ行為を正当化するリオのドライさ、キレた魅力を殺してしまっている。相反する二人だからこそ、あの共闘も、キスシーンも光るのではないか。せめて「リオ・デ・ガロン」と「ガロ・デ・リオン」で言い争う場面くらいあったって良かったと思う。頼んでもないのに「リオ・デ・ガロン」って、もう完全降伏に等しくない?

ラストシーンについて

とにかく、発火能力を焼失させるべきでなかった、の一言に尽きる。
「ぼくのかんがえたさいきょうのプロメアのラストシーン」がどういうものかというと、何だかんだで今この瞬間の地球大爆発は防いだものの、バーニッシュたちの衝動は消えてくれなかった。戦いを通して、リオの言う『衝動』について未だ理解も共感もできないが、とにかく自分がリオたちバーニッシュを変えたり、いないことにすることはできないと気付いたガロ。何だかんだで壊滅してしまった街を再建にかかるが、彼はあえて『燃えやすい街』を作り、「いつでも燃やしに来い、俺が全部消してやる」とリオに告げる。リオはバーニッシュたちの集落に帰っていき、彼らは適度に距離を置いてそれぞれの生活を営むが、時折ガロの街を襲撃する。リオとガロの炎バトルは街の人たちにとって一大イベント、最大の娯楽となり、マッドバーニッシュが来るたびに街は大賑わい。いいぞ! 燃やせ! どうせまた建てればいいだけだ! キャー!! リオたゃがうちを燃やしたわ!!! ご褒美~~~!!! 倒れるご婦人。リオくーん!! うちも燃やして~~~!!! ピースくださ~~~い!!! ったく、消すのは俺たちレスキュー隊なんだから、あんまり煽るなよな!! そう言いながらもニヤつきを隠せないガロたちレスキュー隊の面々なのであった……。
えーーーーこっちのほうが絶対熱いじゃん!!!! 中島かずきどうして私に助言を仰がなかったの??? という茶番はさておき、本当に、どうして、あんなラストにしてしまったんだろうという気持ちが消えない。バトルが気持ち良ければそれで良いのだろうか? 私はかっこいい上にシナリオもちゃんとした映画が見たいと思うのだが、かっこよければ整合性は二の次で許されるのか? そのないがしろにされた整合性のせいで作品の品位がガクッと落ちてしまっても、キャラクターがペラペラになっても、話として一貫性がなくても、それでもかっこよければそれでいいの? 本当に?

技術を持つ者の社会的責任について

冒頭で「差別と共生はプロメアのメインテーマではない」ということを確認したのはなぜかというと、「なぜ差別と共生をプロメアのメインテーマにしなかったのか」という憤りがあるからである。男同士のホモソーシャル的友情の勝利なんて掃いて捨てるほどあるテーマなのだから、せっかく「~とはなんぞや」という思索を続けてきたのだったら、なぜそれを作品にして社会に投げかけなかったのか。私はすべての作品がポリコレに丁寧に配慮して、弱い立場の人をエンパワーし、人々が日々生活で抱える難しさに示唆を与えてくれるような、『ブラックパンサー』みたいに社会現象まで巻き起こす大作になるべきだとは微塵も思っていない。思っていないのだが、これだけの素晴らしい画を作るアニメーションの技術力があり、シーンごとにバチバチに嵌まる音楽があり、実力のある役者をそろえておいて、「頭カラッポで楽しめる整合性無視のアクション大作」を作るというのは、あまりにも、あんまりにも勿体ない。「頭カラッポでどっぷり楽しめるシーンもありつつ、きちんとアップデートされた価値観に基づいた社会的メッセージを織り込み、メインターゲットである10代~20代の若者にただ頭カラッポな2時間を過ごさせない」作品を、どうして作れなかったのか。観客も、そんなものは全然ほしくないっていうことなのか。それがなんだか無性に悲しい。

ウルトラハイパー余談・差別と共生について

先日、NHKで「ムスリム社員の働く日本企業で、イスラム教への理解を深めるために交流会が行われた」というニュースが流れていた。この交流会に参加した日本人の社員が、「みんないっしょなんだということがわかりました」と笑顔でコメントしているのを、私はぞっとする思いで聞いた。「みんないっしょ」というのが「みんな同じ人間」という意味なのだとしたら、お前は今までムスリムを何だと思っていたんだという話だし、文字通り「みんないっしょだということがわかった」と言うなら、「いや全然いっしょじゃねーーーだろうが交流会で気絶してたの???」と全力で突っ込みたい。私たちは違う。全然違う。神様も歴史も文化も思考も全然違う。この国の人間は「共生」を考えるとき、何故か「みんないっしょ」にしたがる。「話せばわかりあえる」と思いたがる。だから「自分と違うしわかりあえない」相手に出会うと、排斥(そんな人は最初からいませんでした~)もしくは同化(いっしょになれば嫌われないよ~)の二択しか選択肢がなくなってしまう。「違うままで、お互い深入りせずに、そこにある」という選択肢を、何故かとらない。そんなことをすれば「わかりあおうとしないのは怠慢だ」となる。具体例を挙げれば、「カムアウトしやすい職場を作ろう!」なんていうのはちゃんちゃらおかしい。どうして「ゲイの人もぼくたちといっしょなんだということがわかりました」とマジョリティが納得できる環境をわざわざ整えなければいけないのか。お互いのセクシュアリティに踏み込まなければいいだけの話だ。作るべきなのは「カムアウトする必要のない職場」である(もちろんしたい人はすればいいし、カムアウトした人が不当な扱いを受けないようにしなければならない)。
バーニッシュが能力を失ってしまう描写はあまりにも「日本的」だった。そうやってアイヌ民族琉球民族も在日外国人も移民も難民も「みんないっしょ」もしくは「そんな奴らはいなかった」という扱いを受けてはずなのだから、もう令和なんだからそんなものは打ち破ってほしかった。全然違う私たちが全然違うままで楽しくやっていける未来を描いてほしかった。ただただ、残念だ。