on my own

話し相手は自分だよ

自分をADHDだと思い込んでいた”普通”の人の話

今日書こうとしていることは、ものすごくセンシティブで、私もうまく言葉にできるか不安なのですが、なんとかやってみようと思います。気持ちが引きずられやすい方などはちょっと気をつけてね。



もう誰も覚えていないと思うが、昨年9月にこのエントリがちょっとバズった。女性オタク界隈で予想の10万倍くらい多くの人に読まれ、ポジティブな反応も、もちろんネガティブな反応も多くあった。
この中で私はこういうことを書いた。

私たちが(独身女オタクとして自分を卑下せず生きようという決意表明をした)つづ井さんに心動かされ、今の自分のあり方に確信を抱いたところで、つづ井さんは責任を取ってくれない。

すると、私がつづいさんに責任を取るよう要求しているとか、攻撃しているとか、自分の心の弱さの責任転嫁をしているなどというふうに読み取った人から私を非難するコメントがドカドカ届いた。
しかし弁解させてもらうと私は本当に文字通り「誰も人生の責任を取ってくれない」ということが言いたかっただけだった(ちなみに同じく批判を浴びた「寝た子を起こした」という言い回しについてはこっちのエントリでちょっと補足している)。


そもそも私が「誰も人生の責任を取らない」という、このアイデアをどこで得たのかと言うと、私が事あるごとにダイマしている漫画『ファンタジウム』からである。


ファンタジウム(1)

ファンタジウム(1)


この作品はディスレクシア(読み書き障害)を持った少年がマジシャンとして神奈川の小さな町工場から世界へのし上がっていく話なのだが、主人公の良くんは中学校で「赤点連発のやべーバカ」としてボロクソにいじめられる(問題文が読めないので当然なのだが……)。そんな中で良くんにTV出演のオファーがあったとき、彼は通級指導の先生からこう言われる。

読み書き障害の自覚のない子が周囲からバカとか怠けているとか自覚もないまま言われ続けていると!
本当にそういう人間になってしまうんですよ
人生をそんなふうにした責任を誰もとってくれません  (2巻7話)


そう言われ続けていると本当にそうなってしまって、その責任を誰も取ってくれない。
他人の言うことをそのまま自分の中に取り込み続けると、実際はそうでなかったとしても本当にその通りの人間、その通りの人生になってしまう。
私はさらにそこから進んで考えた。他人の価値観と自分の価値観の境界があいまいなまま選択や決定を積み重ねた先に、意にそぐわない事態や幸福と言えない人生が待っていたとしても、その価値観を植え付けた他人は何の埋め合わせもしてくれない。「あのとき、おまえはバカだから大学なんか行けないと言ったじゃないか!」とか、「あのとき、結婚すれば幸せになれると言ったじゃないか!」とか、他人を責めたところでもはや人生は帰ってこない。
だから私たちは、その価値基準が自分を守り生かすものなのか、それともただひたすらに搾り取るだけのものなのか、他人任せにせずに慎重に見極める必要がある。その見極めの難しさ、そして例え見極められたとしてもそれを実践できるとは限らないままならなさについて、あの文章では私なりに整理したつもりだ。



そして今回は、「誰も人生の責任をとってくれない」ということについて、もう少し踏み込んで書いていこうと思う。



私は幼い頃より、母から「おまえの頭はおかしい」と言われて育った(こちらのエントリを読むとわかるけど私のママはちょっとばかりmentally illである。なんか今回過去記事のPRばっかりだな)。
もっと具体的に言うと、「おまえの脳には障害があるから、おまえはいつかきっと取り返しのつかないほど大きな失敗をする、それを誰も助けてくれないし、そんなことをしたら許さないから常に自分を見張っていろ」ということを繰り返し言われてきた。
いったい何が母にそのような怖いことを言わせてしまったのか、未だによく分からない。本人もまったく覚えていないそうだ。おそらく、父親のいない、躾のなっていない子と他所様から言われないよう母なりに必死に子育てをしていて、その熱意が変な形で表出してしまったものと思われるが、それも私の勝手な憶測に過ぎない。


かと言って、母が私を然るべき医療機関や支援団体に繋いでくれるわけでもなく、言われるたびにどうしたらいいか分からなくて、幼い私は不安で夜ごとしくしく泣いたりしていた(かわいそう…)。歳を取るにつれて、母からいろいろ言われても「うるせえよ」と言い返せるふてぶてしさも身に着けつつあったのだが、「私の頭はどこかおかしいんだ」という考えは私の中にすっかり染み付いて取れなくなっていた。


大学を卒業したあたりで、私は「大人の発達障害」という概念と出会う。ひととおり調べて、衝撃を受けた。私の頭が変な理由はきっとこれだ、薬を飲めば治せるんだ、と確信を抱いた。
そして高校生の頃からお世話になっている心療内科の先生に突撃して「私はADHDなんじゃないかと思うんです。治療して普通の人になりたいのでまずは診断を受けさせてほしい」ということをぶちまけた。
すると、先生は眉をひそめてなんだか変な顔をしながら「あなたはね、発達障害とかではないと思うよ」と言って「TOEICの対策はどうやってしてるの?私も受けようと思うんだけど」などとまったく違う話を始める始末で、私は先生を心から信頼していただけに失望を隠せなかった。ADHDじゃないなら、私はどうしたらまともな頭になれるんだ?


私はずっと自分に大きな欠陥があるということを前提に、その欠陥がいつ露呈してしまうか、いつ取り返しのつかない失敗をしてしまうのか、心のどこかで常に怯えながら暮らしていた。でも、よくよく冷静に振り返ってみると、私は母の言う「取り返しのつかない大きな間違い」なんか犯したことはない。そりゃあ、ちょいちょいミスをしたり、うまくいかないこともあるけど、それでものすごく大きな損害を出したり他人の命を危険にさらしたこともない。そして仕事中などに周りを見ていると、私なんかより余程とんでもないミスをしれっとやらかす上司がいたが、「気をつけてよ~」とか言われながらもみんなに助けてもらっている。私もたくさん、助けてもらった。
あれ、私、ADHDじゃない、というか、私の頭は別に母が言うようにはおかしくなんかないのかも?
「誰もおまえを助けない」って、みんな普通に助けてくれてるじゃん???
ということに私は、実家を出たあたりから少しずつ少しずつ、気が付き始めた。


はっきりと目が醒めたきっかけは今Twitterでバズっている認知特性テストだ。
知らない方にご説明すると、これは35問の質問に答えることによって、自分の認知機能の特性(視覚優位とか、聴覚優位とか)を知ることができるというテストである。決してその人の悪いところ、足りないところを突き付けるテストではなく、困っていることにアプローチするときその人にどんな支援が最適なのかを考える際に参考にできるよう作られている。
私はこのウェブサイト上の診断ではなく、しばらく前に元ネタの本を読んで、複雑すぎる採点方式に頭を抱えながら点数を出したのだが、結果はこんな感じだった。


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本田真美『医師のつくった「頭のよさ」テスト 認知特性から見た6つのパターン』光文社新書、2012年



えっ。丸っ。ぜんぜんボコボコしてない。
どこかしらが大きく凹んでいるだろうということをひとつも疑っていなかったので、この結果は正直拍子抜けだった。
あれ、そもそも何で私、自分がADHDだと思ってたんだっけ? そうだ、「脳に障害がある」とか言われていたからだ。それって、周囲のいろんな人から言われていたんだっけ? いや、そんなことを言っていたのは母だけだ。
私は母一人からそう言われ続けただけで、自分を欠陥品だと思い込んで、その通りの人生を生きようとしていた。でも、このまま私が欠陥品として生き続けて、それが常に自尊心を傷つけられ、心安らぐことのない毎日だったとしても、誰ひとり、母でさえも、その責任を取ってはくれない。そう生きることを決めたのは、他でもない私自身なのだから。
そこまで思い至ったとき、私はやっと、長年連れ添った「私の頭はおかしい」という思い込みを捨てることができた。自分にくっついた「欠陥品」のラベルを、ペリッ、と剥がすことができたのだ。


そして更に、ようやくわかってきたのは、たとえ私が本当にADHDやその他の発達障害だったりしたところで、それは「欠陥」でも何でもないし、誰からどんなに蔑まれようと、認知特性テストがボコボコだろうと、「欠陥品」であることの罰を受ける瞬間を心の底で恐れながら暮らす必要なんかひとつもないということだ。ADHDの方が現代日本社会でどんなに苦労しているかは、診断済みリアルガチADHDコンサータを服用しつつ日々奮闘している友人を見ていれば分かる。確かに彼女たちの脳は「普通」とは少し違うつくりをしているが、それは彼女たちの脳の内側に「欠陥」があることにはならない。「普通」ではないと生きづらくなるという「欠陥」が、彼らを取り巻く社会の側にあるというだけのことだ。


コロナ禍を受けて、いままでどんなに不登校の子どもへの支援を訴えても社会は変わらなかったのに、みんなが学校に行けなくなった途端、家でも学習できる仕組みがみるみるうちに整えられていったことを皮肉る支援者の方のツイートを、先日見かけた。
メガネがないと日常生活に支障が出る人のことを障害者とは呼ばない。誰でも安価で良質なメガネやコンタクトを入手でき、誰もメガネをかけることを特別視しないからだ。
ほんの何十年前まで、社会の中で女性は「男ではないもの」でしかなかった。ほんの数十年前まで、同性愛は刑罰、よくて治療の対象だった。場所によっては未だにそうだ。「A」と「Not A」を選り分けるのは、病名をつけるのは、常に社会のほうだ。生まれながらに、純粋に「普通」の人、「普通じゃない」人なんて存在しない。


ある夜、これから先どうやって生きていけばいいのか分からなくて、布団にくるまってぶるぶる震えながら「みんなどうやって耐えているんだろう」と考えたことがあった。そして「耐えられなかった人はもういなくなってる」ということに気が付いて、ぞっとした。適応できない不運な者は音もなく退場して、あとには適応できた者だけが残る。耐え続けられる強者のみがコンティニューを許されるゲームなんて不公平にもほどがあるが、負け知らずの強者はこのゲームの歪みに自分が負けるまで気付けない。


強くいられない人も、デコボコの人も、みんなそのままでいられたらいいのに、と思う。それでも私は、全身から血を流しながら「普通になりたい」と願う人に、「普通になんかならなくていいんだよ」などとは口が裂けても言えない。母の呪縛から逃れ、改めて自分の境遇を客観視したとき、限りなく世間一般の「普通」に近いところにいることは自覚している。そんな私が「普通」を欲する人を諫めることは暴力以外の何でもない。


だからせめて、元「欠陥品」、現「ただの私」として、私は小さな声でも粘り強く求めていきたい。この社会になるべく多くの、いろんなかたちの椅子を。どんな人も命が脅かされずにすむ居場所を。そして自分が何者なのか、自分で決める権利を。

Something next to normal, would be okay.  ──ブロードウェイ・ミュージカル ”Next to Normal” より

Today is going to be a good day. And here's why: because today, today at least you're you and that's enough.  ──ブロードウェイ・ミュージカル ”Dear Evan Hansen” より