on my own

話し相手は自分だよ

就活自殺をしようとした話

大学院に通っていた頃の話。同じ研究科の親しい友人がスピーチコンテストに出場することになった。彼女は優秀な留学生で、コンテストは日本語を学んでいる留学生を対象としたものだった。「変な日本語があったら直してくれる?」と言う彼女からスピーチ原稿のデータをもらい、読んでみると、それは遠い国からひとりで日本に来た彼女が自分の体験談を交えながら『夢を持つこと』の大切さを訴える内容だった。内容はともかくとして、これはたいへんな作業になるぞ、と私は思った。彼女の日本語はとても流暢ではあったが、書き言葉になるとどうしても端々に違和感と、英語表現特有の"強さ"みたいなものが出てしまう。私は、例えば、彼女が「一般的に多くの人は〇〇について××と考えやすいですが、その考え方が間違っているということを私は強く主張します」と書いたことを、「みなさんの中には〇〇と言うと××と考える方も多いかもしれませんね。でも、私の考え方は少し違います」みたいに直す、という作業を一文ごとに行った。長い時間をかけ、何度も音読して文法に破綻がないかを確認し、すべてのセンテンスを訂正し終えたところで「これじゃ完全に別物じゃねーか」ということにようやく思い至って、「全部この通りに変えろという意味ではないからね。この言い回しはいいな、と思ったところだけ採用してね」と付け加えて、彼女にデータを送り返した。


「内容はともかく」と書いたのはなぜかというと、私は彼女がほとんど鬱病になりかけていることを知っていたからだ。彼女は最初に入学した語学学校で、特別日本語がうまいということで凄惨ないじめに遭って、そこでまず心に大きな傷を負っている。そして後に入学した私の通う研究科ではゼミの指導教授から耳を疑うようなパワハラを受け続け、また私生活では国に置いてきた婚約者とうまくいかずに悩んでいた。大量の課題や自分の研究で体を休める暇もなく、たまに横になれても目が冴えてなかなか寝付けず、結局朝までSNSを見てしまうのだと彼女は言った。徹夜明けの彼女の肌から隠しようもなく漂ってくる独特の刺激臭が、何年も経った今でも、まだ鼻の奥に残っているような気がする。
そんなI dreamed a dream状態の彼女がいったいどういう気持ちで『夢を持つことの大切さ』をみんなに説こうとしているのか、私には理解しがたかったが、きっとこのスピーチ大会も「きっとxxxさんなら素晴らしいスピーチをしてくれるだろうから」とか何とか言われて断り切れずに引き受けてしまったのだろう。自分が他人からどう見えているか、どう見せたいか、ということについて、彼女は人一倍敏感だったから。


私はというと、院生として人生二度目の就職活動の真っ最中だった。
そもそも、進学は考えていなかった私がなぜ入院(文系の大学院進学を蔑んだ言い方)を選んだかと言うと、学部生の頃の就職活動で誇張なしに全敗を喫したからだ。私はいちおう有名大学と呼ばれる類のマンモス校に通っていたが、マジのマジで、書類の時点で全部落ちてしまった。そんな私を憐れんだゼミの先生が、大学院ではもっと違う経験ができるかもしれないから、と推薦状を書いてくれた。留学生が多く集まる研究科ということで、キラキラ~国際交流~みたいなのに対する妙な憧れを捨てきれないミーハーな母が学費を支援してくれることにもなった(母は先の鬱病留学生とはちゃっかりLINE友達である)。
「今度こそ最強のESを作ってやる」と意気込んだ私は、大学院では企業受けのよさそうな活動をいろいろやった。海外大学を訪ねて国際交流もしたし、企業インターンもしたし、TOEICスコアもぐんと上がった。そして臨んだ二度目の就活では、驚くほど、するすると書類が通った。しかし今度は面接で落ちる。しかも最終面接で無慈悲に落ちる。なぜか修正液を使ってはいけないことになっているエントリーシートのデカすぎる枠を必死で埋めて、かしこい奴らはチームで受験するというWebテストをかい潜り、企業のホームページを隅々まで読んで、靴擦れを作りながら何度も面接に呼ばれて、笑顔を作ってへこへことお辞儀をして、最後の最後に落とされるのだ。
精神的に限界が近づいてきていた7月。その日受けた最終面接は、今まで経験した面接とまったく違った。ドアを開けた瞬間に目に飛び込んできた皇居のお堀の、青々とした緑をよく覚えている。役員たちは私に、併願企業とか座右の銘とか、ほとんど意味のないような質問を二、三投げかけてから、私の経歴のどこがいいと思ったか、入社後の私にどんな仕事を任せたいかを微笑みながら語った。15分もかからなかったと思う。私は、やっと解放される、と思って、もう内定をもらったつもりになって、企業を出たその足でコンビニに入ってお菓子を買い込み、東御苑でピクニックをした。内定者にのみ、翌日17時までに電話で連絡があるとのことだった。
そして次の日、17時を過ぎても、携帯は鳴らなかった。
ベッドに突っ伏して、私は「死にたい」とか「消えたい」とかではなく、何故か「もうこれ以上、この体に入っていたくない」と強く思った。今すぐ肉体を脱ぎ捨ててどこか遠いところまで走っていきたい。感じたことがないほどの強い衝動が抑えきれず、いつまでもベッドの上で暴れた。魂が肉体に拒絶反応を起こしているみたいだった。へとへとになるまで暴れまわったところで、もう私はこの社会で生きていくのが無理だということを母に伝えなければ、と謎の冷静さを取り戻し、部屋を出て、リビングにいた母に「希死念慮がすごい、私はちょっともうだめかもしれない」ということを伝えた。母は「死ぬのはとりあえずxxxちゃんのスピーチを聞いてからにしたら」と言った。翌日は例のコンテストの日で、母と私は彼女から関係者として招待を受けていたのだった。


そして迎えたスピーチコンテスト当日、うだるような暑さの中ようやくたどり着いた会場で、友人のスピーチを聞いた私は唖然とした。「いいと思ったところだけ採用して」と言ったはずなのに、彼女は一言一句違わず、私が更正したあとの原稿を朗々と読み上げていた。これって一種の不正というか、これじゃ私ゴーストライターなのでは……と震撼する私と対照的に、彼女のほうは大人数を前にとても落ち着いて、自信に満ち溢れていた。夢を持つことの大切さを滔々と語る彼女は鬱病で、おっさん教授からものすごいアカハラを受けていて、恋人とも婚約破棄寸前だし、部屋はメチャメチャ汚いし服は臭いし、私とお茶するたびに国に帰りたいけどみんなに期待されているから放り出して逃げたりできないと言って泣く、そしてそのスピーチ原稿は私が一晩かけて赤ペンをいれまくった結果別モノになってしまった代物で、その私は昨日さんざん期待させられた上で企業から血も涙もないサイレントお祈りを食らい、もう何もかも嫌になって暴れまくって泣き喚いて目が未だに腫れていて、Googleの検索履歴には「自殺 前準備」「身辺整理」「遺書 法的効力」などのワードがまだ残っているのだ。
何なんだこれは、と私は思った。何なんだ、と、呆然としているうちに、一言一句すべて身に覚えのあるスピーチは終わった。その後もそれぞれに美しい国の衣装をまとった留学生たちが次々とスピーチを披露して、結局、友人が地区大会の最優秀賞に決まり、全国大会へと駒を進めることになった。大きな花束を抱え、ニコニコ笑って偉い人たちと写真を撮る彼女を横目に、私と母は会場を後にした。(ついでに言うと彼女はこのあと全国大会でも優勝してしまった。もう何年も前のことなので、時効だろう。)


この経験から私が得た教訓はない。私は救われてもいないし慰められてもいない。帰り道、私はゲラゲラ笑っていた。就活さえまともにできない自分に愛想が尽き、真剣に社会からドロップアウトすることを考えていた私が、何故か鬱病の留学生から夢を持つことの大切さを説かれ、そしてその原稿はほとんど私が書いたものなのだ。こんなにも意味の分からない、シュールな出来事がほかにあるだろうか。
あまりの暑さに、涼みに入ったマルイで母が帽子を買ってくれた。とりあえずこの帽子が無駄にならないようにこの夏は生きようと思った。見せしめとしてあの権威主義的な部屋の窓から見えたお堀に飛び込んで死ぬ計画も廃案とした。


今だからわかることは、あのとき、私は(そして恐らく友人も)どこまでも"被害者"でしかなかった、ということだ。大企業が入念に作り上げた理不尽で搾取的な新卒採用のシステム、番号をつけられた家畜のように横並びにされて競い合う就活生たち、の、中で藻掻き苦しむしかない被害者。私はいつだって、「どうして私がこんなことをしなきゃいけないんだ」と思っていた。それでも「どうして」の答えはないし、探す意味もないし、「こんなことをしなきゃいけない」のが確定事項である以上、私に逃げ場はなかった。こんなことしたくないのに、こんなのおかしいのに、そうしないといけない、哀れな被害者だった。
狂ったシステムに囚われていたとしても、必ずしも"被害者"になる必要はない、と知ったのは本当に最近のことだ。いくら理不尽だろうが、その構造が社会に強固に根付いている以上、その中でうまく立ち回ってサバイバルすることはどうしても必要になる。その中で耐えきれず脱落していく人もいるだろう。それでも、私たちは全身をその狂気に浸して、構造の一部として取り込まれなくても、完全に諦めなくてもいいのだと、教えてくれた人がいた。それから、その構造が狂っていることに気付いていて、何とか変えようとしている人たちは決して少なくないのだということも。


あのスピーチコンテストの日から今日まで私は、ふらふらニートしてみたり、通訳の真似事をしたり、法的に限りなく黒に近いグレーな会社でオーストラリア人の社長と喧嘩しながら働いたり、年下の現役大学生に交じってインターンしたりと、かなり浮ついた日々を過ごしてきた。
先日、とある会社から採用通知を受け取った。私のこのメチャクチャな経歴でどうして採用されたのか分からないくらいまっとうな会社だ。現役時代の私であれば泣いて喜んでいただろう。それなのに、今日の私は自分でも不思議なくらい落ち着いている。それはおそらく、今の私はもはや"被害者"ではないからだし、勤め先が決まったという出来事それ自体は、私という存在に何ら影響を及ぼさないことをわかっているからだ。


可哀そうな被害者の私を皇居のお堀に投げ捨ててしまった代わりに、今の私には、これからの私がやるべきことがだんだんはっきりと見えてきている。仕事はその手段のひとつでしかないから、そこで評価されなくても、誰かの期待に応えられなくても、泣いて暴れたりする必要なんかない。それにやっと気づけたから、あの友人にも教えてあげたかったのに、久しぶりにFacebookを覗いてみたら友達関係を解除されていた。