on my own

話し相手は自分だよ

【創作】同人女と感情のゴミ箱

 窓の外の風景が滑るように動き出して、目を刺す白い陽光に、きゅっと瞼を閉じた。最前列の展望席を勝ち取った子どもたちの、はしゃいだ声が聞こえてくる。
「動いた動いた、すごーい! ジェットコースターみたーい!」
 そうだよー、このモノレールね、運転手さんも車掌さんもいないのに、ひとりで走れるんだよ、すごいよね。こうやって人間はAIに仕事を奪われてゆくんだね。
 心の中でそう語りかけながら、私は自分の心の隅のほうが、誤魔化しようもなく浮き立っているのを確かに感じていた。生まれて初めてこのふしぎな電車に乗った、小学生の頃の記憶が未だに脳裏に焼き付いている。あれからもう何度も乗っているはずなのに、20代も半ばを過ぎて、いまだに「これ」は私の「特別」なのか。りんかい線に乗ったほうが安く行けるし、わざわざ新橋駅で一度改札を出る手間があってもなお、これを選んでしまうくらいには、私はこの電車が、この窓から見える景色が好きなのかもしれない。
 少し窮屈な車内には、家族連れ、カップル、アジア系の外国人観光客。そして、におい立つように、手に取るように"わかって"しまう、私の仲間たち。おのおの、大きなカートや大きなバッグを持て余しながら、スマホの画面を無心にのぞき込んでいる。みんな、それぞれの「特別」に向かって、ふしぎな電車に乗り合わせている。
 いつもの光景、すっかりお馴染みの、幾度となく繰り返した。それでも、いつもと違うのは、やはりこの名状しがたい喪失感だろう。なんだか、自分の内臓のひとつをどこかに置き忘れてしまったような。何度問い合わせの電話をしても、「ちょっとそういったものは届いてないですね」と投げやりに言われてしまって、もしかして最初からそんなもの、私の体内になかったのか? と、自分自身を疑い出してしまうような。肝臓か腎臓か分からないけど、現に私の身体は、その臓器なしでも動いているし。
 そんなことを考えている間にも、つるつるとモノレールは走り続け、ゆるやかな勾配のループを回って、ぜんぜん虹色ではない巨大な橋を渡る。頭を垂れるガントリークレーンの群れを眺めて、キリンみたいでかわいいなー、とか、吊り下がっていないモノレールなんて軟弱だ、とかいう千葉市民のフォロワーの訳の分からない主張などを思い出しているうちに、名もなき空虚はなんとなく紛れた。ぱっきりと澄んでよく晴れた秋の空を、すべらかなボディに映し込んだ高層ビルが、いくつも現れては視界の端に消えていく。テレコムセンター、観覧車、ガンダムまで見送ったら、逆三角はもう目の前だ。




 スペースに着いて早々、バッグの外ポケットに忍ばせたポリ袋を取り出して、「ゴミどうぞ」と突き出した。サトウさんは「犬ちゃんさあ……好き……」と言いながら、チラシだの緩衝材だのを勢いよくそこにブチ込んだ。
 パイプ椅子を寄せて並べ、少し身をかがめながら私たちは腰を下ろす。開場まではまだ少し時間があった。サトウさんのスペースは、ちょっと懐かしい感じのキャラクター柄の敷き布のおかげで、週末に公民館でやっているフリーマーケットみたいな雰囲気だ。そこに積まれている本の表紙は艶々したクリアPPの18禁だけど。
「ええと、新刊はご覧の通りえっちなやつだから、年齢確認、忘れずによろしくね。見た目関係なく全員に確実にお願いします」
 大ぶりのピアスをしゃらしゃらと揺らしてサトウさんが頭を下げる。しっとりした質感の栗色の髪が肩からすべり落ちた。
「了解でーす。あ、そうそうこれ、よかったら使って」
 鞄の底から出したケースを手渡すと、彼女は表情をぱっと明るくした。
「えっ、何、うわー!!! すごい、今朝のツイート見てくれたの?」
 500円玉が20枚と100円玉が30枚。家を出る直前に『釣銭のこと完璧わすれてた!!!!』という彼女のツイートを目にして、急きょ鞄に放り込んだのだった。生まれて初めてサークル参加を果たした大学生の頃から使い、減るたびに補充してきた、老舗のうなぎ屋の秘伝のタレみたいな、私の釣銭。
「えっ、ほんと助かる……もはや『お札受け付けられません本当すみません』って貼り紙しようとしてた……何円玉が何枚です?」
「いや、なんならもう差し上げちゃう。持って帰んの重いし、……しばらく使う予定ないしねー」
 サトウさんは私の言葉に少しはっとしたような顔をして、1秒くらい躊躇してから、また元の表情に戻った。
「それではお言葉に甘えて……釣銭セット、この前のイベントでうっかり在庫といっしょに実家に送っちゃってさ……」
 財布からお札を抜き出して、手渡しながら、サトウさんは恥ずかしそうに笑った。
「犬ちゃん頼りになる~、来てくれてほんとありがとね。新しいジャンルでまだ友達とか全然いなくて」
「いや私もサトウさんが声かけてくれなかったら今日完全に引きこもってたと思うし……」
 久しぶりに嗅ぐイベントの空気は、雑多で、浮かれていて、やっぱりいいな、と私は思った。そこで開場のアナウンスが流れ、いっせいに拍手が沸き起こる。エコバッグと配置図のコピーを手にしたサトウさんが腰を浮かせ、私に向かって深々と礼をした。
「それでは犬ちゃん様、お留守番お願いします! 今日は壁には用ないし、そのへんパパッと回って30分くらいで戻るから」
「はーい、いってらっしゃい。ご武運を……」
 すみません通りますすみません、と周囲の人に頭を下げながら島から出ていくサトウさんの後姿を見送り、私はなんとなく肩を回した。ここでもまた、さっきとは別の、名状しがたい欠落感。これ、あれか、売るのが自分の本じゃないから。緊張と期待をしてないぶんの、欠落感か。気楽なものだな。まだほとんど一般参加者が入ってきておらず、サークル主同士でおしゃべりしたり本を交換したりしている島中を眺めて、私はほうとため息をついた。




 開場からしばらくして、覗き込んだり買っていく人が少しずつ現れ始めた頃、ひとりの女性が、お釣りを渡し終えたタイミングで恐る恐る声をかけてきた。
「あの~……すみません。あの、『サトウしお』さんご本人ですか」
「あ、ごめんなさい。サトウさん買い物行っちゃって。ええと、あと15分くらいで戻ると思いますけど」
 ロック画面で時間を確認しながらそう言うと、大学生ふうの若々しい身なりをした彼女は、うろたえる様に視線を右に左にやってから、意を決した、という感じで小さな包みを差し出した。可愛らしいピンク色のラッピングだった。
「あの、これ、差し入れなんですけど、渡してもらってもいいですか、すみません」
「あーありがとうございます、お名前を……」
「あの、私、相互とかじゃなくて、読み専で、名前言ってもわからないと思うので、あの、すごい、大好きですって、いつも見てますって、お伝えいただけますか、ほんとすみません」
 ぺこぺこと頭を下げると、彼女は新刊をしっかりと胸に抱いて、逃げるように去って行ってしまった。ジャンル移動前からのファンの人かなー、すごいなー、などと思いながら、ピンク色の包みにポストイットを貼る。『10:15 お名前不明』。
 きっちり30分で戻ったサトウさんに、先ほどの顛末を伝え、差し入れを渡すと、ちょっと困ったような顔をされた。
「ああ~……知らない人からの差し入れかあ……。中身なんだろ? あ、めぐリズムとチョコ」
 有名ショコラトリーのロゴ入りの外箱に、サトウさんは安堵の表情を見せ、ラッピングのリボンをきれいに結び直した。
「犬ちゃんは差し入れ何もらうのが一番うれしい?」
「え~、マヌカハニー
若手俳優か」
 サトウさんが買ってきてくれたお茶のペットボトルを開けて、私は何気なく口を開いた。
「いやまあ、感想もらえたら一番うれしいけどね……」
 口にしてから、なんだか肺が底のほうから凍り付くような心地になって、慌てて付け加える。
「でもしばらくいらないかなあ」
「……そんなにひどかった?」
 サトウさんがちょっと声のトーンを落として私に尋ねる。ホールはますます賑やかで、有名アニメのオープニングが流れ始め、わあ、と微かに場が湧いた。
「まあ、こんなん送りつけられるの、珍しくもなんともないんだろうけど、ちょっと堪えましたね」
「知ってる人?」
「相互じゃないけど前から感想くれてた人」
「え、何でわかるの」
「句読点と三点リーダの使い方に癖があるからすごいわかりやすい。実はアカウントもだいたい目星ついてる」
「ひえっ……」
 サトウさんが若干引いている気配を感じ取りつつ、ペットボトルを逆さにしたり、戻したりしながら、私は話を続けた。言葉は軒先から滴る雨粒のように、無造作に零れ落ちた。
「なんかね、『がっかりしました』って、言われたんだよね。確かに私、その頃すごい仕事忙しくて。原作追うのも億劫になるくらい、気持ちも離れかけてて、でもまだ好きではあったし、とにかく何か書きたくて……いつもより時間はとれなかったけど、それでも今の自分に書けるものを精一杯書いたつもりではいて……そしたら『いつもの犬丸さんの文章の良さが少しもなかった』とかって言われて。Amazonレビューだったら星1だよね」
 ちょっと茶化して言ってみたらよけい惨めだった。サトウさんは静かに、そっか、ひどいね、とだけ呟いた。
「その人、前は私のこと『大好き』『神』って言ってたのに、書き手が自分の意にそぐわないものを書いた瞬間に、こういう、物陰からゴミ投げつけて逃げるみたいなことできちゃうんだな~って……こいつのために書いてるわけじゃないのに、とかいろいろ考えてたら、そもそもどうして同人なんかやってたのかもよくわかんなくなってきて、こんな、脳内のキツめの幻覚をワールドワイドに垂れ流すみたいな奇行」
「やめろやめろ~~~奇行とかゆうな」
 サトウさんが低い声で私の言葉を遮る。彼女の明るさが今の私にはただただ救いだった。私は笑いながら言った。
「そう、それで結構しんどかったから、しばらくはもう『奇行』はいいやってなったのね。だから今日はサトウさんの、キツめの幻覚垂れ流すお手伝い出来てすごい楽しい」
「いやこの子たち付き合ってるから実際」
「出た~! 現実と虚構の区別がついてない人だ!」
 そうやってサトウさんと戯れていると、「新刊ください」が続々やってきて、お釣りの計算でごたごたしたり、肝心の本を渡し忘れて慌てて追いかけたりしているうちに、結局その話はうやむやになった。





 ……かと思われた。
「あのね、犬ちゃんは、『感情のゴミ箱』にされちゃったんだと思うんだよね」
 にわかにサトウさんがそんなことを言い出したのは、会場に納品された分の新刊が無事に完売し、少し早めに撤収して、ヴィーナスフォートに行ってサトウさんのおごりでパンケーキをたらふく食べ、ダイバーシティのショップをいくつかひやかして、タリーズのコーヒーを片手に、台場駅に向かってプロムナードを歩いているときだった(イベントの日って脳内麻薬が分泌されるせいか、どれだけ歩いても全然疲れない。代わりに翌日の虚無感がすごいけど)。パンケーキの店で長居しすぎたせいか、既に日は傾きかけていて、親子もカップルも訪日客もみな一様にだらだらと惰性で歩いていた。
「ゴミ箱」
 西日に目を細めながら、思わずオウム返しをすると、サトウさんは小さく頷いてアイスコーヒーを一口飲んだ。
「その人は犬ちゃんの書くものが本当に心底好きだったんだと思うよ。でもけっきょく、その人が好きだったのは『犬丸さん』じゃなくて、『犬丸さんの文章』だったんじゃないかな」
 私の作品を好きな人が好きなのは私じゃなくて私の作品。粗雑なトートロジー、だけど、喉につかえた何かが、その瞬間にストンと胃に落っこちたような心地がした。
「それで、自分の期待通りの『犬丸さんの文章』を提供してくれなかった『犬丸さん』に対して、どうしようもなく憤りを覚えて、勢いのままにそれをぶつけちゃったと。それを受け取った『犬丸さん』がどう思うかなんて想像もしない。いやもしかしたら、『あなたが叱咤してくれたおかげで身が引き締まりました』とかって感謝されてもいいとさえ思ってるかも。なんかすごい腹立ってきちゃった、ちょっとあそこでキスしてるカップルにゴミぶつけてきていい?」
「落ち着いて」
 空のプラスチックカップを手に、真面目な顔で怖いことを言うサトウさんを制しつつ、私は嬉しかった。『新刊完売しました』とツイートしながら、パンケーキにメイプルシロップを滂沱の如く回しかけながら、彼女が頭の中ではずっと、ひそかに、私の身の上に起きたことについて考えてくれていたことが、何だか無性に。
「かといって、犬ちゃんはゴミ箱じゃないから、それを受け止める責任はないし……周りが何を言おうが、犬ちゃんは犬ちゃんの好きなように書いて良いし……でも、犬ちゃんが傷ついた事実は変わらないから、何も書きたくないなら書かなくていいし、書きたくなったら、また書けばいいんだと思う」
 つっかえながらもそう言い切ったサトウさんの顔を見て、それから遠くに見え始めた自由の女神のレプリカを見て、私の口は自然と動いていた。
「そっか、私、存外、自分の書くものが好きで、大切に思ってたんだな……」
 私がこの、弾けたバブルの残り香が消えない、ゴミ山を埋め立てた人工島のことを、子どもの頃からどうしようもなく好きなように。
 たかが趣味だし、たかが二次創作ではあるけれど、それでも私の文章には私が今まで感じてきた、目を焼くような日差しや行き交う雑踏のリズム、風の匂い、無骨なコンクリートの手触り、そういうものが紙面の縁のギリギリまで注がれている。
 それは例え誰が、何と言おうが、私の内側の一番柔いところから生み出された、AIには絶対に書けない、私の宝物だった。





 台場駅に着くころにはすっかり日が暮れていて、少し肌寒いくらいだった。ライトアップが始まったレインボーブリッジと自由の女神像の前ではたくさんの人が記念撮影をしている。澄んだ紺色の空気の向こうでちらつく無数の灯りの賑やかさに、東京の夜の空はすっかり暗く沈黙していた。クリスマスでもないのに、この場所はいつも嘘みたいにキラキラしてるんだよなあ、と思いながら私は言った。
「サトウさん、なんか、ありがとう。いろいろ考えてくれて……」
 サトウさんの瞳にお台場のキラキラが映り込んでいる。たぶん、私の瞳にも。
「思ったんだけど、私のフォロワーも、本を買ってくれる人も、みんな『私』じゃなくて、『私の書く文章』が好きなんだって思うくらいで、実はちょうどいいのかもしれない。それで私、サトウさんみたいな、ほんとに『私』を大事にしてくれる人を一生大事にする」
「えっ急に何……プロポーズ?」
 瞳をキラキラさせながらサトウさんが笑った。
 次の瞬間、あ~この場所で自カプにプロポーズさせたい、とかなんとか元気に騒ぎ始めたサトウさんを見ていたら、両脚はもはや棒のようだし、化粧も剥げてボロボロなのに、私のほうまで出処不明のエネルギーがせりあがってくるような気分になって、その言葉は、江戸末期にこの場所にあったという砲台から飛び出した大砲のように、私の口をついて出た。
「私さ、冬コミ……はもう締め切ってるか、そしたら、春コミ。出る。出たい」
 資料用の写真をバシャバシャと撮っていたサトウさんは、漫画みたいににやりとして、「キツめの幻覚、期待してるから」と言い、バッグの中からコインケースを取り出した。私はそれを受け取って、代わりに、1万と3千円を渡した。突然重くなった鞄を抱えて、サトウさんと新橋駅で別れた。
 翌日、ふらふらしながら仕事から帰って、Twitterを開いたら、サトウさんが昨日のパンケーキとお台場の夜景、それから、もらった差し入れを丁寧に並べた写真をツイートしていた。

   サトウしお@2日目東ぬ38a SPARKありがとうございました~楽しかった~!! 犬ちゃんも売り子さんと介護ありがと~!!!!

 写真の中に、あのピンクの包みを見つけ、私はなんだか少しほっとして、ベッドに身体を投げ出した。