on my own

話し相手は自分だよ

ポリコレ暴走機関車の見た『プロメア』

『プロメア』を観た。具合が悪くなった。

観終わってからも胃のあたりの不快感が消えず、鍵アカウントでぶちぶち小言をこぼしていたところ、フォロワーがこちらのツイートを共有してくれた。

私の不快感の元凶はこの方がきちんと整理して語ってくださっており、これ以上言うべきことは特にないはずなのだが、ただ暴れ狂うだけでは赤ちゃんになってしまうので、「じゃあどうしたらよかったんだよ」というのを頑張って考えてみたいと思う。

まず、上記ツイートの方は

中島かずきさんが「『差別を受ける者との共生』という自分にとってのテーマの集大成」と仰っている

と仰っているが、実際にそういう発言をしたわけではなく、インタビューの中で

差別される者との共存とはなんぞやというテーマも、これまで新感線のほうでずっと書いている話で、そういう意味では集大成

と語っていただけとのことで、以前からそのテーマに関心があって出来たのがコレなんだったらますます絶望が深まるばかりなのだが、とりあえず
『プロメアのコアのテーマ』『差別を受けるものとの共生』(コアは別のところにある)
であるということは念頭に置いて、なるべく落ち着いて話をしていきたい。
もちろんネタバレを多分に含みます。


ガロについて

とにかくバカだということが作中で繰り返し強調される。突き抜けたバカだからこそ突破口になりうることはあるし、理論より気持ちで動くキャラクターは共感を得やすいというのは分かる。それでもちょっとバカすぎやしないだろうか。バカすぎるというか、中身がなさすぎて、物語を強制的に(かつ、見た目良く)動かすための歯車に成り下がってしまっているというか……。
例えばクレイの正体を知るシーン。家が燃えて、おそらく自分以外の家族全員を失ったであろう彼にとってクレイは、唯一無二の精神的支柱だったはずだ。そのクレイが非人道的な人体実験に関与しバーニッシュを苦しめていることを知って、ちょっと洞窟で反省して、即座に勲章を返上しにクレイのもとに向かう。「うなぎが絶滅危惧種だと知ったので反省して今年の土用の丑の日にはうどんを食べようと思う」くらいの軽さだ。すべてを失った世界で唯一信じられる理想を打ち砕かれた人間のとる行動とは思えない。もうちょっと迷いとか、葛藤とか、怒りみたいな、ぐちゃぐちゃした心情を吐露する場面があってしかるべきじゃないだろうか。「テロリスト野郎があんなこと言ってたけど、嘘だよな? 嘘だって言ってくれよ旦那!!」みたいなシーンとか、もしくはリオの言うことを嘘だと決めてかかった結果として自分も人体実験に加担してしまいそこでやっと後悔とともに真実を受け入れるとか、やりようはいくらでもあるはず。そこで初めて、「こんなもの!!」と勲章を投げ捨て、踏みつけ、クレイを睨みつける。熱いじゃん……。

リオについて

ガロに比べればまだキャラクターがはっきりしている。顔がかわいい。あんまり突っ込むところはない。

クレイについて

どう見てもヒトラーであり、彼の思想はどう考えても優生思想であり、バーニッシュを動力源としたエンジンはどう見てもホロコーストである。ナチス式敬礼をしないのが不思議なくらいだ。
彼が悪に心を染めた要因となるようなエピソードは語られない。それはそれで良い、むしろ好ましい。「実は幼いころに自らの炎が原因で両親を亡くし」などと言われても冷めるだけだ(そういう観点から言えば『弱虫ペダル』の御堂筋くんの過去編は残念だった。御堂筋くんには何の理由もなく、何の目的もなく、ただキモくて嫌なやつでいてほしかった)。
一口に悪役と言ってもそのあり方はさまざまで、中には主人公より観客の支持を集めてしまうラブリーチャーミーな敵役もいる。しかしクレイを見ていてもヒトラーだなあ……としか思えないので、とにかく生理的嫌悪がすごい。ムスカのような可愛げもない。……いや、ほとんど存在まるごとネットミームになってしまったムスカと比べてはいけないかもしれない。
しかも、そのヒトラーを殺さず生かす、という選択肢をガロは選ぶ。自分から二度も全てを奪い去った男を、である。たとえば、リオをも凌ぐ炎エネルギーの持ち主であるクレイを煽って煽って限界まで発火させてプロメアにぶつけて相殺させてGOOD BYE、という人柱的な使い方もできたはず(サンド伊達のゼロカロリー理論を参考に)。ガロがとにかく「みんなを救いたい」という思想の持ち主だったことを強調させたいのは分かるが、こいつはどう考えても生き残る資格がない。もしスピンオフやアナザーストーリーがあるならなるべく苦しんだ後に派手に散ってほしい。隅田川の花火みたいに。

(追記: お風呂場でスピッツのα波オルゴールを聞いていたらだんだん頭が冷えてきて、「どう考えても生き残る資格がない」と言ってしまったことを撤回したくなった。たとえどんな極悪人でも"生きる資格"のない人なんていません。クレイ憎しで自分を見失っていました。ただ、フィクション内での表現として、「苦悩しながらも断腸の思いでかつての師を手にかけ、それを背負って生きていく弟子」というのはだいしゅきなのでそういうのが見たかったという素直な気持ちも否定できない。でもプロメアの雰囲気には合わないかな。でもきっちり罪は償ってほしい、相応の報いを受けてほしいので、どうだろう、弱体化したプロメアと一体化して「ぷろめあたん」的なマスコット生物になっちゃうとか……?)

バーニッシュとプロメアについて

というわけで、どう見ても社会的弱者である。自力では何ともしがたい要素で差別を受けており、一部の目立つ過激派のせいで大きくイメージを損ねているという点では、少数民族や異教徒、性的少数者のようでもあるし、社会に"害"をなすお荷物であるという描かれ方からは、身体・精神障害者の暗喩のようにも受け取れる。
ただ「燃やしたいという衝動」については、また別の考え方が可能であって、たとえばこれを『反社会的な思想・信条』のメタファーとすると、「燃やしたいというのはどうしようもなく湧いてくる心の声であり、燃やさないと生きていけないのに、社会的タブーであるがために規制され、罪に問われる」というのは、「君たちは自由ですよ(ただし法律・良識の範囲内でネ)」という国家権力や社会の合意に対するカウンターであるという見方もできる。私の友人には重度のショタコンがおり、18禁の同人誌をひっそりと描くことでその欲望を昇華しているという。好きでショタコンになったわけではないのに、欲望に身を任せた瞬間に犯罪者になってしまう事実が本当につらいと話していた。現実の少年には指一本触れない=誰も傷つけないことをプライドとして日々同人誌を生産し続ける彼女のことを、バーニッシュを見て少し思い出したりした。
しかし、ご存じの通り、彼らの発火能力は最終的に失われてしまう。たとえバーニッシュが社会的弱者をあらわしていても、彼らの炎が反社会的思想をあらわしていても、エルサの氷の力のような二面性を持っていたとしても、はたまた人間のコントロールの及ばない自然災害をあらわしていようが、もうあのラストで全部台無しだ。現実に議論の種となっているイシューを最後どう片付けるか、どう折り合いをつけるのか、と固唾を飲んで見守っていたのがバカみたいだ。
ちょっと長くなりそうなのでラストについては別項で深めたいと思う。

ガロとリオの関係性について

「バーニッシュも飯を食うのか」と、差別どころか人間扱いさえしていなかったガロが、一瞬で「バーニッシュは同じ人間! 苦しめるなんてヒドイ! 俺はみんなを救いたい!」と豹変するのが気に入らない。個人的に気に入らないだけでシナリオ上大きな問題はないです(『グリーンブック』を見た後も同じようなことで騒ぎまくった)。もう少しバーニッシュへの差別意識や嫌悪感を残したままリオと関われなかったのだろうか。バカには保守的で頭の固いバカと、周りの言うことで自分もころころ変わるバカと、いくつかタイプがあるが、ころころタイプのバカだと本当に人間性に厚みがなくなってしまう……代わりに話を進めやすくなる。先ほど「歯車に成り下がっている」と言ったのはガロのこういうところだ。差別意識というのはそんなにクイックルワイパーを使ったみたいに一拭きでお手軽きれいになってしまうものなのだろうか。そう簡単じゃないから、バーニッシュが焼いたというだけでピザが投げ捨てられる世界になってしまったのではないのか。
こいつはただ自分の衝動のために俺の大切な街を燃やし続けたテロリスト、手を貸すのはマジで気に入らねえが、ここは一時休戦だ! と、睨みあうようなシーンがなかったことが残念で仕方がない。なるべく殺さないようにしてるし、何か問題でも? と涼しい顔でテロ行為を正当化するリオのドライさ、キレた魅力を殺してしまっている。相反する二人だからこそ、あの共闘も、キスシーンも光るのではないか。せめて「リオ・デ・ガロン」と「ガロ・デ・リオン」で言い争う場面くらいあったって良かったと思う。頼んでもないのに「リオ・デ・ガロン」って、もう完全降伏に等しくない?

ラストシーンについて

とにかく、発火能力を焼失させるべきでなかった、の一言に尽きる。
「ぼくのかんがえたさいきょうのプロメアのラストシーン」がどういうものかというと、何だかんだで今この瞬間の地球大爆発は防いだものの、バーニッシュたちの衝動は消えてくれなかった。戦いを通して、リオの言う『衝動』について未だ理解も共感もできないが、とにかく自分がリオたちバーニッシュを変えたり、いないことにすることはできないと気付いたガロ。何だかんだで壊滅してしまった街を再建にかかるが、彼はあえて『燃えやすい街』を作り、「いつでも燃やしに来い、俺が全部消してやる」とリオに告げる。リオはバーニッシュたちの集落に帰っていき、彼らは適度に距離を置いてそれぞれの生活を営むが、時折ガロの街を襲撃する。リオとガロの炎バトルは街の人たちにとって一大イベント、最大の娯楽となり、マッドバーニッシュが来るたびに街は大賑わい。いいぞ! 燃やせ! どうせまた建てればいいだけだ! キャー!! リオたゃがうちを燃やしたわ!!! ご褒美~~~!!! 倒れるご婦人。リオくーん!! うちも燃やして~~~!!! ピースくださ~~~い!!! ったく、消すのは俺たちレスキュー隊なんだから、あんまり煽るなよな!! そう言いながらもニヤつきを隠せないガロたちレスキュー隊の面々なのであった……。
えーーーーこっちのほうが絶対熱いじゃん!!!! 中島かずきどうして私に助言を仰がなかったの??? という茶番はさておき、本当に、どうして、あんなラストにしてしまったんだろうという気持ちが消えない。バトルが気持ち良ければそれで良いのだろうか? 私はかっこいい上にシナリオもちゃんとした映画が見たいと思うのだが、かっこよければ整合性は二の次で許されるのか? そのないがしろにされた整合性のせいで作品の品位がガクッと落ちてしまっても、キャラクターがペラペラになっても、話として一貫性がなくても、それでもかっこよければそれでいいの? 本当に?

技術を持つ者の社会的責任について

冒頭で「差別と共生はプロメアのメインテーマではない」ということを確認したのはなぜかというと、「なぜ差別と共生をプロメアのメインテーマにしなかったのか」という憤りがあるからである。男同士のホモソーシャル的友情の勝利なんて掃いて捨てるほどあるテーマなのだから、せっかく「~とはなんぞや」という思索を続けてきたのだったら、なぜそれを作品にして社会に投げかけなかったのか。私はすべての作品がポリコレに丁寧に配慮して、弱い立場の人をエンパワーし、人々が日々生活で抱える難しさに示唆を与えてくれるような、『ブラックパンサー』みたいに社会現象まで巻き起こす大作になるべきだとは微塵も思っていない。思っていないのだが、これだけの素晴らしい画を作るアニメーションの技術力があり、シーンごとにバチバチに嵌まる音楽があり、実力のある役者をそろえておいて、「頭カラッポで楽しめる整合性無視のアクション大作」を作るというのは、あまりにも、あんまりにも勿体ない。「頭カラッポでどっぷり楽しめるシーンもありつつ、きちんとアップデートされた価値観に基づいた社会的メッセージを織り込み、メインターゲットである10代~20代の若者にただ頭カラッポな2時間を過ごさせない」作品を、どうして作れなかったのか。観客も、そんなものは全然ほしくないっていうことなのか。それがなんだか無性に悲しい。

ウルトラハイパー余談・差別と共生について

先日、NHKで「ムスリム社員の働く日本企業で、イスラム教への理解を深めるために交流会が行われた」というニュースが流れていた。この交流会に参加した日本人の社員が、「みんないっしょなんだということがわかりました」と笑顔でコメントしているのを、私はぞっとする思いで聞いた。「みんないっしょ」というのが「みんな同じ人間」という意味なのだとしたら、お前は今までムスリムを何だと思っていたんだという話だし、文字通り「みんないっしょだということがわかった」と言うなら、「いや全然いっしょじゃねーーーだろうが交流会で気絶してたの???」と全力で突っ込みたい。私たちは違う。全然違う。神様も歴史も文化も思考も全然違う。この国の人間は「共生」を考えるとき、何故か「みんないっしょ」にしたがる。「話せばわかりあえる」と思いたがる。だから「自分と違うしわかりあえない」相手に出会うと、排斥(そんな人は最初からいませんでした~)もしくは同化(いっしょになれば嫌われないよ~)の二択しか選択肢がなくなってしまう。「違うままで、お互い深入りせずに、そこにある」という選択肢を、何故かとらない。そんなことをすれば「わかりあおうとしないのは怠慢だ」となる。具体例を挙げれば、「カムアウトしやすい職場を作ろう!」なんていうのはちゃんちゃらおかしい。どうして「ゲイの人もぼくたちといっしょなんだということがわかりました」とマジョリティが納得できる環境をわざわざ整えなければいけないのか。お互いのセクシュアリティに踏み込まなければいいだけの話だ。作るべきなのは「カムアウトする必要のない職場」である(もちろんしたい人はすればいいし、カムアウトした人が不当な扱いを受けないようにしなければならない)。
バーニッシュが能力を失ってしまう描写はあまりにも「日本的」だった。そうやってアイヌ民族琉球民族も在日外国人も移民も難民も「みんないっしょ」もしくは「そんな奴らはいなかった」という扱いを受けてはずなのだから、もう令和なんだからそんなものは打ち破ってほしかった。全然違う私たちが全然違うままで楽しくやっていける未来を描いてほしかった。ただただ、残念だ。

オンデマンド・レビュー『ドリフェス!』

10代の頃にNetflixとかApple Musicとか便利なサブスクサービスがあればよかったのにな、わざわざ在庫のある遠くのTSUTAYAに行かなくて済んだのに、とよく思いかけますが、10代の頃にそんな片手でアニメや映画が見放題のサービスがあったら10000%受験に失敗していたので、なくてよかったな、というところにいつも落ち着きます。Twitterも同様に、受験期にTwitterがなくてよかった。今の受験生は誘惑を振り切るのに大変だろうなあ。英語学習とか情報共有とか、有効に活用できる子はいるのでしょうけど、ごく一部だろうなと思います。私はおそらく大学受験期にTwitterが一般的でなかった最後の世代なので、そういう意味では「いい時代」に生まれたのかもしれない。とにかく誘惑に弱い。マシュマロ・テストとか全然我慢できる気がしない。


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さてドリフェス!です。このあと追加でいただいた追いマシュマロでとりあえず4話までみてねとのことだった(ありがてえ)ので、とりあえず4話まで視聴しました。ネタバレらしいネタバレはないけどいろいろ遠慮がないので注意してね。

私の周りにはいろんなオタクがいまして、特に舞台・観劇ジャンルに限って言えば、ヅカ、四季、アイドル、歌舞伎、2.5、などなど、本当にイカれた多彩なメンバーが揃っているのですが、その中でも私がいつも何となく文化が違うなと思っていたのが「アイドル」オタクの皆さんでした。AKB、ジャニーズ、KPOP、アイドル育成コンテンツ、若手俳優など。共通点は、「応援する」という行為に比重がかけられているところです。すなわち「アイドル」は「育てる」ものであり、「育てる」行為こそがオタクをオタクとして存在せしめている。
この思想が、私にはどうしても相容れない。

私はこれを、私の観劇オタクとしてのベースが劇団四季にあるからだと考えました。私は少なく見積もっても100回は四季の舞台を観ていますが、四季の役者がセリフを噛んだり、飛ばしたり、振りを間違えたりしているところを、(もしかしたら気づいていないだけかも……というのはさておき、)一度たりとも見たことがない。まじめなシーンでニラミンコのかつらが吹っ飛ぶとか、不可抗力のトラブルこそあれ、練習不足が伺えるような瞬間というのを本当に見たことがないんです。

そういう舞台を当たり前に見ていたので、自然と「役者は100%の状態で舞台に上がるもの」という期待が形成されています。役者は完成された状態であらわれるので、私の側に「舞台に上がれるレベルになるまで」の役者のストーリーを受容し楽しむという発想がない。アンサンブルばかりやっていた推しがプリンシパルにキャスティングされた瞬間などは膝から崩れ落ちるくらい嬉しいんですが、推しの成功や躍進の陰にファンの姿はなく、ただただ役者の努力だけがある。役者の皆さんはいつも「お客様の応援があってこそ」とおっしゃるが、客ができることはお金を出して彼らの日々のたゆまぬ努力や美しさやきらめきを購入することだけ(差し入れをする人もいますが。四季の出待ちは個人的にゆるさんぞ!!!)で、私の意識の中ではなんとなく、役者は客とは隔てられた場所にいて、基本的にアンタッチャブルな存在なんです。

私だけじゃなくて、ふだん幅広くミュージカル(500席以上のハコでかかる舞台)を見ている層って、この傾向が強いんじゃないかなと思います。たとえばミュージカル俳優ではないタレントが帝劇の舞台なんかに立つとだいたい批判が出るし、聞いた話では、とある人気演目のダブルキャストの片方が、あまりに歌が完成されてないので、舞台のヤマのひとつであるはずのソロナンバーのあとに拍手がまったく起こらなかった、なんてこともあったようで……。

というわけで、予備知識ゼロでドリフェス!を観始め仰天しました。「5次元アイドルプロジェクト」ってなんだ? と思いつつ。

し、し、素人・・・!!???
すごい、ものすごい、あっぱれなくらい、声優が、素人・・・・・。
観ながらだんだん情緒が不安定になってくるくらい、素人・・・・・・・・。

どういうことだよ・・・・・・と気が遠くなりつつも観続けると、たしかに徐々に、徐々に違和感はうすれ、それが声優が成長しているのか私の耳が適応し始めているのか、正直よくわからないながらも、ああ頑張っているんだな、彼らも努力しているのだな、というのがわかってくる。このへんで軽くググったりウィキったりすると、彼らが本当に声優としてはキャリアゼロで、舞台役者としてもまだまだ駆け出しだということが判明。(唯一、純哉くんの声だけ知っていましたが、『ボールルームへようこそ』の賀寿くんも、わりとちょっとアレだったな……と思い出したり……。)
なるほど、「2次元」のアニメキャラである彼らと、「3次元」の若手俳優である彼らをまとめて「5次元アイドル」なのか、と。2次元の天宮奏くんたちの成長と3次元の石原壮馬くんたちの成長がオーバーラップする構造になっているというわけなのであった……。

正直、本当に、正味な話、声はまずどんなに頑張ってもちょっとじょうずな素人だし、歌も特別うまくないし、ダンスも「あ~3Dモデルが動いている~」という感じだし、曲も歌詞も振り付けもおしなべてダサイし、これをどう楽しめば? という感じで、だんだん本当に気が遠くなってきて、あ~やっぱり私にアイドルコンテンツは無理なんだ、成長するのを待ってる余裕なんてないんだ、せっかちだし、マシュマロ・テストは我慢できないし(←別問題)、not for meでした、センキューグッバイ・・・・
と、心を閉ざしかけたところで、ふと、画面の中で誇らしげに踊る彼らを見て、私の脳裏に過る光景がありました。


IZ*ONE_Dear My Friends + INTRO + Memory│2018 MAMA FANS' CHOICE in JAPAN 181212

PRODUCE 48。
2018年の夏、偶然録画されていたこの番組をなんとなく観始めた私は、日本人と韓国人の女の子たちがともに夢とプライドを掛けて、一生に一度の挑戦に命を燃やす、その熱、いたましさ、ひたむきな姿勢に撃ち抜かれてしまいました。まだデビュー前のひよっこ練習生であるところの彼女たちは先生たちに何度も何度も叱られ、ダメ出しされ、「どうしてここにいるのかわからない」とか「何をしているのかまったく理解できなかった」とか煽るってレベルじゃねーぞ! という真顔コメントにひたすら耐え、それでもデビューを果たすため、最後の12人に選ばれるために何度でも立ち上がる。
当時、仕事が鬼のように忙しく、キツく、当たり前みたいに遅くまで孤独に残業し、土曜も仕事をし、日曜はまったく気が休まらず、朝起きた瞬間に「うわっ朝が来てしまった・・・・・来るなよ・・・・マジ・・・・・」と絶望するという毎日を送っていたのですが、毎週プデュを観ながら練習生の子たちといっしょに泣き、笑い、喜び、どんなに仕事がきつくても、「チェヨンちゃんやカウンちゃんが頑張ってるんだから私もがんばらなきゃ・・・・・」と気力を振り絞って、なんとか最もヤバイシーズンを、彼女たちとともに生き抜いたのでした。IZ*ONEがFNSに出演したときは本当に本当に嬉しかったな~~~。


そして気づく。私、アイドルコンテンツ、普通に楽しんでたじゃん!! 楽しむどころか、生きる糧にしてたじゃん!? チェヨンちゃんが笑うから私に明日があったじゃん・・・・・・???
そしてもう一つ気づく。私がずっと消費してきたのは「完成品がいきなり出てくる」コンテンツだった。私はただ、チケットを買ってそれを遠くから目撃するだけ。でもアイドルは始めから終わりまで、ファンとともにある。ずっと近くにいて一緒に歩いてくれる。「応援する」「育てる」ということにどうしても抵抗があったけど、きっとアイドルって、ファンが推しのために出来ることというのが、たくさんたくさんあるんだなあ……。それはそれで、とっても素晴らしく、うれしいことかもしれないな……。
と、いままで何だかんだと理由をつけて敬遠していたアイドルコンテンツの魅力というか、楽しみ方が、ちょっと分かったような気になったのでした。


ただ、最後にドリフェス!に話を戻すと、これは、これだけは本当にどうしようもないことだと思うんですけど、ふだん全身筋肉みたいな生身の人間が目の前でガシガシ踊って歌も当然うまい、みたいなのを見すぎていて、3Dモデルが踊る様子も、実際に3次元の若手俳優が歌って踊る様子も、どうしても物足りなくて、やっぱりアイドル育成系のゲームやアニメはnot for meだった……。上段で「楽しみ方が分かった」とか言っててそれかよ、という感じで、なんか申し訳ないんですが、同じ広義の舞台オタクとしてアイドル・若手俳優オタクの皆さんにはシンパシーを感じるし、特に2.5舞台のチケットの渋さにはいつも心底同情しているので、お互いチケットを協力したりなどして共存しましょうね、あと特に上手なワカハイの皆さんはぜひ2.5じゃないミュージカルにおいでください、という気持ちです。

オンデマンド・レビュー『さらざんまい』

ところで、「おすすめ」されるのが苦手です。「おすすめ」されるということは、「おすすめ」してくれている人はその作品が好きで、きっと私も好きになってくれると思うから薦めてくれているわけで、何だか「うっ・・・・・」と身構えてしまいます。そのキラキラピュアピュアしたお薦めの気持ちが眩しい……。人が推しについて数時間話し続けるのとかは全然聞けるんですけど。「ね、のいちゃんも私の推し、好きになってくれたでしょ?」などと言われてしまうと、かつてカルトだと知らずにとあるキリスト教系の教団に通って聖書の読み方を習っていた頃、先生役のお姉さんに「ね、のいちゃんもこれで神様を信じるよね?」と言われて言葉に詰まったときのことを思い出してしまいます。その教団からは何度聖書を教えてもイエスを信じないということで見捨てられてしまったのですが。
それでも、人が「これは見る・語る価値がある」と思ったものは知りたい。しかし「おすすめ」されるのはキツイ。
というわけでTwitterで「他人の感想をガチで聞いて回りたくなった作品」をマシュマロで募集しております。本でも漫画でも、映画でも映画でも、映像があれば舞台でもOKです。AmazonプライムNetflixにある作品だと有難い。見て、ましな感想が書けそうだったらこうしてブログにしていきたいと思います。ホームにピン留めしてありますので、よかったらあなたをざわつかせた作品をこっそりお聞かせ願えますと幸いです。

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オンデマンド・レビュー(←いま考えた)第一弾、「さらざんまい」です。ネタバレ含みます。

(クリックしても購入しても、のいには一銭も入りませんのでご安心ください)

名前自体は聞いたことあってビジュアルもどこかの駅にポスターが貼ってあるのを見たことがあったのですが勝手に「作画の良いケロロ軍曹」みたいな感じかなと思ってまったく見る気がありませんでした。「おすすめ」してくださって感謝です。

一話を見終わった時点では「えっ、何もわかんなかった!!!!!」と叫ぶ以外に特にすることがありませんでした。ちょっと世界観のクセが強すぎて、「今どきの若者はこういうわけわかんないものを面白いと錯覚するのか? さすが箸が転がっても面白い年頃じゃな……」と老害ismに走りそうになってしまったくらいなのですが、二話、三話と見続けるほどに、だんだん脳がこの「気の違ったプリキュア」ワールドに適応し始め、少しずつこれがどういう物語なのかわかってきました。
というか、だいたいプリキュアなんですよね。少年たちには守りたいものがある。つながりたい人がいる。それを脅かすものを倒し、大切なものを守るために彼らは変身する。異界の力を手に入れる。それにはリスクがともなう。最終的に彼らは一皮むけて成長する。ただ、いちいち癖が強いだけで……。
皿は「円」であり「生命」の「器」である。「生きること」とはすなわち「欲すること」である。この考え方すごい面白いですよね、『生物は遺伝子の乗り物』ならぬ『人間は欲望の乗り物』というところでしょうか。人間ひとりの単位で見れば「始まりも終わりもある」んだけど、人と繋がりをつくることで、幾多の「始まり」と「終わり」が限りなく接近し、いつか「円」になるわけです。最後に割れたサラちゃんのお皿や川に飛び込むトオイは「小さな死」を意味してるんじゃないでしょうか。生きることはつまり、少しずつ死んでいくことで、同時に少しずつ新しくなっている。異界とまじわって「ちょっと死んだ」彼らは、たとえどんな悲痛な未来が待っていても、生きる限り自分は何かを欲し続けるんだということ、そして生きている限り誰かと繋がり続けるんだということを学びました。そしてそれは自分が選ぶのだということも。それはつまり生命のエネルギーを得たということで、意地汚く見苦しくも生にしがみつくことを肯定する、メチャメチャ前向きで社会的なメッセージだったと思います。
繰り返し出てくる「橋」や「川」のモチーフもすごく効果的で、単に河童の生息地が川だし舞台が浅草だから、というだけでなく、あちらとこちらの境界線としての川、イニシエーションとしての川、禊としての川、と、深読みすればなかなか考察が捗りそうな感じで、まあ私にそんな知識もないので「民俗学っぽいぜ」と悦に浸るだけで終わっちゃうんですけど。
結局カワウソって何だったのかよくわからないし、敵を倒すためでなく尻子玉を転送する(????)ために秘密の漏洩が必要なのもいまいちなんでだよという感じだし、ケッピの絶望がそもそも悪いんじゃないか?という気もしなくもなく、また「つながるためには(さらざんまい!するためには)知られたくない秘密を暴かれなくてはいけない」というのもそんな「私たち心友だから隠し事はナシだよ」みたいなのってどうなんだよとか、エンタのカズキへの想いの描き方が軽すぎてちょっと……とか、そのあたりは何度も見てきちんと考察・批評してるブログがほかにあると思うので、私のほうで深く考えるのはやめておきます。


全11話を見終わり「カワウ~~~ソイヤァ~~~」と口ずさみながらネット上の反応を見ていて、すごく興味深いなと思ったんですけど、「最終話死亡説」で軽くひと悶着あったみたいですね。
死亡説とか死神説で有名なのはトトロで、もちろんそれに言及して「あの物語から何を受け取ったの???」とガチギレしている人を見かけたのですが、気持ちすごくわかります。私も〇〇〇〇〇〇という作品のメインの二人でラブラブエッチな同棲妄想みたいなことをしている人を見て「あの作品を見て出てくるのがそれか?? お前は義務教育の国語の授業を辞書に載ってるエッチな単語に片っ端から下線を引いて過ごしていたのか??」とイライラしたり……これはぜんぜん違うお話でしたね。いやでもあの二人でラブラブエッチはねーよ頭沸いてんのか?
気を取り直してさらざんまいですが、カズキとエンタは既に死んでいてトオイは自殺……というのはよく考えなくてもトオイが11話かけてカズキやエンタから受け取ったことが全部ブチ壊しというか人生ゲームに猫が乱入してグチャグチャにされて全部やり直しみたいな感じだと思うんですけど、きっと死亡説に面白みを感じてしまう層というのは、「博士の愛した数式」に出てくる博士みたいに記憶が10分程度しかもたないんだと思います。そりゃ10分の単位で見たら死亡説は面白いです。宗教画のパロディとか思わせぶりなセリフとか。しかしそれも11話という長期スパンで見ると一瞬で意味をなさなくなる。でも彼らは10分で記憶がなくなってしまうので、短いスパンでしかメッセージを受容することができない。「全体」を俯瞰して、何が起きていて、何を伝えてくれようとしているのか、分からないというか、そういうことに全然興味がないんじゃないでしょうか。
私はそういう見方をする人をつまんないし勿体ねーなと思いますが、それは私が私の見方を唯一無二で絶対に正しい(私が思うんならそうなんだろう。私ん中ではな。)と思っているからで、「私の見方が一番正しいんだ! 死亡説なんてクソだ!!」とFF外から乗り込んで相手を否定する資格なんかもちろんありません。というか「100%正しい解釈」なんてどこにもありません。多分、幾原監督の頭の中にだってないでしょう。私がこれまで2000字近く使ってえらそうに書き散らしたものだって「お前はなにを言っているんだ」レベルの妄言である可能性さえあります。
それでも「70%くらいはまっとうな解釈」というのは、その作品が一定の質を有する限り、どの作品にもあるというのが私の持論です。そして作品をフラットに眺めて、社会的な意義とか、芸術的な価値とかについて考えるとき、「70%まっとうな解釈」にたどり着いていることは大前提として、受け取り手に要求されてしかるべきことだと思うのです。もちろん暇なスキマ時間を潰すために適当に流し見して「トオイくんの夢女になりて~」とか呟く、という見方だって否定されるべきではないし、繰り返しになりますがそもそも作品なんてリリースされた瞬間に見た人のものになってしまって、その人の頭の中にどう取り込まれるか決める権限なんか誰も持ってないんですが、「70%まっとうな解釈」に一所懸命たどり着こうとする行為って、結局製作者への敬意の現れなんじゃないかと、私は思います。あとめっちゃ楽しいしね。ラブラブエッチ妄想の人も楽しいことは楽しいんでしょうけど……。イライラするのでやめておきましょうね。

さらざんまいの話をぜんぜんしてませんが、今後もこんな感じで感想を書いていけたらと思います。

っていうかハッパ育てて生計立ててる男子中学生サイコーでは?

たほのい対談Vol.1 『オタクとスクールカースト ~あたしは風見の熱帯魚~』

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ごあいさつ


のい: どうも~! こんにちは~! 同人女ののいです。今日は夢女・たほさんをお相手に、オタク女の悲喜こもごも、いろいろしゃべっちゃいたいと思いま~す!

たほ: は~ぁ…やれやれ。まーたこのおばさん変なこと始めてるよ。ま、しょうがないから付き合ってあげますかっと。(CV.皆川純子)

のい: もぉ~、たほくんったらつれないなぁ。私、たほくんがこの対談楽しみにしてたの、知ってるんだからねっ!

たほ: そのくせに、のいさん俺と○○先輩を部室であんなことさせて……俺、そんな趣味ないんですから!

のい: グヘヘ……(自分で書いたSSを読み返してニヤニヤしている←)

たほ: (深いため息)重症だな。ま、読んでくれたみなさん、ありがとうございました!こんなおばさんですけど、まあ俺への愛情は人一倍あるということで(笑)許してやってくださいね!

のい: ……軽やかだなあ!! キーボードを打つ手が!! 現役か?

たほ: ということで、今のは「同人誌のあとがきで受けキャラと対談しちゃうおばさんのモノマネ」をお送りしました。血沸き肉躍る熱演だったね。

のい: いきなりパンチがすごいし、今もう私たちがそのパンチでボコボコにされた感あるよね。


この対談に至った経緯

たほ: 以前ふたりで同人イベントにサークル参加をした際に作った無配を対談形式にしました。イメージはユリイカのパロディということで。それが思いのほか面白く仕上がったので、またブログという形でもやってみようかということになったのがきっかけです。

のい: 女オタクが語るって言うコンテンツ、けっこう需要があると思うんだよね。『劇団雌猫』さんとか何冊か本も出してるし。まあ、私は劇団雌猫の四人のうち、三人から何故かブロックされてんだけどね。

たほ: なにそれウケる(笑)

「これまでの推し年表」を見て


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のいの推し年表

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たほの推し年表 表

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たほの推し年表 裏

のい: 今回は令和も始まったことだし、お互いの平成オタク遍歴をプレイバックしてみようと思うんですけど。

たほ: 手元には各々「これまでの推し年表」を書き出したものを用意しました。これに沿っての雑談ということで……とりあえず私がのいさんのをざっと拝見した感想は、「似たような顔のキャラばっかりじゃん」かな。

のい: ハア~~~??!! 全然違うんですけど~~~!?!?? まあ基本等身が低くて、対象年齢も低いことは認める。心に小5男子飼ってるからいつまでもホビアニが好きなんだよなあ。私はたほさんが通ってきた作品あんまりよく知らないのが多いけど、どこか幸薄そうな人が多いよね。目を離すと死にそう。

たほ: でもそれがみんな死なないんですよね(日向ネジ以外)。綺麗な顔して強靭な生命を抱えているっていうギャップが「頼りがいあるわあ。素敵だわあ。」って昔から憧れてたんですよねえ。イノセントさはあんまり必要なかった。現実で頼りになりそうな人ばっかり。

のい: 待って待って、たほさんの推しって、ガチ恋というか、「付き合いたい」って意味の推しなの?

たほ: 当然そうだと思っていたんだけど。だからのいさんの表に女の子の名前があってびっくりしちゃった。昔から女キャラに注目する習慣なんて一切無かったから。

のい: ぶれないな!! 私は本当にヒナタちゃんのモンペで。ナルトと結婚して子供までできたって聞いた日には数日寝込んだくらい。私、キバヒナ推しだったんだけど、このまえ友達が「結局ナルトもヒナタも機能不全家庭に育ったから家庭に対する感覚が狂ってる同士ある意味お似合いだ。サクラとサスケは何だかんだ温かで健全な家庭に育ってるしそっちはそっちでお似合い」って言ってて、そこでちょっと腑に落ちて認めてやってもいいかなという気持ちになったけど飲み込めたかと言われると微妙。……ってメチャメチャ話がズレてるけど、私は「この子から目が離せない」という意味で「推し」って言ってたし、推しと必ずしも付き合う必要はないな。

たほ: キバヒナってまたニッチな路線をつついちゃって、早くものいさんのカプ観の萌芽を感じるなあ。「この子から目が離せない」ってなんだろう。「私がこの子の助けになりたい!」っていうアプローチなのかな。私の場合は、むしろ「こんな人が隣にいたら心強いだろうなあ」と思うことがあったんだけど。

のい: もうすごい夢女の素質あるじゃん。「隣にいたら」と思うことは無い。私も一応小6の頃、「ハリー・ポッター」の双子の両方から愛される夢小説とか書いてたけど、すぐにやめちゃって、その辺からBLにシフトしていった。腐女子界隈で散々言い尽くされた言葉だけど、「壁になりたい」って思いなんだよね。壁になって、ずっとその推しを見ていたい。

たほ: なるほど。もう言葉そのままに「目が離せない」なんだね。自らが壁になるためには、BLというファクターが必要だったと。

「風見の熱帯魚」


のい: というより、夢というアプローチが必要がなかったということであって。推しがいる世界に私が関与する必要がなかった。ただ、「夢女は恋愛脳」という言葉では片づけたくなくて。私自身も、夢女的な消費をすることはままある。例えば私の十八番「風見の熱帯魚」

たほ: 出た、聞いてください。「風見の熱帯魚」。

のい: 「風見の熱帯魚」というのは、私は風見さんが飼ってるちょっと高級な熱帯魚でね、あるとき風見さんが仕事がすごい忙しくてしばらく家に帰れなくて、もうスーツもよれよれで無精ひげ生やしまくってボロボロになって一週間ぶりくらいに帰宅すると、私が腹を見せてプカプカ浮いて死んでるわけですよ。そしたら風見さんはカバンをボトッと取り落として、無言でたった一筋の涙を流すの。次の日の昼休み、降谷さんが「風見、あの店の海鮮丼ランチ食べに行こう」って誘うんだけど、風見さんは数秒黙ったあと、「降谷さん、あの、しばらく魚はちょっと……」って言う。まあ、一週間くらいで吹っ切れて海鮮丼ランチ食べに行くんだけどね。そういう話です。

たほ: でもそれは分かるし、私もしっかり萌えられる。私の場合は、夢女ではあるけれど、本当の私を相手取って妄想しているわけではないから。「並行世界の私」くらいでとどめている。例えば手嶋純太くんと付き合っている私は、そろばん教室で知り合った幼馴染っていう設定なんだけど、もはや私ではなく「夢主人公」ってやつなのよね。だからたとえ熱帯魚であってもそれは根底は同じなのかなとは思った。当時の実際の私は地方在住のニキビに悩む女子学生ですよ。何故かそのへんはわきまえてた。

のい: といったってスクールカーストトップオブザワールドじゃないですかあなた! 何が「わきまえてる」だよ! 下には下がいるんだよ!

たほ: そんなに怒らなくても! どのカーストに所属していても、見えている異性は彼ら(推し)には遠く及ばない人材ばっかりに見えてたよ。何せオタクは幼少期から素晴らしいキャラクターたちと出会っているから、その辺の目は無駄に肥えちゃっているんだよね。成績の悪いオタクが現代文だけいい点数とれるのと同じ原理。オタクは作者の気持ちを読み取る才能を培ってしまった。

のい: それはあるよね。フィクション世界と比べると現実がクソすぎる。まあ、私は中学のころ男子には上履きをドブに捨てられ、女子には机をポスカの落書きだらけにされ、実際に散々だったわけだけど。

たほ: 何それひどいね。何したらそうされんの

のい: 今のね、たほさんの言葉で沸き起こった感情、言葉になんないよ。ミュージカルだったら私のナンバー始まってたよ。

たほ: 『ボトム・オブ・スクールカースト』。

のい: 「♪毎日~消したわ~机の落書き、タワシで……」。

たほ: ごめんごめん、あまりにも壮絶だったから。しかも今こうして話していても全くそういう過去を思わせないし。もしのいちゃんと同じ学校に通っていたら、普通に一緒にお弁当食べてた仲だったと思うし、マンガの貸し借りとかしてたと思うよ。

のい: 私はたほさんみたいな子に一切近づかなかったと思うよ。こえーもん。眉を整えてる女子は全員怖かったわ、あの頃。

たほ: そう言われてしまうとどうしようもないんだけど。だけど今、こうやって恥ずかしいところを見せあっているのだから不思議なものですよ。オタクはスクールカーストを飛び越える。

のい: 本当ね。「服の趣味がバラバラの女の集いがあったら腐女子」って言いえて妙だよね。社会階層をブッ飛ばすパワーを秘めてる。オタクだからできた知り合いって大勢いるし、そういう意味ではオタク趣味は私の人生の宝と言えるかもしれない。しばしば恥部だけど。

オタク趣味はコスパ最高!リピ決定!


たほ: 女の子同士のコミュニティらしく、おしゃれなカフェで女子会したりお勧めの化粧品の情報を共有しあったりする時間も楽しいけれど、それと同時並行で、脳内には常にアナザーワールドがあって、そこの空想の世界で楽しむ時間も存在している。たとえ他人から見ればしょうもない夢小説だとしてもね。丸井ブン太くんが「俺もさんざん回り道しちまったけど、やっぱりお前じゃないと無理って……」って顔を赤らめしどろもどろしながら私に語る日が来ることを考えるだけで顔がほころぶ。無料でこんな贅沢な娯楽はないと思います。

のい: 脳に回すカロリーだけでこの楽しさはコスパ半端ないよね。逆にオタクで嫌な思いをしたことって………………ないな、無いわ。「唐揚げが好きで嫌な思いをしたこと」がないのと同じで、オタクであることで嫌な思いをしたことってない。

たほ: 私も特に無いかな。大学進学に伴って実家を出たときに、一部置き去りにしてしまった同人誌を母親に見つかって「あんたがこんなエロ漫画読んでるなんて知らなかった。とてもショックです。」って言われて心がちょっと痛んだくらい。それ以外に白い目で見られる体験も特に無かったなー。

のい: 私がいじめられてたのも、私がオタクだったからではなかったし。あれ、なんでいじめられてたんだろう? やっぱり腕毛を剃ってなかったのがいけなかったと思う?

たほ: ゲジマユだったこととか? いやー、でも普通に「好きだからついいじめちゃう」みたいな話もあるじゃない。

のい: 私、クラスの男子ほぼ全員からいじめられてたんだけど、それ全員私が好きだったってこと? 逆ハートリップ夢じゃん!!

たほ: そう考えておけばいいってときもあるんじゃないのかな。想像力が豊かなオタクの特権として!

のい: 当て馬女子に体育館裏に呼び出されちゃうよ~。

たほ: 「あー、見ちまったよ、めんどくせえな…… お前ら! あんまりそいつをいじめるなよ。じゃねえと俺がのいの親父にどやされるじゃねえか。……(当て馬女子一行が走って逃げる足音)はぁ。おい、(手を差し伸べて)怪我ねえか。帰るぞ。俺のおふくろがお前んとこに渡したいもんがあるんだってさ。ちょっと寄ってけよ。」(CV.中村悠一)

のい: 絶対家が裏手か隣同士にあるやつ~~~~!!!!!!!


のい:Twitter

たほ:Twitter
ブログ『たほ日記』

パッドマンと「正しさ」について

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下校中の女の子たち。2014年ニューデリーにて



就活の面接でよく聞かれるとされる質問に「あなたの尊敬する人」というのがある。私はついぞ聞かれなかったが、もしこの質問をされたら、「インドで生理用ナプキンを作ったおじさん」と答えようと固く心に決めていた。
おじさんのことを知ったのは、大学生のころに偶然目にしたブログ記事からだったと思う。彼は小さな村の貧乏な一般家庭の出の、妻を愛する普通のインドのおじさんだ。彼の何がすごいのかと言うと、いまだ生理がタブー・禁忌・穢れとされるインドで、衛生的な生理用ナプキンを誰でも製造できる機械を開発するのみならず、その地域の女性がみずからナプキンを製造販売し利益を得るシステムを発案し、女性の自立と人々の啓蒙に貢献した。大統領から栄誉ある賞を賜り、国連やTEDでスピーチを披露するなど、今や世界中から称賛の声鳴りやまぬスーパーヒーローなのだ。
もちろん最初から順風満帆に事が進むはずもなく、妻に逃げられ、村から追ん出され、なかなかに散々な目に遭うのだが、彼はそれでもくじけず「正しさ」へと向かって、結果、多くの女性を救った。ひととおりのストーリーを読んだ私は感動に打ち震えた。当時、就活、というか、どう働くべきか、みたいなことに悩んで行き詰って、毎日毎日鬱屈としていた私の目に、おじさんは聖人君主のように見えた。

その「ナプキンおじさん」が『PAD MAN』という映画になったので、さっそく観に行った。
映画そのものの評価はたくさんの人が文章にしているので、あえて私は細かいことを言うつもりはない。素晴らしい映画だった。あのおじさんの話を、お堅いドキュメンタリーにするのではなく、ボリウッドムービーの明るさ、楽しさ、老若男女みんなに伝わる明快さで表現してくれたことを心から嬉しく思う。
ちょっと話は逸れるが、前に私の恩師がしてくれた話があって、「地形としてはたいへん珍しいがなかなか観光資源として生かし切れていない渓谷がある。ここに人を呼ぶにはどうすればよいか」という問いを、トップ大学とFラン大学のそれぞれのゼミで問いかけたところ、トップ大学の学生は「その渓谷の価値や歴史がよくわかる資料館を建てる」と答え、Fラン大学の学生は「でかいバンジージャンプを作る」と答えた。私はこの話が大好きでよく引き合いに出すのだが、「楽しさ」が人に与えるパワーというか訴求力は決してバカにできない。楽しければそれは勝手に続くし、人はどこからともなく集まってくる。
もちろんこの世のすべてのものがコンテンツとして面白おかしいものである必要はない。それでも、「ナプキンおじさん」は「インド映画」に翻案されて然るべきものであったし、それ以外はありえなかったと断言できる。ありがとうインド。ありがとうおじさん。これを読んだ人でパッドマン未見の人は今すぐ観に行ってください。


私がおじさんをすごいと思うポイントがもうひとつあって、それは他者へと向かう想像力だ。だっておじさんに生理は来ない。月に5日、お腹が痛くて、股の間から血が出続けて、部屋には入れてもらえず、学校にも仕事にも行けず、黙って耐えていることしかできないインドの女性たちについて、今まで誰もきちんと想像して、慮ってこなかったから、21世紀にもなって映画冒頭のような状況がまかり通っていたのだ。
……と、映画を見るまでは思っていたのだが、実際におじさんがしたことを映像で見せられると、実はおじさんにそんな想像力なんて大してなかったんじゃないか? と、思わずにいられなくなってしまった。
どういうことかというと、本当に妻の気持ちを「想像」できるなら、恥ずかしさのあまり号泣された時点でナプキン作りを完全に諦め「君に毎月ナプキンを買えるほど稼ぐ男になるよ」となるべきだし、女子医大の校門に張り付いてナプキンを配ろうとする姿はけっこう怖い。女子学生たちは少なからず恐怖を覚えたはずである。私だったら通報してる。



人に寄り添い、助けになるのに、「想像力」…つまり、「相手の気持ちがわかること、わかろうと努力すること」は、そんなにも大切だろうか?
結局、おじさんがすごかったのは、「自分が正しいと思うことをやり続ける」という点であり(それを「強さ」と呼ぶのではないかと私は常々思っている)そのおじさんの「正しさ」は世界基準のリベラルな「正しさ」に思いっきり合致していた、だから彼はスーパーヒーローになりえた。
「自分が正しいと思うこと」は、必ずしも「みんなが正しいと思うこと」や「Aさんが正しいと思うこと」と一致せず、そのミスマッチはときに相模原の事件のような悲劇を生む。強さ=正しさではないことはこのことからも自明である。渋谷の交差点で100人に聞いたら100通りの正しさがあるわけで、社会とかいうものはこの「正しさ」を、なんとなくそれとなくすり合わせて妥協しあって暮らそうとする人たちの寄り集まったものでしかない。
おじさんの「正しさ」は世界を揺り動かした。そこに「想像力」は必要なく、ただおじさんの「強さ」があった。



母の友人の娘さんに、ゆりちゃんという、二十代半ばの心優しい女の子がいて、彼女はその繊細さからどこに行ってもうまくやることができない。学校もバイトも、がんばりすぎて、うまくやろうとしすぎて、すぐにダウンしてしまう。今は両親の自営業を手伝っているが、彼女と会うたびに、彼女が焦りを覚えていることがひしひしと伝わってくる。
そんなゆりちゃんだが、お姉さんもお母さんもお父さんも、みんなゆりちゃんのように心優しく、ひとの気持ちを思いやれる人たちなので、いつも「ゆりのペースでやればいいのよ」と言っている。私はそれを真綿で首を絞めるような行為だと思いながらも咎めることができない。私としては、刺身にタンポポを乗せるような仕事でもいいので、ハードルを下げに下げてでも何かを始めたらいいと思うのだが、私はゆりちゃんの気持ちのしんどさやつらさがよく分かってしまう、保健室登校経験者であり、ゆりちゃん側の人間なので、「どの口がよくも」と考えてしまって、ゆりちゃんにハッキリともの申すことができない。
今回パッドマンを一緒に見に行ってくれたT女史は、ある意味でオーガニックなティーンエイジを過ごしたので、ゆりちゃんのような人の気持ちがまったくわからないらしい。
「えっ、家出たら!? 派遣の単発バイトとかやればいいじゃん!? 毎日家にいるとかヤバイよ、何でもいいから始めなよ」
と、今まで誰もゆりちゃんに言えなかったことを、きっとT女史なら出会って3分で言ってあげることができるんだろう。それでゆりちゃんはきっと多かれ少なかれ傷つくのだろう。ショックを受けるだろう。でも、それでゆりちゃんが奮い立って、現状を何か変えることができるのなら、T女史は「正しさ」でゆりちゃんを導いたことになる。
「ゆりのペースでいいのよ」と「刺身にタンポポを乗せろ」では、実は後者のほうがゆりちゃんを救うことになるのなら、「他者へと向かう想像力」などというものは、いったいどこまでのリアルな効力を持つのだろうか。



クソのような不正入試や、上沼恵美子に対する蔑視発言など、うんざりするようなニュースが虫のようにわき続ける現代日本で、いま必要とされているのは、常に「正しさ」をアップデートし続ける勤勉さと、その「正しさ」を実践するエネルギーを持つ人、つまり「正論で殴る」人たちなのかもしれない。
そんなことを考えながら、その夜は終電で帰った。翌日も仕事なのに、終電まで遊ぶのは、正しくないことだとはわかっていたが、渋谷の交差点を歩く100人に99人は正しさをだいたい実践できない人であり、私もそのうちのしがない1人なのだ。

南の島で泳ぐためにピル外来に行ってきた

▼はじめに
この文章は、私個人の「月経不順やPMSの改善のために低用量ピルを服用する」という選択と、それにまつわる体験を記録として残したものです。
私と違う選択をした人を、否定したり、考えを改めさせたりする意図で書かれたものではありません。
この件についてコメントや質問をいただいても、私から何かお答えすることは基本的にありません。


「南の島に行かないか」と、大学時代の友人から連絡があった。これほどまでに茫洋として甘美な誘いを、私はほかに知らない。私は二つ返事でその誘いに乗った。


(インドネシアのバティック。いつかインドネシアにも行きたい)


まずは第一に、水着を買わなくてはならない。これは一大事だ。私は地元のスイミングプールで運動のために泳ぐ用の、機能性と耐久性以外にとりえのない水着しか持っていない。そんな水着しか持っていないのに「私は南の島に行く」だなんて、恥ずかしくて口が裂けても言えない。今すぐオシャレで可愛くて防御力の低そうな水着を用意しなければ。それから、強力な日焼け止め。ドラッグストアで売っている中で一番防御力の高そうなものを手に入れなければならない。さらに、ハリウッドスターみたいなサングラス。スマホの防水カバーとセルフィースティックと、プラスチックケース入りの防水「写ルンです」も、持っておくに越したことはないだろう。南の島にはビックカメラもないし。


ここまでリストを作って私は、はたと我に返り、急いでカレンダーを確認した。とある友人の話を思い出していた。大学を出るまで一度も海外に行ったことがなかった彼女は、卒業旅行として彼氏とのハワイ旅行を果たしたが、生理と丸被りしたおかげでマジで何もできなかった、と。22歳で初海外でハワイ、というだけで相当ダサいのに、そんなお粗末な事態になってしまって、当時の私は完全に他人事として大いに笑わせてもらったのだが、この度は私とて他人事ではない。こともあろうか、私の体はフレンチシェフの如く気まぐれなので、被るのか、回避できるのかすら分からない。さて困った、と首を捻ったその瞬間。まるで雷のように、天啓が授けられた。
そうだ、ピル外来行こう。(BGM: My Favorite Things)


低用量ピルのことはずっと前から知っていた。何度か効用や飲み方を調べてもいた。もし、私をずっと悩ませてきたPMSと月経不順が、これを飲むだけである程度改善するならどんなに良いか。そう思っても、なかなか行動に出ることができなかった。周りに飲んでいる友人はいたが、片手で足りる程度だし、女友達の間でもなかなかそんな話にはならない。まず、婦人科に抵抗がある。病院が嫌だなんて、子どもみたいな理屈ではあるが、婦人科に抵抗のないご婦人などそうそういないだろう。
しかし、今の私は違う。南の島に行くのだ。今からピルを服用して気まぐれな周期を正常に戻せば、ハワイ・ショックの轍を踏まずに済むはずだ。南の島に行かない自分はもう死んでしまった。私は新しくなって、新しい選択をすることができる。私は迷うことなくGoogleのアプリを叩いていた。



「ピル外来」というワードにプラス地名で検索すると、検索上位にそれらしき医療機関が表示されたので、何も考えずにリンクをタップする。怪しげなところは何もない、ふつうのクリニックだと思ったので、「予約」ボタンを押してオンライン予約に取り掛かる。希望する診察内容や空きのある日時を選ぶくだりは、完全にヘアサロンとかレストランとかの予約と同じで、そのうちオズモールやホットペッパービューティーみたいなところで婦人科の予約ができるようになってもいいかもしれない。名前や連絡先まで入力したら予約完了メールが来て、あとは当日行くだけだ。ピルを飲むと決めた瞬間から、ここまで五分。


さて時はさっさと流れて予約当日、駅チカで便利なそのクリニックへ向かうと、受付のお姉さんが「本日はこちらでよろしいですか」と、選択肢の書かれた紙を見せてくれた。人目がある中で診察の内容を口にしなくてもいいようにという配慮である。やさしい世界だ。私が頷いたのを見て、お姉さんが問診票をくれる。表面が患者の記入するパートで、裏面が予想外に密度の高い「ピルとはなんぞや」のパートだった。これをじっくり読み込んで、すべてに「理解した」というチェックを入れて提出すると、婦人科の診察室に招き入れられる。本日のメインイベントである。理知的な表情と話し方の女性医師が、鮮やかな手際と滑らかな口ぶりでスパパと説明をしてくれるが、私にはピルの基礎知識があった上に、さきほど問診票の裏を読んだばかりなので、どれもクリアに理解することができた。保険適用のピルと保険適用外のピルの違いや、私がピルを飲む目的を考慮して、今回は保険適用のものを処方してもらうことになった。無理をせず健康的な生活を心がけること、定期的に診察・検診を受けに来ることを約束し、最後に、急に具合が悪くなったときにどうしたらいいかの説明を受け、安心して診察室を後にすることができた。隣接する薬局で、ミントの香りの爽やかな男性薬剤師から爽やかな説明とともにピルを受け取りミッションコンプリート。クリニックに足を踏み入れてから薬局を出るまで、ちょうど一時間程度。飲み始めは次の生理が始まったときなので、まだ服用してはいない。熟すには早い果実を寝かせるように、大切に引き出しにしまってある。



私よりずっと早くからピルを飲み始めた友人が、つい先日言っていた。「ピルを飲み始めたら、自分の体が勝手に担わされた神秘性みたいなものを、やっと捨てられた気がした」。私は彼女とまったく同じ気持ちではないにしても、その感覚はよく理解できる(まだ飲み始めてもいないんだけど)。誰からともなく課せられた『ままならなさ』 ──さらにその『ままならなさ』はいつしか私たちの思考の枠組に入り込んで内在化してしまうのだが── その枷から、もし、ある程度自由になれるとして、いったい誰が迷惑を被るだろう。私が、私の体のために行動したことを、いったい誰が責められるだろう。

「寒いと思ったら上着を着る」とか、「お腹すいたらクッキーをつまむ」とか、そういうレベルの話と同じで、「自分の体に起きていることに対し、何かアクションをとる」という行為は、誰にとっても自然なものだ。だからきっと、私が『ままならない』自分の体をコントロールし、南の島で泳ぐために、ピル外来へ赴いたことは、とても自然なことだったはずだ。寒いも、お腹すいたも、痛いもしんどいもきついも、何も我慢しなくていい。耐え忍んでも、何のためにもならない。たとえピルを飲んだ結果、体に合わなくて結局やめることになったとしても、私はこの選択を、それにまつわる私の行動を、一旦は手放しで祝福したいと思う。そして、南の島の澄んだ浅瀬で、指先がぶよぶよになるまで泳ぎ続けたいと思う。


後日改めて、南の島で遊び惚ける私の写真9割、ピル服用の後日談1割くらいのブログを書くつもりである。


▼しつこいようですが、このブログエントリやピルについてのコメント・質問には、基本的に何もお答えしません。

6月28日の日記

この間、パスケースを落とした。パスケースの中には定期の他に職場のセキュリティカードが入っていて、私はそのために筆舌に尽くしがたい思いを味わった。財布も携帯も鍵も一度も落としたことなんかなかったのに、あの一瞬のせいで私の人生は、職場のセキュリティカードを落とした迂闊で間抜けな人生へと塗り変わってしまった。
その前には、よく利用していた家具のネット通販サイトから私のクレジットカードの番号が流出し、その結果、深夜0時にお風呂から上がってスマホを見たら4万5千円の利用通知メールが届いているという怪事件にまで発展した。実家に財布を置き忘れて近所の知り合い宅に金をたかりに行ったのは先々週の夜更けのことだ。極め付けに、先日階段をたったの三段転げ落ちてしたたかに打ち付けた肘が未だに痛い。



こんなにも不運が続くのも人生史上稀に見ることだったので、先週末、明治神宮にお祓いに行った。なぜ明治神宮かと言うと、もはや観光地化されていてお出かけするだけで楽しそうだったし、何より大抵の神社が「一万円から」と設定する初穂料が五千円スタートでたいへん良心的だったからだ。たったの五千円でどれだけ私の厄が祓われたのか数値化してくれるガイガーカウンターが入り口に設置してあればよかったのだが、そんなものは未来永劫開発されそうにないので、まあ気持ちの問題だよな、と思いながらお札を持って帰った。お札はベッドフレームに立て掛けるようにして置くことにした。毎朝毎晩、二礼二拍手一礼をするほど熱心ではないものの、目が合えば一礼くらいはするようにしている。



どこで見かけたのか忘れてしまったが、日本人の宗教観について、「日本人の言う『無宗教』とは、特定の宗教的組織に属していないこと」という記述を読んで、なるほどそれだと膝を打った。
日本人は宗教的でない、という言説を見聞きするたびに、それは絶対に違う、誰もお守りを踏めないし鳥居を蹴っ飛ばせないはず……と悶々としていたから、雲が晴れたような心地だった。社訓が独特で社長のパワーが強い企業などを、私たちは「宗教っぽい」などと形容したりする。宗教=【共通のルールに従う人の集合】そのもののことだと理解しているからこその表現に違いない。



教祖が国際指名手配されたとあるカルト教団の信者女性のところに1年通って聖書の読み方を習った話はまた別の機会に回すとして、私の見たところ、小さな集団(この"小ささ"は敷地面積や規模の大小ではない)を敬遠する人々にほどなく近いところに、そのような組織の中にようやく心の安寧を見出す人々というのも確かに存在する。また、「シューキョーなんて気持ち悪い、まっぴら」などと豪語する人がまさしく『宗教的』な集団や活動に入れ込んでいるケースも珍しくなさそうだ。そういう人たちを、いかに集団の狂気から遠ざけるかが、現代日本社会の課題である。みたいなことを村上春樹が言っていた。(私は村上春樹のことは「やれやれ、僕は射精した」くらいしか知らないけど、彼のオウム真理教についてのルポルタージュやエッセイはすごく好きで何度も読み返している。)
お守りは踏めないし鳥居は蹴っとばせない人たちが、1日5回礼拝するムスリムを見て「厳しい宗教だ」という感想を抱く。「職場のセキュリティカードを落としてしまったり、不運が続くので、明治神宮で五千円支払ってお祓いをしてもらった」という冒頭の文章を読んで、まったく違和感を抱かなかったのだとしたら、その感性はたいへん"宗教的"だと言わざるを得ない……かもしれない。