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on my own

話し相手は自分だよ

カラダ(の柔らかいところ)探し ──その道程と終着点

小学生の頃のあだ名は「あばら骨ガリ子」だった。


私のカラダには柔らかいところがない。一般的におっぱいは柔らかいと思われるが、私にはおっぱいがない。「胸部」しかない。
高校時代、冗談で友達の胸をさわって回っていたりえちゃんが私の胸をさわるやいなや、スッと真顔になって「ごめん」と呟いたのが忘れられない。
さらに、数年前まで通っていた歯医者では、前掛けをつけた私の胸に使い終わった器具を投げつけるように置かれて本当に痛い思いをした。
痛い、と言えればよかったのだが、それも胸に脂肪のついていないおまえが悪いと暗に言われている気がして、結局言い出せないまま、歯の痛みよりも胸部と心の痛みに耐えていた。


少年マンガにありがちな、男の子が女の子に抱きついちゃったり、押し倒しちゃったりという、いわゆる『ラッキースケベ』のシーンにおいて、男の子の「ああ、女の子のカラダって、やわらかいんだなあ……」というモノローグが入るたびに、私のようなガリガリ女子は暗澹たる思いに打ちひしがれる。
柔らかくない私のカラダに、女の子としての価値はあるのだろうか?
もしかしたら、柔らかくない女子は女子としてカウントすらされないのではなかろうか。
私は怯えた。絵踏みを恐れる隠れキリシタンの如く、私のカラダが柔らかくないという事実が露呈してしまうその日を、私は「あばら骨ガリ子」だったあの頃から長らく畏怖してきたのだった。


ある夜、就寝前恒例の肩こり防止ストレッチ(友人S女史曰く「ヤバい踊り」)をしながら、私は唐突に思いついた。
私のカラダには柔らかいところがない。本当にそうだろうか?
確かにおっぱいはない。「胸部」しかない。しかし、人体の柔らかな部分はなにもおっぱいに限った話ではない。胸がダメなら、何か別のパーツで勝負すればいいのだ。その瞬間、おっぱいがない時点で挫け、跪き、絶望しきっていた私に、一筋の光が射した。神扉閉じ給う時、窓開け給う。神は私におっぱいを与えてはくださらなかったが、きっとどこかに柔らかさを残してくださっているはずだ。
神は私に言われた。ないものねだりをする前に、既に持っているものに目を向けよ。かくして私の「カラダ(の柔らかいとこ)探し」……長く険しい旅が始まったのだった。


まず一般的に柔らかいと言われている部分から探ってみる。二の腕は「おっぱいとほぼ同じ感触」と言われるだけあってそこそこの柔らかさを誇る。ただ、あふれるようなボリュームはない。感動も驚きもない。私が欲しているのは「ああ、言われてみれば柔らかいね」ではなく「やっ、柔らか~~~い!!」というサプライズだ。その点で二の腕の柔らかさはいささか頼りない。
次に太ももである。この部位は体を鍛えている女性ほど固くなる傾向にあるので、日々の運動量がゼロに等しい私の太ももはそれなりに柔らかく、弾力がある。実家で飼っている柴犬の腹部(我が家ではこの部位を指して特に「ぽんぽんさん」と呼ぶ)とおおよそ同程度の感触が得られるのは評価に値する。ただ、裏返せば「柴犬の腹で事足りる」とも言えるので、ぽんぽんさんとの競合は可能な限り避けたい次第だ。
安寧の地、尻。「おまえの尻と後ろ頭の形が良いのは、うつ伏せ寝んねで育てたからだ。存分に感謝せよ」と母が常日頃からのたまうだけあり、しっかりとした丸みと手ごたえが安心感を与えてくれる。数メートル上空から卵を落とす落下実験を実施したらそれなりの数値で応えてくれそうな、そんな尻だ。しかし、尻のもっとも高まった部分から、尻とその周辺(野球場で言うところの外野)に手のひらを移動させると、そこはお世辞にも豊潤とは言えぬ枯れ野なのだ。お情け程度にへばりついた脂肪が哀愁を漂わせている。
ふくらはぎの柔らかさは、私にとって嬉しい誤算だった。力を込めずにぶらぶらとさせた足をさわってみると、なんとも心地良い。親しみやすさで言えばベスト3入りは固いだろう。さわられる側としても、急所たる心臓部からはたっぷり距離があるので、抵抗が少ない。ただ、僅かに力を込めるだけであっという間に従順な柔さを失い、頑なに指先を押し返してくる。柔らかくあるために努力が必要とは、何とも皮肉である。


カラダの柔らかいとこ探しは、同時にカラダの硬いとこ探しであることに気づくのに大した時間はかからなかった。私のカラダの硬い部分。筆頭として言わずもがなの頭蓋骨。友人Y女史をして「打楽器」と言わしめた骨盤。そして、猫背でスマホをいじる姿勢が常態化しているために常に緊張している肩。
私は気が付いてしまった。絶対的な柔らかさなど存在しない。海があるから陸があり、光があるから影がある。すなわち、硬いとこがあってこその柔らかいとこだとすれば、硬いとこの硬さを感じながら柔らかいとこをさわれば、体感での柔らかさは飛躍的に向上するのではないか。脳の中枢が命令を出す前に、すでに体が動いていた。私は凝り固まりすぎて毎度整体のお姉さんに小声で「うわ」とドン引きされる肩の筋肉を揉みこみつつ、先ほど見つけたばかりの柔い部分……ふくらはぎに無心で手を伸ばした。
め……めっちゃ柔らかいんですけど!!!?????
しばし恍惚状態から戻ってくることができなかった。私のカラダは、きちんと柔らかいではないか!! 世界中のみなさんに私のこのふくらはぎの柔らかさを味わっていただきたい。そんな思いで小さな胸がはち切れそうになった。


さて、この話の本題は、実はここからである。
肩とふくらはぎを同時に揉むという、クンダリーニ・ヨーガの始祖でもなかなか発想しないであろう姿勢を取り続けるうちに、私は自分の心が徐々に冷えて行くのを感じ始めていた。
『絶対的な柔らかさなど存在しない』……つい先ほどの命題をもう一度取り出してみる。つまり、世のふわふわフカフカ女性たちの"柔らかさ"は、柔らかくない私のカラダを対象軸の向こうに追いやって初めて成り立つ。美しい花の美しさが絶対/不変でないならば、美しい花の美しさは醜い花の醜さを踏みつけた上で成立するのだ。私のカラダなどは所詮、ふわふわフカフカ女性がますますふわふわフカフカであるための踏み台に過ぎない。
だとしたら、私はこの薄く硬いカラダをどうやって愛することができるだろう。


なんだか急に悲しくなって、私は布団に潜りこみ、鬱々と考えた。考えれば考えるほど、段々、何故か腹が立ってきた。その怒りの矛先は、まず私の持たざるものを持つふわふわフカフカ女性たちに向いた。しかし、彼女たちも特に好き好んでふわふわフカフカに生まれたわけではなく、私のような薄く硬いカラダと比較した上でのふわふわフカフカであることに気づいて、怒りは途端に行き場を失った。そして、やっとたどり着いた。
『女の子のカラダは柔らかい』などと言い出した張本人だ。こいつさえいなければ、私がこれほど苦悩することはなかった。こいつさえいなければ、私は隠れキリシタンのように生きなくてよかったし、乱雑な処置を施す歯科衛生士に文句のひとつも言ってやれた。


やっとわかった。
全部、こいつが悪かったのだ。


女性の身体の柔らかさを欲望しているのは誰だろうか?
女性の身体は柔らかくふわふわフカフカであると、一体誰が決めたのだろうか?
『女性のカラダは柔らかい』というこの命題こそが実体のない幻想であるならば、私のこのカラダ(の柔らかいとこ)探しは、現実の質量を持った唯一無二の私の身体を、幻の『柔らかい』カラダの側に必死に寄せていく不毛な努力でしかない。


私の身体は、誰のためでもない、私のために存在している。『女の子はみんな柔らかくてフカフカ(であってほしい)』などという空想に遊ぶ男性陣の脳にむすばれた虚像を現前させるためでも、そのマザコンをこじらせたような幼い欲求を満たすためでもない。
私の身体は私のためだけにあって、誰にも譲れない。強制されない。搾取されない。私が私の身体をどう扱おうが、さらにはどう思おうが勝手だし、誰に必要とされずとも、誰に愛されなくとも、フカフカだろうがガリガリだろうが、私だけのものなのだから何も引け目に思うことはないのだ。


メーテルリンクの『青い鳥』で、チルチルとミチルの探した青い鳥=幸福は彼らのすぐそばにあった。私は気づいた。『誰かの求める私のカラダ』を探しに険しい旅をする必要なんてない。私の身体は私が生まれた時からずっとここにあって、私が死ぬ最後のその瞬間までいっしょにいてくれる。理想とは違うし、しょっちゅう病気をするし、ときどき言うことを聞いてくれないけれど、それでも私の身体。私だけの身体。


"I am beautiful no matter what they say"──クリスティーナ・アギレラ。"Cause every inch of you is perfect from the bottom to the top"──メーガン・トレイナー。"I’m beautiful in my way Cause God makes no mistakes"──レディ・ガガ。"Oh, it’s just me, myself and I Solo ride until I die"──ベベ・レクサ。


あばら骨ガリ子の長い旅は終わった。もう恐れない。迷わない。りえちゃんをブン殴り、歯科衛生士もブン殴り、ラッキースケベを求める男は少年ガンガンのカドで殴る。
私を不当に貶めるものは決して許さない。
私は、私達は、誰もが強く、そして美しいのだから。

女友達の新しい彼氏との馴れ初めを聞きに行ったら死ぬほど文学だったから文学書きました

 銀座三越のライオン像の前に立ち、日没間近の空を見上げる。紺色の空に縁取られた和光時計台は、夢を見るように淡く光りながら静かに時を刻んでいた。午後7時15分。

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 銀座の街を滑るように進む雑踏はいつだってどこか上機嫌で、約束がある人もない人も、みんな等しく軽やかだ。次々と通り過ぎては私の視界からフェードアウトする通行人たちの、その各々全てに人生があり、家族があり、大切な人がいるだろうことに想像を巡らせてみる。そしてその全ては、私の人生とは今後、二度と交わる事がないだろうことにも。

「結論から言うとね、彼氏ができたの」

 至って真面目な面持ちを作り、T女史はそう切り出した。銀座の目抜き通りを新橋の手前までしばらく歩いたところの、大きなおもちゃ屋の上層階に店を構える気楽なイタリアンレストラン。その奥で、私たちはブラックオリーブをつまみながら、早々に本題へ踏み込もうとしていた。

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『会いに行ける観劇オタク』にならないために ──私がツイートを全消しした理由

musicals

結論から言うと、Twitterに何でもかんでも書くのはよくないし、ツイートは定期的に全消しするべきだし、Facebookのプライバシー設定もガチガチにキメとくべきだし、インターネットはとっても怖いところなのでみんな気を付けたほうが良いです。

順を追ってお話します。


私の趣味はネットストーカー改め特定作業です。
常日頃から「私ネトストが趣味なんで、あんまり日常漏らすと特定しますよ」と周囲を脅していたのですが、あまりにも人聞きが悪いので「特定作業」に呼称を改めました。
ターゲットのTwitterやブログ等の何気ない発言や写真から、その人が特に明言していない個人情報を探り出す行為。それが『特定』です。
もちろん、手にした個人情報を使って誰かを脅したり、実際に危険に晒したり、その情報を第三者に渡したりということは一切していません。
(ちなみに、現実のストーカーでも、現行犯でないと逮捕は難しいそうです)

たとえば、その人の出身大学を特定したいと思ったら、私で言えば「@noi_chu 大学」などでツイート検索をかけると、私の今までのリプライ含めた全ツイートの中から、「学校」というワードの入ったものだけを抽出することができます。
そこから「大学の近くに〇〇が出来た」「今度の学祭で(有名人)がライブやるらしい」というようなツイートを探し出し、Google検索にかけたり
期間を限定して(2015年3月のツイートの中から検索したいときは、「(有名人) 学祭 since:2015-03-01 until:2015-03-31」)ツイート検索したりすれば
びっくりするほど簡単に大学を特定できます。
また、ツイッターを始めたばかりのころにタメ口でどうでもいいリプライを飛ばし合っている人は地元の友人だったり同期だったりする可能性が高いので、そこからも辿れます。
その他、早朝に「○○線の遅延」について呟いているツイートがあれば通勤ルートが分かりますし、「近所のカフェでうんぬん」というツイートに添えられた写真から店名を割り出すことができれば、居住エリアにも察しがつきます。
……このような合法ネトストハウツーを語っていると何万字あっても足りないので以下省略。
知りたい人は個人的に聞いてください。


その観劇ファンの女性のツイートを初めて見た時、すぐにピンときました。
「ああ、特定が簡単そうだな」、と。
頻繁に自撮りを上げる人や、ふぁぼした数だけ~系のタグを好んで使う人は、己の情報管理に無頓着なことが多いということは経験上断言できます。
彼女とはフォロー関係にありませんでしたが、アカウントは公開状態でしたので関係ありません。さっそく私は、彼女のツイートから「仕事」「家」「旦那」等々のワードを含むツイートをピックアップする作業に取り掛かりました。


結果、全体公開されている彼女の発言から、以下の情報を割り出すことに成功しました。

・本名
Facebook
・複数の別アカ
・家族構成
・交友関係
・職場
・部署
・元職場
・旦那の職場
・出身中学
・出身高校と部活
・出身大学と学部
・所属ゼミとサークル
・最寄り駅
・現住所の大体の位置
・元カレ
・元元カレ

そして極め付けに、
本人に気づかれずに本人の姿を確認することまで成功しました。
重ねて言っておきますが違法な手段は何も使っていませんし尾行などもしていません。
劇場のロビーで「あ、あの人だな」と遠くから特定する程度のことだと思ってください。

っていうかまさか本当にいると思ってなかったんです!!
さすがにフェイク入ってるだろうと思ってたんです!!! 信じて!!!!!



何も知らずにのんきに歩く彼女の背中を見て、私は急に恐ろしくなりました。
自分のしていることに恐ろしくなったのかというと、そうではなく、

こんなことしてる私自身、情報管理は大丈夫だろうか?

と、突然に、猛烈に、不安になってしまったんです。


そこで私は、普段自分がどのように特定作業をしているか、思い返して、そこに回り込むようにして自分の情報を消していくことを思いつきました。
たとえば、非公開の鍵つきアカウントでも、TwilogやFavstarにツイートが残ってしまっていることが多いので、私は鍵つきアカウントの特定作業を行うときにそこから過去のツイートを掘り出したりします。
ということは、先回りしてTwilogやFavstarのログを消してしまえばいいわけです。
私はたっぷり3時間ほど使って、自分の今まで使ったアカウントの全てで、

ツイートのログをHDDに保存する

自分のアカウント名(@noi_chu)でGoogle検索する

出てきたツイート記録サービスに片っ端から削除申請する

フォト蔵やTwitpicなど、画像保管サービスも、画像をダウンロードしてからアカウントを抹消する

黒歴史クリーナーで全ツイートを削除する

使ってないアカウントは抹消する

という作業を行いました。

これでも完璧ではないし、公開アカウントから私に送られたリプライや非公式RTは残ってしまいます。
そこはもう仕方がないので、今できることを確実に、全てやりました。
(もっと効率の良い方法があったら教えて頂きたい……。)
あとは今後、ますます注意を払ってTwitterを使うだけです。


そして今、私は、きょうも元気に個人情報を垂れ流し続ける彼女に届くことを祈りながら、このブログを書いています。


Twitterに何を書くかは個人の勝手です。
観劇予定を名前のあとに@で入れてる人や「今日のコーデ(はあと)」をアップする人に向かって、「劇場出口から尾行されて自宅特定されたいの!??」とか、
特殊な職種なのに会社の愚痴を言ってる人に向かって、「バカッター案件で炎上しても知らないから!!!」とか、
役者の個人情報や未確定情報を無責任に広める人に向かって、「地獄へ行け!! 呪われろ!!!」とか、
口出しをする義務も権利も、私にはありません。


それでも。心からの反省と、自戒の念と、お節介ババアの老婆心とを込めて、言わせてください。



自分を守れるのは自分だけ。

何かあってからじゃ、遅いんです。


ネットストーカー改め、Twitter探偵noiからは以上です。

(6/4 追記)
あまりに当たり前のことなので書かなかったんですけど、ストーカー関連のトラブルはストーカーする側が100%悪いです。痴漢や殺人と同じです。
できる自衛はしたほうがいいよね、という話です。

日常雑記: A monster in a mirror

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長い間、鏡の中には怪物が棲んでいた。


22くらいの歳まで、鏡をきちんと見たことがなかった。
鏡に映る自分の素顔を思い出そうとしても、うまくいかない。鏡に向かうことさえ稀だったために、私はその頃の自分の顔を覚えていない。
もちろん写真を見れば、そこには20歳の私や17歳の私が鮮明に映っている。でも、どうにも違和感が拭えない。これは誰なんだろう、と思いさえする。だって見覚えないんだもん。


鏡にはとんでもない怪物が映っているのだと思っていた。
鏡だけじゃない、お店のショーウインドー、パン屋のガラス窓、エレベーターの中、磨き込まれたキッチン、どんなところにも怪物は現れて私のことを脅かす。そのたびに私は目を背けた。
服を試着するたびに、「顔から下しか映らない鏡を用意してくれ」と思った。
美容院に行けば小一時間は怪物とマンツーマンだ。地獄だった。


つまり私は自分の事をとんでもない、怪物のようにおぞましいブスだと思っていたのだ。

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【必見!】魔法のように英語を話せるようになりたくなくなる4つの秘密

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「英語が話せるようになりたいなあ……」

学校や会社で英語力が必要とされる現代日本社会。
自分にもっと英語力があったらと、悩んでいる方は多いのではないでしょうか。

そして、そんなふうに思うことさえ、最近なんだか面倒くさくなってきていませんか?

この記事では、外国人留学生にまみれる生活を送り、
またNYで3か月間インターンを含む語学留学を経験し、
数多くの人の英語にまつわる悩みを聞いてきた私noiが、
本気で英語を勉強したくないあなたのために、
とっておきの「英語が話せるようになりたくなくなる」方法を伝授しちゃいます。

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さっちゃんの幸せ

diary
Twitterの海には本当に、気が遠くなるほどに、多様な生き物が棲みついていて、いくら眺めても飽きることはない。その混沌とした海にぽっかりと浮かんで、そこに暮らす生き物たちのさまざまな生態を垣間見るのが好きだ。
さっちゃんとは、そうやって浅瀬をシュノーケリングしている中で出会った。昨年の11月のことだった。
 
 
さっちゃんは、とある有名アイドルグループのメンバーと秘密の恋愛をしている。便宜上、そのアイドルの名前をKとする。
Kは既婚者であり、子どももいる。しかし、彼の結婚はいわば芸能界の政略結婚であり、彼が心から望んだものではない。彼が真に愛しているのは他でもなく、彼のデビュー当時から彼に寄り添い、彼を支え、ファンとしてついてきてくれたさっちゃんである。さっちゃんとはアイドルと一介のファンだということで、その他のファンの心情に配慮し、さっちゃんを愛していること、彼女と一緒になりたいことをKはずっと公にしなかった。その結果、望まぬ結婚を強いられ、父親の違う子どもを自分の子どもだと公表せざるを得なくなった。もちろん、関西の田舎に住むさっちゃんとは遠く離れたまま。
Kとさっちゃんは、苦しい日々を送りながらも、お互いを愛し、思いやり、いつか胸を張って二人で暮らせるようになるその日のために、静かに、しかし着々と水面下で準備を進めている。
 

Twitterのbioに「/」で区切って好きな役者や演目を羅列する私達観劇ヲタがが見つめなおすべき“個性”と“意識”

musicals

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↑精一杯個性的で面白い写真を撮るべく一人サウンド・オブ・ミュージックを始める在りし日のnoi氏

 

本当は今から豚キムチを作る予定だったんだけど、どうしてもこれだけ言いたくて言いたくて具合が悪くなってきたので、書き終ったら豚キムチ作ろうと思います。おなかすいてるんで、手短に済ませます。

 

aonooo.hatenablog.com

 

釣りかもしれない。炎上商法かもしれない。
それでもこのような記事が生まれ、拡散されていく現代日本社会に絶望しか感じません。心の中は……闇だ……。

 

具体例を上げると分かりやすいだろう。自分の説明をするツイッターのプロフィールの場で「/」で区切って好きな物をひたすら並べている人(これには共通の趣味の人を見つけやすいメリットがあるけど)、音楽や漫画や映画や小説を喋り続ける人、個性的な人の表面の表面を真似してアバンギャルドさを演出している人、道具みたいに彼氏のスペックを自慢する女の子、残念だけどそれはあなたの個性ではない。何かを好きある事自体が個性だと思っている人が多いけど、それはその人のアイデンティティでも無ければ、説明にもならないのだ。 (上記ブログ本文より)

 

このブログで語られているのは、つまりこういうことだと思う。違ったらごめん。
・個性があるほうが面白いし、人生楽しい。
・みんなが個性的と思ってることは実は個性でもなんでもない。
・好きなことを突き詰めて、表現、発信しよう。

 

さて、私達観劇ヲタは、私個人の実感としておよそ8割(いや、それ以上……?)の人達がbio(プロフィール欄のこと)に好きな役者や演目を書き連ねている。
例えばこんなふうに。
『スリル・ミーが大好きな女子大生。再演しないと放火しちゃうぞ。ご贔屓→松下洸平/柿澤隼人/良知真次 その他、洋画/BW/小劇場/Disney/写真/アート/SFも好き。』
おなかがすいてるんで良い例が浮かばないんですけど、こうやってスラッシュで区切られた羅列によって自分が何者かを説明しようとしている人が大半だ。

 

そんな我ら観劇ヲタは、このブログを書いた方にしてみれば、「みなさんは好きなものを表明しているだけで個性的だと思っている実は面白味のない無個性な人たちです。もっと自分の好きなものを追求して、ユニークなことを発信していきましょうね。」と赤ペンでも入れられてしまうんだろう。「いっぱい贔屓がいるわりに凄まじく中身が薄い」とか? 確かにたった一人を追いかけてる人って概して「濃い」人が多いけど。

 

でもちょっと待ってほしい。
観劇ヲタに限らず、人は人を楽しませるために存在しているわけじゃない。
「面白い」とか「無個性」とかジャッジされるために存在しているわけじゃない。
みんなお笑い芸人やアーティストを目指しているわけでもないし。
だいたい、「個性的である」こと自体、一種の幻想ではないの?

 

私たちは私たちが思っている以上に、ガッカリするくらいに、「普通」だ。みんな同じようなものを同じように好きになり、嫌いになり、買っては捨て、同じような、たとえ自伝やエッセイなんか出版したところで誰にとっても価値のない、そういう「普通」の人生を生きる。生きて死ぬ。「普通」に死ぬ。
この季節、電車の窓からホームを見ると、あまりに「黒い」ことに驚かされる。みんな同じような服を着て、同じようなアプリで遊びながら、何の変哲もない一般家庭に帰宅するために真顔でホームに並んでいる。
観劇ヲタなんか真に典型的だ。同じような役者を同じように応援して、観劇して、だいたい同じような感想を抱いて、「〇〇幕間! やっぱり××さん不調だな。でも##のデュエットは何度聞いても鳥肌♡」みたいなツイートをトイレの列でちまちまと流して、それの繰り返し。ときどき諸事情により贔屓を入れ替えながら。

 

いや、いいじゃん。
全然いいじゃん? だってみんな「普通」なんだから。「普通」に生きているんだから。
何かを好きであるだけでは「個性」としては弱い? よしもとのオーディションじゃあるまいし。『一億総ピン芸人』とか某さんが掲げてるわけでもないし。
どうして「個性的である」ことが「楽しさ」や「幸せ」、果てには「人生の意味」なんてものへとまっすぐに向かうと言えるだろう。

 


発信することも表現することも良い事には、楽しい事には違いない。
ただ、それだけが人生じゃない。あなたが言う「表現」だけが、「表現」じゃない。
パン屋でバイトしている女子高生がパン生地をこねることも、ホームレスのおじさんが段ボールの上で寝ることも、ついには背筋をしゃきっと綺麗に伸ばして歩くだけの行為だって「表現」になりうる。
家に帰って、あ~~とか疲れた~~とか言いながら重い鞄を下ろして、ネクタイを緩め、寝ている飼い猫の頭にそっと手を伸ばす瞬間こそが、最もその人がその人らしい、輝いている瞬間であることだって、たぶんある。たぶん……。

 

で。私たち観劇ヲタは「個性的」になるべきでしょうか。他人と違う自分を積極的に発見して行くべきでしょうか。贔屓をスラッシュで区切ることを卒業して、表現者のひとりとして自覚を持って生きるべきでしょうか。
全部NOだ、馬鹿野郎。「個性的」な人の「表現」する「個性」とかいうものが見たければアメブロのランキングを上から順番に見ていけば良い。あと若手歌舞伎役者の坂東巳之助坂東新悟両氏のブログめっちゃトンでて面白いです。マリウスで衝撃デビューした田村良太氏の昔のブログとか、キメてるとしか言いようがなくておすすめ。

 

何にも作れない、名前なんて残せない、もし沢山の人を楽しませられるとしたら何だろう、シンデレラ城の前でプロポーズしてフラれるとか? そのくらい。
そんな「普通」で「平凡」で「没個性」で「面白味のない」「凡人」が寄り合ってなんとか暮らしているのが社会で、歌えもしなければ踊れもしない人たちがなけなしの給料を紙切れに溶かして2時間から3時間じっとお利口に座ってるのが劇場だ。
いいじゃん、平和じゃん。
そんなふうに思ってしまう私もまたどうしようもなく「普通」で、アイデンティティなんかどこ探したって無くて、「BEFORE AFTERサイコーーー!!!」とか「ワンピース歌舞伎サイコーーーもサイコーーーー!!!」とか、ゴミみたいなIQを露呈するツイートをこれからも繰り返す事だろう。
たぶん、死ぬまで。報われなくても、蔑まれても、誰かと同じような人生でも。