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話し相手は自分だよ

『死ね』って言っちゃいけません? ──『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』最終話に寄せて

 野次馬根性がDNAレベルで染みついているのか、バズっているツイートやブログは見に行かずにはいられない。
 先日、こんなエピソードがバズっていた。幼稚園に通う娘さんが、お友達に影響されて「死ね」という言葉を使うようになり、ある朝、とうとう母親に向かって「お母さん死ね」と言ってしまった。母親であるツイート主は「わかりました、お母さん死んできます」と宣言し、着の身着のまま家を出た。娘さんは泣きながら縋り付いて許しを請うた。それ以降、娘さんは「死ね」という言葉を使わなくなったそうだ。ツイート主は、「『死ね』以外にも人を傷つける言葉はたくさんある」としながら、「娘に言葉の重要性を教えたかった」と記した。
 反応をざっと見た限りではポジティブな反応がとても多かった。「うちでも同じことをしました」「言霊は大切ですね」「素晴らしいお母さん」「子どもはそれくらいしないと分からないですからね」等、等。命は大切で、かけがえのないもので、たとえ冗談でも、また幼稚園児であろうと、相手の死を願うような言葉を軽々しく吐いてはならない。そのことを幼い時からキッチリ教えてあげることは良いことだ。本当にね、そうですよね。1万6千RT、800のリプライ、2500の引用RT、12万いいねを寄せた人々が口々に嘯いている。


 また別の日には、「発達障害の人は、保険にも入れなければローンも組めない」という内容の増田(はてな匿名ダイアリー)がバズっていた。新たに保険に加入する際や、住宅ローンを組む際に、精神科や心療内科への通院歴を告知する義務があるからだ。発達障害当事者の友人に聞いたところ、精神障害と同じで、必ずしもその機会が永遠に奪われるわけではないにせよ、定型発達の人間よりも手間がかかったりハラハラしたりするのは確かだということだった。
 日本社会は精神疾患に厳しすぎるというのは、現状健康に生きている私でさえ日々実感するところである。というのも、私は高校を自主退学しているため、履歴書の学歴欄を「高校中退」から始めざるを得ず、面接官から高確率で「どういうことだ」とツッコまれるのだ。私は一応、転職エージェントから助言されたとおりに、「長く通学できなかった期間があって、出席日数が足りなくなり……」と濁すが、ほぼ100%の確率で「それはメンタル的なアレか」と追撃されるため、最終的に「仰る通りだが、大学入学時点で完治しており、通院も服薬もしておらず、すっかり元気に生活している」と汗をかきながら弁明するはめになる。「もう大丈夫です」などと重ねて言いながら私は、意識の片隅で、いったい何がどう大丈夫なのだろう、と思う。大丈夫でないといけないのだろうか。それはどうやって証明できるだろうか。そもそも、「大丈夫」な人なんて存在するのだろうか?
 住宅ローンを組めない。仕事が見つからない。住まいも仕事も、生命維持とは切り離せない、つまり「なくてはならない」もので、そこから疎外されることはダイレクトに生命の危機を意味する。「ああ~、そうなんですね」と薄笑いを浮かべる面接官の顔を見るたびに、私はなんだか、少しずつ足元が崩れ落ちるような錯覚に陥る。


 Netflixで配信されている韓国ドラマ『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』の最終話がとうとう配信された。もうめちゃめちゃ面白くて、毎週(一人で)ギャーギャー言いながら鑑賞していたので、とても寂しい。主人公のウ・ヨンウは"韓国初の自閉スペクトラム症の弁護士"で、目にしたものをカメラのようにそのまま記憶する能力を持ち、ソウル大学ロースクールを首席で卒業した"天才"である。が、その障害のためにどこの弁護士事務所にも雇ってもらえず、やっと能力を認められ大手ローファームに拾ってもらえたかと思ったら、実はその裏には複雑な思惑があって……というストーリーだ。クジラやイルカが大好きなヨンウが事あるごとにマシンガンオタトークかますシーンや、イケメンパラリーガルとの揺れ動きながらも甘酸っぱい恋愛など、韓国ドラマらしいコメディやラブを砂糖のようにまぶしながらも、物語の芯は太く、そのメッセージもはっとするほどシリアスだ。
 特に、医大生の兄を暴行し、殺害したとされる自閉症の青年を弁護する第3話では、障害を抱えて生きていくことの困難さが、ナチスの優生思想を引用しながら、ヨンウのモノローグで語られる。『わずか80年前、自閉症は生きる価値のない病気でした』『"障害者ではなく医大生が死んだのは国家的損失"、いまも多くの人がこのコメントに"いいね"を押します。それが私たちが背負うこの障害の重さです』──日本でも相模原の障害者施設殺傷事件が起きたとき、犯人の語った動機に多くの人が共感を寄せた。2016年の話だ。


 『ウ・ヨンウ』には、全16話のどこにも、"100%の悪人"が登場しなかった。一人のフィクショナルなキャラクターの、見る者の胸をキュンとさせる一面と、ぞっと血の気の引くような一面の、その両方を見せながら、物語は『これはあなたの姿ではないか』と問いかける。だから視聴者は、常にどこか居心地の悪い思いをしながらドラマを観ることになる。
 私は、ヨンウの弁護士としての能力をろくに確認もしないままに、「自閉スペクトラム症の人をなぜ採用したのか」と上司に詰め寄るチョン・ミョンソクではなかったか。私は、「彼女は弱者などではない、常に配慮してもらえる強者だ」と言って憚らないクォン・ミヌではなかったか。私は、ヨンウが弁護士だということを知って、ポケットに突っこんだままだった手を慌てて出した、イ・ジュノの友人たちの一人ではなかったか。


 すべての人間はひとしく、生まれながらに基本的人権を持っている、と世界人権宣言が謳ったのは終戦直後の1948年のこと。それから74年が経った2022年の暑すぎる夏の日、無邪気に人を傷つけた幼い女の子に、命の尊さ、言葉の重みを教えた母親を褒めたたえる私たちは、同じ口で、誰かに冷たく「死ね」と言ってはいないだろうか。「私はあなたのことなんてどうでもいいし、あなたの声には耳を傾ける価値がないし、あなたのことを誰も助けない」と、誰かの尊厳を切り刻んではいないだろうか。コロナ禍で職を失った人に誰かが「自己責任だ」と言ったとき、公共空間のバリアフリー化を訴える身体障害者の訴えに「わがままだ」と批判が集まったとき、ある政治家が「生産性がないセクシャルマイノリティのために税金を使うのは度が過ぎている」と言ったとき、私たちは、あの女の子を叱った母親のように、ちゃんと怒ってきただろうか。


 ヨンウには、いつも近くで彼女をさりげなく支えてくれる良き友人がいた。ヨンウは彼女のことを「春の陽ざし」のようだと言った(私の顔に漢江ができちゃったエピソードの一つである)。たぶん、ヨンウだけではない私たちの誰しも、いや、それどころか、問題なく住宅ローンを組んで、保険に入って、一流企業でバリバリ働くマッチョな人間でさえ、きっと「春の陽ざし」が必要だ。一人で生きていけないのは、障害のある人だろうが、定型発達の人だろうが、みな同じだ。「100%大丈夫」な人なんて、この世のどこにもいない。だから、「大丈夫」じゃなくても、何とか生きていける世の中になってほしいなと思う。ヨンウの心がいつも、大好きなクジラやイルカと共にあったように、自分の心を救ってくれる何かに支えられて、回転ドアに挟まれそうになりながらも、誰もが何とか歩いて行ける世の中に。