on my own

話し相手は自分だよ

同人サークル『それわた』について

▼『それわた』とは?
「たほ」と「のい」の二人が楽しく遊ぶサークルです。
最近、Youtube 配信を始めました。
ぜひこちらよりチャンネル登録してください。

 

▼次回の活動予定

2022年11月開催予定のコミティアに出たいな~と思っています。

9月にたほさんとどつ本の結婚式があり、友人代表のスピーチを頼まれているので、

新刊にはスピーチの全文を掲載したいです。


▼既刊

●『それが私にとってなんだというのでしょう? Vol.1』

のいのブログ(これ)で公開した文章に加え、
いくつかのエッセイを書き下ろしています。
ちなみに「女友達の~」に出てくる「T女史」とはたほさんのことです。

★『ねとらぼ』で紹介されました!

自分とまわりに向き合うエッセイ 同人誌『それが私にとってなんだというのでしょう』が向ける生き方へのまなざし(要約):司書みさきの同人誌レビューノート - ねとらぼ

f:id:noi_chu:20220504010813j:image

 

同人女のスピーチ a.k.a. 11/27 コミティア参加のお知らせ

●11月27日(日) 東京ビッグサイトにて行われるCOMITA142に「Sorewata」として参加します。スペース番号はG30aです。「Sorewata」についてはこちら

●新刊「それがわたしにとって何だというのでしょう? vol.2」(たほさんとの合同本)に掲載予定のショートエッセイの中から一編を全文公開します。

●イベント当日、当スペースにて、文中に出てくる結婚式の友人代表スピーチを完全収録したペーパーを無料配布します。お気軽にお立ち寄り下さい。

 

*

 

 あの日のことは、まるで昨日のことのように思い出せる。つまり、『T女史』ことオタク友達たほさんから、「のいちゃん、私の結婚式で友人代表スピーチをやってほしいんだけど」と告げられて、「ヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダ!」と、むずがる幼児のように騒ぎまくってしまった日のことである。


 考えてもみてほしい。だって、『私』は絶対に『違う』ではないか。普通、結婚式の友人代表スピーチって、家族ぐるみの付き合いのある近所の幼馴染とか、汗と涙の日々を共にした女子バレー部の友達とか、そういう、納得感、おなじみ感のあるポジションの人間が務めて然るべきだと思う。彼女とは、生まれた病院も保育園も学校も予備校も職場も最寄り駅も、何一ついっしょではない。ある日、ビッグサイトの東ホールに行ったら、友人のスペースで売り子をしていたのが、たほさんだったのだ。
 そんなわけで、当然、たほさんの親族は誰も私のことを知らない。それが、私の抱いた懸念の最たるものだった。そんな、どこの馬の骨だか知れない女が突然しずしずと前に出てきて「たほちゃんと私の思い出」みたいな話を始めたところで、存在しない記憶を語るヤバい奴にしか見えないのではないか。新郎である通称「どつ本」とはかろうじて面識があることが唯一の救いだが、それでもあふれ出るアウェー感は拭い去れない。極め付けに、会場は都内の超がつく高級ホテルである。そんなところに持って行ける顔なんかない、頼むから会場を変更してくれ、「〇〇市民ふれあいセンター」とかに、と泣きついたが、梨のつぶてであった。
 このように、とにかく「におもきまずい」ということを切々と訴え続けたのだが、たほさんは「のいちゃんは私の手持ちの中で国語力のパラメータ値が最も高いポケモンだから」と言って、頑として聞いてくれない。それどころか「好きにやってくれてかまわない」「ふつうの式にしたくない」「ブチ壊してほしい。やったれ!」などと、およそ結婚式の話と思えない要望が次々と飛んでくる始末。もうどうなっても知らないぞ、と半ばヤケクソになった私は、結局ぶつくさ言いながらも、友人代表スピーチを引き受けたのだった。

(ちなみに私はスピーチ以外でも、Twitterのフォロワーが数千人単位のたほさんの友人数名が参列すると聞いて、「αの女たちのテーブルにβの女を混ぜるな」などと騒いでたほさんを困らせた。)

 

f:id:noi_chu:20221123113612j:image 

 

 とはいえ、私がふつうのスピーチを書けるわけがない。ここにおわす私を誰と心得る。たほさんの美しい名字が結婚によってフツーのそのへんにいる名字になるのが嫌すぎて死にそうな気持ちを熱く綴ったブログが、一夜にして驚きの二十万アクセスを叩き出した、筋金入りのフェミニストにあらせられるぞ。「日本の伝統的家族観と家父長制」みたいなテーマで一席ぶつのもアリかとは一瞬考えたが、しかし、私とて大切な友人であるたほさんをお祝いしたい気持ちも確かにある。
 私はネット上に転がっている「友人代表スピーチ」の例文を片っ端から蒐集し、日夜研究に励んだ。今回、たほさん側の親族だけならともかく、当たり前だが、どつ方の親戚も多数出席される。「こんな妙な女が新婦ちゃんの友人代表なの?」と、不信感を抱かれるようなスピーチは絶対に避けねばならない。かといって、ネット上の文例に散見されるような「たほちゃん、お嫁に行ってしまうのは寂しいけど、しっかりどつ本さんを支えてあげてくださいね」みたいなことは絶対に、口が裂けても言いたくはない。原稿はかなり難航した。「(本名)さん、と呼ぶと堅苦しいので、いつものように『色白ブルべ姫』と呼ばせてくださいね」などと書いてはゲラゲラ笑ったりして貴重な時間を無駄にしながら、あれこれ考えて、唸って、転げて、式当日も間近となったある日、ふと「結婚式は女性が人生で一番輝く日」という、チャペルか何かの広告が目に付いた。あ、と思った。それからは、道に迷っていた人が急に行き方を思い出したように、するするとスピーチは出来上がっていった。

 


 式当日、プロのピアニストの奏でる『Wicked』の「For Good」をBGMに読み上げたスピーチは、実際、そこそこうまくいった。高砂のたほさんはもちろん、何故か隣のどつ本まで涙目になっていた。会場内でたほさんのご学友に呼び止められ、熱くスピーチの感想を語られたりもした。まさか結婚式でマシュマロをもらえると思っていなかったのでびっくりした。かつて同人イベントにサークル参加した際に、突然「あなたの新刊をさっき読みました、めちゃめちゃよかったです」と今日頒布した同人誌の感想をその場で伝えてくださる方がいたが、それくらいのスピード感であった。
 いい感じの原稿を準備するのも、つっかえずに読めるよう内容を暗記するのも、全く着慣れない振袖でスピーチするのも、とても大変だったが、おおむね成功を収めたと言ってよいだろう。式そのものも、新郎新婦の配慮がすみずみまで行き届いた、品のあるお式で、雨予報を裏切る穏やかな青空に包まれながら、滞りなく幕を閉じた。

 


 式から幾日かが過ぎて、私とたほさんは新大久保の焼き肉屋でささやかな打ち上げをした。たほさんのおごりだというので、風味豊かな鴨肉の焼き肉を遠慮なくもりもり食べた。煙のにおいを全身に纏いながら、カフェに場所を移し、ピンス(韓国風かき氷)を食べながら、私たちは結婚式の感想を言い合った。私は式の間中考えていたことをふと口にした。
「どうして人は結婚を祝うんだろうね」
 たほさんは『お前は何を言っているんだ』という顔をして、私も同感だったので、その話はなんとなく有耶無耶になったのだが、改めて考えると、やはり、めでたいことだからに違いないのだ。違う人間同士が出会い、互いを人生のパートナーとして選んだこと、その決意と、二人の新たな人生の幕開けを祝して、私たちは集う。早起きして美容院に駆け込んで、慣れない着物なんか着て、私たちはかれらの証人になる。お互いの人生を少しずつ肩代わりするという、最早のっぴきならない関係であることへの多少のプレッシャーを滲ませて、背中を押し、門出を見送る。そしてその旅路が、幸福にあふれたものとなることを共に祈る。
 ちょっと待って欲しい。そういえば、私はとある地元の幼馴染に、結婚祝い、出産祝い、新築祝いを渡し、そしてそろそろ二度目の出産祝いを贈ることになりそうなのだが、私は彼女から一度も祝ってもらっていない。勘違いしてほしくないのは、彼女のような人たちを祝いたい気持ちも、応援したい気持ちも確かにあるということだ。まったく嘘じゃない。でも、このまま独身ルートを突っ切る場合、私が祝われる機会って、あまりにもなさすぎでは?
 実は、私は式のちょうど一週間ほど前に、以前からそこで働くことを夢見ていた企業から内定を獲得していた。前職の在籍中から約一年もの間、知恵熱が出るほど転職先に迷い、連日の面接対策と企業研究を積み重ね、果てない苦しみの末に、自ら道を切り開いたのだ。あれれー、おっかしいぞー。私だって、盛大に祝ってもらってもよくないだろうか?
 いや、なんだったらもう、別にそんな転職に成功したりしなくたって、私がただ毎日ひたすらに生きていること、それ自体を祝ってくれたっていいのではないか? 婚姻の儀式が祈りの儀礼なのだとしたら、いったい誰が、いつ、私の幸福のために祈ってくれるのだろう。

 

 誰からも祝われなかろうが、幸せを祈念されなかろうが、もちろん、当人には関係のない話だ。そもそも、人生がわかりやすく幸せに満ち溢れていなければならないという決まりはないし、それに、結婚していようが港区にマンションを持っていようが、不幸な人なんていくらでもいる。それでも、結婚式のキラキラに頬を照らされながら、私は、祝われない人たちのことを考えていた。『幸福』とは表現されない人たちのことを考えていた。別にその人たちも、とくに祝われたいなどと思っていないだろうし、ましてや憐れまれてもムカつくだけだろう。それでも、である。そのような人たちのための荘厳な儀礼が、心からの祈りの言葉が、あってもいいのではないか。
 それなら私が、『なかなか祝われない人代表』としてスピーチをしよう。私たちの、私たちなりの幸福を数え上げ、ただ毎日すこやかに暮らしていけることを祈ろう。自カプのプチオンリーが開催されますようにとか、推しの若手俳優が匂わせで炎上しませんようにとか、そういうことも、ついでに祈念しよう。
 今日まで生き延びておめでとう。明日は今日より少しだけマシでありますように、と。

 


 そんなようなことをしんみり考えていたところ、先日、友人と催したハロウィンパーティーで、突然、私と風見裕也の結婚式が始まった。寝耳に水だった。以前からプレ花嫁として「裕也との結婚式ではスモークを焚いた中ゴンドラに乗って登場したい」とか「引き出物は私と裕也の写真がプリントされたクソデカい皿がいい」とかいろいろ希望を呟いていたのだが、おかげでスモークとゴンドラ以外は大体実現した。ハッピーで埋め尽くしてレストインピースまで行きそうな出来事であった。やっぱり「ハロウィンの花嫁」って、私のことだったんだな。

 

『死ね』って言っちゃいけません? ──『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』最終話に寄せて

 野次馬根性がDNAレベルで染みついているのか、バズっているツイートやブログは見に行かずにはいられない。
 先日、こんなエピソードがバズっていた。幼稚園に通う娘さんが、お友達に影響されて「死ね」という言葉を使うようになり、ある朝、とうとう母親に向かって「お母さん死ね」と言ってしまった。母親であるツイート主は「わかりました、お母さん死んできます」と宣言し、着の身着のまま家を出た。娘さんは泣きながら縋り付いて許しを請うた。それ以降、娘さんは「死ね」という言葉を使わなくなったそうだ。ツイート主は、「『死ね』以外にも人を傷つける言葉はたくさんある」としながら、「娘に言葉の重要性を教えたかった」と記した。
 反応をざっと見た限りではポジティブな反応がとても多かった。「うちでも同じことをしました」「言霊は大切ですね」「素晴らしいお母さん」「子どもはそれくらいしないと分からないですからね」等、等。命は大切で、かけがえのないもので、たとえ冗談でも、また幼稚園児であろうと、相手の死を願うような言葉を軽々しく吐いてはならない。そのことを幼い時からキッチリ教えてあげることは良いことだ。本当にね、そうですよね。1万6千RT、800のリプライ、2500の引用RT、12万いいねを寄せた人々が口々に嘯いている。


 また別の日には、「発達障害の人は、保険にも入れなければローンも組めない」という内容の増田(はてな匿名ダイアリー)がバズっていた。新たに保険に加入する際や、住宅ローンを組む際に、精神科や心療内科への通院歴を告知する義務があるからだ。発達障害当事者の友人に聞いたところ、精神障害と同じで、必ずしもその機会が永遠に奪われるわけではないにせよ、定型発達の人間よりも手間がかかったりハラハラしたりするのは確かだということだった。
 日本社会は精神疾患に厳しすぎるというのは、現状健康に生きている私でさえ日々実感するところである。というのも、私は高校を自主退学しているため、履歴書の学歴欄を「高校中退」から始めざるを得ず、面接官から高確率で「どういうことだ」とツッコまれるのだ。私は一応、転職エージェントから助言されたとおりに、「長く通学できなかった期間があって、出席日数が足りなくなり……」と濁すが、ほぼ100%の確率で「それはメンタル的なアレか」と追撃されるため、最終的に「仰る通りだが、大学入学時点で完治しており、通院も服薬もしておらず、すっかり元気に生活している」と汗をかきながら弁明するはめになる。「もう大丈夫です」などと重ねて言いながら私は、意識の片隅で、いったい何がどう大丈夫なのだろう、と思う。大丈夫でないといけないのだろうか。それはどうやって証明できるだろうか。そもそも、「大丈夫」な人なんて存在するのだろうか?
 住宅ローンを組めない。仕事が見つからない。住まいも仕事も、生命維持とは切り離せない、つまり「なくてはならない」もので、そこから疎外されることはダイレクトに生命の危機を意味する。「ああ~、そうなんですね」と薄笑いを浮かべる面接官の顔を見るたびに、私はなんだか、少しずつ足元が崩れ落ちるような錯覚に陥る。


 Netflixで配信されている韓国ドラマ『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』の最終話がとうとう配信された。もうめちゃめちゃ面白くて、毎週(一人で)ギャーギャー言いながら鑑賞していたので、とても寂しい。主人公のウ・ヨンウは"韓国初の自閉スペクトラム症の弁護士"で、目にしたものをカメラのようにそのまま記憶する能力を持ち、ソウル大学ロースクールを首席で卒業した"天才"である。が、その障害のためにどこの弁護士事務所にも雇ってもらえず、やっと能力を認められ大手ローファームに拾ってもらえたかと思ったら、実はその裏には複雑な思惑があって……というストーリーだ。クジラやイルカが大好きなヨンウが事あるごとにマシンガンオタトークかますシーンや、イケメンパラリーガルとの揺れ動きながらも甘酸っぱい恋愛など、韓国ドラマらしいコメディやラブを砂糖のようにまぶしながらも、物語の芯は太く、そのメッセージもはっとするほどシリアスだ。
 特に、医大生の兄を暴行し、殺害したとされる自閉症の青年を弁護する第3話では、障害を抱えて生きていくことの困難さが、ナチスの優生思想を引用しながら、ヨンウのモノローグで語られる。『わずか80年前、自閉症は生きる価値のない病気でした』『"障害者ではなく医大生が死んだのは国家的損失"、いまも多くの人がこのコメントに"いいね"を押します。それが私たちが背負うこの障害の重さです』──日本でも相模原の障害者施設殺傷事件が起きたとき、犯人の語った動機に多くの人が共感を寄せた。2016年の話だ。


 『ウ・ヨンウ』には、全16話のどこにも、"100%の悪人"が登場しなかった。一人のフィクショナルなキャラクターの、見る者の胸をキュンとさせる一面と、ぞっと血の気の引くような一面の、その両方を見せながら、物語は『これはあなたの姿ではないか』と問いかける。だから視聴者は、常にどこか居心地の悪い思いをしながらドラマを観ることになる。
 私は、ヨンウの弁護士としての能力をろくに確認もしないままに、「自閉スペクトラム症の人をなぜ採用したのか」と上司に詰め寄るチョン・ミョンソクではなかったか。私は、「彼女は弱者などではない、常に配慮してもらえる強者だ」と言って憚らないクォン・ミヌではなかったか。私は、ヨンウが弁護士だということを知って、ポケットに突っこんだままだった手を慌てて出した、イ・ジュノの友人たちの一人ではなかったか。


 すべての人間はひとしく、生まれながらに基本的人権を持っている、と世界人権宣言が謳ったのは終戦直後の1948年のこと。それから74年が経った2022年の暑すぎる夏の日、無邪気に人を傷つけた幼い女の子に、命の尊さ、言葉の重みを教えた母親を褒めたたえる私たちは、同じ口で、誰かに冷たく「死ね」と言ってはいないだろうか。「私はあなたのことなんてどうでもいいし、あなたの声には耳を傾ける価値がないし、あなたのことを誰も助けない」と、誰かの尊厳を切り刻んではいないだろうか。コロナ禍で職を失った人に誰かが「自己責任だ」と言ったとき、公共空間のバリアフリー化を訴える身体障害者の訴えに「わがままだ」と批判が集まったとき、ある政治家が「生産性がないセクシャルマイノリティのために税金を使うのは度が過ぎている」と言ったとき、私たちは、あの女の子を叱った母親のように、ちゃんと怒ってきただろうか。


 ヨンウには、いつも近くで彼女をさりげなく支えてくれる良き友人がいた。ヨンウは彼女のことを「春の陽ざし」のようだと言った(私の顔に漢江ができちゃったエピソードの一つである)。たぶん、ヨンウだけではない私たちの誰しも、いや、それどころか、問題なく住宅ローンを組んで、保険に入って、一流企業でバリバリ働くマッチョな人間でさえ、きっと「春の陽ざし」が必要だ。一人で生きていけないのは、障害のある人だろうが、定型発達の人だろうが、みな同じだ。「100%大丈夫」な人なんて、この世のどこにもいない。だから、「大丈夫」じゃなくても、何とか生きていける世の中になってほしいなと思う。ヨンウの心がいつも、大好きなクジラやイルカと共にあったように、自分の心を救ってくれる何かに支えられて、回転ドアに挟まれそうになりながらも、誰もが何とか歩いて行ける世の中に。

同人女の結婚

 あれは秋の日のことだった、と私は想起する。程なくして、いや夏だったかな、と、脳の別の部位で疑い出す。どちらにしても、私たちが出会ったのはビッグサイトの東ホールだった、西ではなく。あの頃、私たちはモスキート音を煩く感じる程度には幼く、オフセット印刷をためらう程度に懐も寂しく、ただ猶予された時が少しずつ終わりゆくのを意識のどこかで感じながら、しかし抗うこともできないのだと、深いところで知っていた。
 人生の時間が、砂時計の砂のように定量化できるのだという一種の強迫観念を、私たちが自らの身体に強力に埋め込んだとき、『青春』などというものは途端に輝きを増すのだろう。かつては青春学園中等部テニス部の1年生だった私たちも、いつしか「生命保険 必要」とか「卵子凍結 予算」といったワードで検索せざるを得なくなり、虫歯だと思って掛かった歯医者で「加齢により歯茎が下がっています」等と言われるようになる。
 そして私たちは忘れてゆく。大江戸温泉物語バトロワパロの話をして、笑い過ぎてこのままここで全裸で死ぬんじゃないかって思ったこと。有楽町のガード下のドイツ居酒屋で、酔いすぎて何故かカタコトの英語で手嶋純太とのデートの思い出を語り合ったら、隣の席のサラリーマン達が震えながら笑っていたこと。深夜3時までかかって作った無配を刷りに行くコンビニまでの近道に降りた夜の深さ。逃れようもなく忘れてゆく。まるで最初からそんなことは起きなかったかのように、忙しなさに紛れて、思い出は去る。
 これから先、日々に埋没して窒息しそうになったとき、私たちは藻掻きながら一体何を思い出すだろう。何に取りすがろうとするだろう。「あの頃は、」から始まる語りに、しかし、私は過去と現在との断絶を見る。「おおきくなったらセーラームーンになりたい」と、園児の私は何かにつけて口にしていたらしい。私たちは、果たして別の"なにか"になりうるのだろうか。何かを失いながら、損ないながら、他の何者かのかたちをとらんとすることを「おとなになる」と呼称するなら、セーラームーンになろうとするほうがまだ美しいと思ってしまうことを、もし告白したら、あなたは笑うだろうか。


(前回作→『女友達の新しい彼氏との馴れ初めを聞きに行ったら死ぬほど文学だったから文学書きました - on my own』)


 T女史からLINEの着信があったのは、すっかりステイホームにも慣れ、外出自粛検定準2級を取得して間もない昨年6月のある日のことだった。
「あのね、私結婚するの。"どつ本"と」
 "どつ本"というのは、「ヒプノシスマイクのオオサカ・ディビジョン『どついたれ本舗』のメンバー白膠木簓の夢小説を書きたかったが大阪弁がよく分からなかったため研究のために付き合い始めた大阪出身の男性」の略で、きっかけはともかく順調で平穏なお付き合いをしていることは以前から聞き及んでおり、その報告自体にさほど大きな驚きはなかった。私はひんやりとした床に寝そべりながら犬のおなかをワシワシと撫でて、あ〜そうなんだおめでとー、などと言おうとして、思わず起き上がった。喉が潰れた伊之助みたいな声で口走る。えっ苗字は?
「それなのよー。実は私たちさ、日本でまだ夫婦別姓が認められてないってついこないだまで知らなくて」
 普段はハンドルネームで呼んでいるが、T女史の本名は美しい。苗字と名前が連なると、マイルドな宝塚の娘役のようで、非常に清廉かつたおやかな印象だ。渋谷の交差点で100人に聞いたら65人くらいは芸名か何かだと判断しそうな感じ。本名を出すわけにもいかないので、ここでは仮に「白河ゆり」としておくが、私は彼女が「白河」でなくなるのが本当にマジのガチで嫌だった。そしてそれは彼女も同じであるはずだった。
「そりゃ私も生まれた時からずっと付き合ってきた名前変わんの嫌だからさ〜。どつ本と腹割って話したわけよ。したら、どつ本本人はそこまでこだわりはないけど、一応長男だから、実家のほうが抵抗するかもしれないって話になって」
 念のため、どつ本の苗字を尋ねる。万が一にも「尾形」とか「アッカーマン」とかだったらあるいは、と思ったが、石を投げたらその苗字の人に当たりそうな(人に向かって石を投げてはいけない)ごく一般的な苗字だった。ここでは仮に「田口」とする。た、田口ィ~~!??? 私は憤怒した。憤怒にまみれて、「長男であることをアイデンティティに掲げていいのは竈門炭治朗だけ」とか、「田口とかぜってー血継限界使えねーじゃん」とか、酷いことをたくさん言った。対してT女史は終始どこか呆れたような、半分諦めたような口ぶりである。
「会社の人とか旧姓使うでしょ? だから普通に白河でいられるものと思ってたの。調べたら日本では議論されてはいるけどなんかしばらくは無理そうって感じで、びっくりした」
 ちょうど先の3月に丸川大臣の予算委員会での答弁拒否が話題になっていたところで、そのトピックは(しばらく結婚する予定もないにせよ)私も緊張感をもって注視していた。選択的夫婦別姓に反対なら反対と堂々と主張すればいいのに、7回も答弁を避けた丸川珠代、イエスを知らないと3回言ったペテロよりもなおタチが悪い。それにしても、「みんなはああしてるけど、私はこうしたい」とか「ここが不便なのでこう変えたい」と言う人がいると、ほぼ無関係の人が「伝統が〜」とか「絆が〜」とか言って全力で邪魔しに来る構図、本当によく見かけるけれど一体何なのだろう。他人の選択に口出しする輩はバニラのトラックにでも轢かれてしまえばいいのにと思う。
事実婚でもいいって彼は言うんだけどねー」
 と、T女史はどこか他人事のように言う。彼女もまた、私のLINE友達一覧の、「〇〇(××)□□」メンバーに加わるのだろうか。事実婚なら事実婚で、「親に反対されたのか」とか「相手の苗字になりたくないなんて本当に愛してないんじゃないのか」とか外野から一生言われ続けるのだろうか。窓の外はもう二度と晴れそうにない曇天で、しばらく散歩に行けていない犬の瞳もまたどんよりと陰っていた。






 夏が過ぎ、街に人が戻りつつある晴れた秋の日、私は彼ら──つまり、T女史とそのフィアンセのどつ本と、日比谷公園にほど近い、クラシカルな雰囲気のカフェにいた。その日の夜は、浜松町の四季劇場で柿落とし公演として開幕したばかりの『オペラ座の怪人』を3人で観に行く約束だった。
 そういえば、T女史と出会って間もないころに、あれは汐留の四季劇場だったけれど、『Wicked』を一緒に観に行ったことがある。終演後、あろうことかグリンダの方に感情移入して爆泣きしている彼女を見て「この女……只者ではない」と密かに打ち震えたものだ。
 初めて会ったどつ本は、物腰も話し方も何もかもが柔らかく、ああ、彼は私たちとは違う、オーガニックなティーンエイジを過ごした側の、おもしろフラッシュ倉庫なんて必要のなかった類の人間だ、ということがすぐに分かってしまった。白膠木簓どころか市丸ギンも、はたまた忍足侑士の面影さえ無かった。T女史曰く、彼は子どもの時分に一度も、誰からも意地悪をされたことがないらしい。そんなふうに育つことが果たして可能なんだろうか、PTSDか何かで記憶を封印しているだけではなかろうか、とはじめ疑わずにはいられなかったが、実在論についての討議をするまでもなく、どうやら世界には本当にそうやって育った人間がいるらしいと、話しているうちに認めざるを得なくなった。
 窓ガラスから差し込む、よく冷やしたストレートティーみたいな陽射しを受けて、私たちは心地よい秋の午後を楽しんだ。私は、いつだったか彼女がZARAでゲラゲラ笑いながら選んでくれた、とんでもねーボタニカル柄のワンピースを着ていたが、それは私たちの幸運と幸福を象徴するように、不思議とその場によく馴染んだ。身を寄せ合い、話の合間にアイコンタクトをとる二人は少女漫画のように可愛らしく、思春期の愛読書が岡田あーみんだった私のような人間には少々眩しい。小洒落たオープンサンドの彩り、鼻をくすぐる焼き立てのパンのにおい、周囲の客の弾んだおしゃべりに包まれて、私たちは欠けたところのひとつもない、『結婚を控えた男女と、それを温かく見守る女友達』だった。完璧な午後を演出する、いくつかの愛すべき小道具だった。
 タクシーに乗って向かった新生・四季劇場の周辺は、再開発によってすっかり様変わりしていた。建て替えられる前、以前の四季劇場の学生席にいったい何度通ったことだろう。そしてあの頃の私はきっと、いつかタクシーでこの場所に来るようになるなんて想像もしていなかっただろう。建て替えを免れた自由劇場が、真新しい建物に挟まれ窮屈そうに佇んでいた。
 芝居が終わり、出口へと向かいながら「結局、バカと人殺しどっち選ぶかって話だよね」とT女史と頷き合っていたら、どつ本は「えっバカの方に決まってるじゃんそんなの!?」と困惑しきっていた。なんて健やかな魂。メチャメチャいい奴。付き合いたい男は捻くれたパーマのキャノンデール乗りでも、彼女は彼のような人間を結婚相手として選んだのだ。T女史のバランス感覚に敬服した。
 時刻は夜8時。別れるには何となく早すぎる気がして、どうしようかと思案していたらどつ本が、ちょっと小腹を満たせるような丁度いい、感じのいいお店が六本木のほうにあると言った。電車で行こうか、タクったほうが早いか、いや先に電話で予約を、とスマホを覗き込みながら二人が考えてくれている間、私は、竹芝埠頭のオレンジの灯りに縁取られた2人のことをぼんやりと眺めていた。メチャメチャいい奴と、そいつと結婚した、聡明な私の女友達。




 あれから半年ほどして、結局、彼らは婚姻届を提出したらしい。T女史は書類上は「田口ゆり」になったが、実生活では一貫して「白河ゆり」で通すのだそうだ。自粛期間中から互いの家を行き来していた彼らは、タワマンの一室で晴れて家族としての生活をスタートさせた。しかし、八丁堀という地獄じみたロケーションにあった住まい(私は端的にディストピアと呼んでいた)を出て、どつスター(どつ本の飼っていたハムスター。同居にともない自動的に彼女の家族となった)もそばにいて、幸せの絶頂であるはずの彼女の声色はいまひとつ冴えない。
「私はさあ、この先を憂いているわけよ」
 私はその夜、犬のひげの本数を数えながら、彼女はどつスターが回し車を回すのを眺めながら、明日はどうせお互い在宅勤務だしと油断しきって、遅くまでダラダラと喋っていた。結婚指輪の写真をTwitterにUPするのは恥ずかしいけどインスタの方には上げられたとか何とかいう話の合間に、彼女はふと不安を吐露した。
「このままさ、面白いこともなく、普通に妊娠して、普通に子育てして……夫が突然連れ帰ってきた友達にパパッと冷蔵庫にあるものでおつまみ作って出す、みたいな生活になっていくのかなって。明太高菜ごはんとか。それで、夫の友達に『奥さんキレイじゃん』とかお世辞言われて『いやいや~』とか言ったりすんのかなって思ったら、背筋が凍るのよ。本当によお~。」
 彼女の中の"結婚"のイメージが何をさておいても「夫の友達にパパッとつまみを作って出す」であることを多少ツッコミたい気持ちになりつつ、私は彼女を否定できないでいた。恐らく、彼女はこれから「夫の友達にパパッと明太高菜ごはんとかを作って出す」的瞬間を何千何万と積み重ねていくことになるのだろう。そうやって私たち、手垢のついた営みを恥ずかしげもなく繰り返していくんだね。うちら、サイキョーの女オタクだったのにね……。私がそう言うと彼女は「え、そうだったっけ……?」と結構シリアスに疑問を呈していたけれど。



 私たちは、何者かになる。そして何かを失う。失ってこそ、一人前の何者かである、と顔を持たない声たちが言う。でも本当に? 私たちはただ失い続けるだけなんだろうか。「田口ゆり」だの、「田口さんの奥さん」だの、「○○ちゃんママ」だの、JavaScriptも入れてないのに勝手に名前変換される現実とかいうフィクションに骨の髄まで浸されて、私たちは数分刻みで異なる顔を持つ、観音様も文字通り顔負けの多面体になる。その立体のふたを開けて恐る恐る中を覗き込んだ時、そこに何も残っていなかったらどうしよう───そんな不安に脅かされながら、多面体であることを受け入れざるをえないとき、私たちには何か反逆の手段が残されているのだろうか。




 2021年10月31日は衆議院選挙の投票日です。
(※追記 2022年7月10日は参議院選挙の投票日です!)



 日本の全国民が夫婦同姓であることを強制されている現状(国際結婚除く)はクソ以外の何物でもない。女は嫁ぎ先の付属品でも所有物でもない。ハムスターじゃないんだから。クソな社会にはNOを突き付けよう。私たちには選挙権がある。何十年か前にはなかった。今、私たち女性が当たり前のように持つ選挙権は、そのために戦ってくれた多くの人たちの血と汗と涙の上に獲得されたものである。何なら、ちょっと前まで女は結婚したら働き続けることができなかった。「女はクリスマスケーキ(25を過ぎたら価値がない)」と言われた。今の私たちがそうではないのは、「NO」を突き付けてくれた、無数のお姉さんたちがいてくれたからである。私が30を超えてフラフラしていても特に奇異の目にさらされないのは、強い圧力に耐えて自分の生き方を貫いてくれた先人たちがいるからである。
 私はずっと、結婚して、子どもを産み育てることすなわち大人になることだと思っていた。だからいつか、好きな漫画もアニメも同人誌も捨てて、"大人"にならなくてはいけない日が来るのだと思っていた。でも、最近ではこう思う。大人にならなければいけない、それはきっと間違いない。しかし、大人になるとは、果たして空気のように社会に溶け込んだ『当たり前』を受け入れて、その要請に過不足なく応えることのみを指すのだろうか? 違うだろ、と言いたい。豊田真由子のように声を張り上げて、T女史の住むタワマンにも届くように叫びたい。大人になるってきっと、すごく楽しいことだ。もしかしたらセーラームーンになることと同じくらい、素敵なことだ。そして同時に責任重大だ。私たちは常に問われている。年に一度あるかないかの選挙の投票日だけではなく、毎分毎秒、社会の中の様々な事象に対して、どのような立場を取るかを問われている。何気なく選ぶコンビニの棚の商品、気の置けない同僚とのちょっとした会話、忙しい朝の時間に目を通す新聞のヘッドラインに、私たちの政治的立場は如実にあらわれる。そのすべてに自覚的になることは不可能だとしても、つまりおまえは何者でありたいのか、どんなところで、どんな暮らしをしたいのか、必要な情報を集め、思考し、問われたらすぐに答えられるよう日頃から準備することが求められる。大人になるって、そうやって、理想を描き、その理想のために行動することではないだろうか。つまり私たちは、自動的に大人になることはない。「大人になる」を、日々実行するものである。そしてそのプロセスは同時並行的に、「私になる」道程でもある。私たちは自分自身以外の何者でもなく、何者にも成らず、ただそこにいる。




 だから、サイキョーの女オタク友達として今、新婚ホヤホヤのT女史に言いたいことは、


バカ正直に明太高菜ごはんなんて作ってる場合じゃねえ!!!!!!!


 ……ということだ。誰かが思う「田口ゆり」に収まる必要なんてない。明太高菜ごはんがこの世のどんな有機物より好きでもない限り、夫がいきなり連れ帰ってきた友人なんか炙りゲソのピーナツバター和えでも出してやればいい。名前が変わっても顔がいくつあってもそこには白河ゆりしかいないのだから。
 それでも、パズドラしかできないくらい日常に疲れてしまったら、どうか思い出してほしい。私たちには人一倍豊かな想像力があるということを。私たちは大臣にはなれなくても、今日よりいくらかマシな明日を、つまり理想を思い描くことはできる。私たちはそのやり方を知っている。私たちはずっとそうしてきたではないか。有楽町のガード下で。大江戸温泉の露天で。深夜3時の路地裏で。


 


 そして多分、これは私自身の決意である。ホグワーツの入学許可証は届かなかったし、『選ばれし子どもたち』にも選ばれなかったし、白馬の王子様どころか跡部のヘリコプターも迎えに来ない。もちろんセーラームーンにはなれなかったし、今の私は昭和の日本企業で、無数のオッサンに囲まれ孤立無援で右往左往する会社員だ。こんな人生生きるに値しない、とニヒリズムに逃げ込むことは容易い。それでも、と、私は発想する。あの夏だか秋だか思い出せない日、手術台の上のミシンとこうもり傘みたいに私たちが出会ったように、小さな奇跡は起こる。その一瞬を逃さずに、目を見張って、耳を澄まして、生きていく。どんなに現実がクソで、バカげていて、分厚い下駄に踏みつぶされそうになっても。
 ひとしきり現状を憂いて、嫌んなって、裏アカで愚痴を連ツイして、pixivを眺めながら寝落ちしたら、顔を洗って、ちゃんと保湿して、推しアイドルが使っているのと同じCLIOのアイシャドウでまぶたキラキラにして、とんでもねー柄のワンピースでも着て、足取り軽やかに選挙に行こう。



※事実を元にしたフィクションです。T女史、結婚おめでとう!

(11/13追記)私とT女史が出会ったのはやっぱり夏コミじゃなくてスパークだったようです。たくさんの方に読んでいただけてとても嬉しいです。Good girls go to heaven, bad girls go everywhereの精神でヘルジャパンを蹴散らしていきましょう。あと、全国の田口さんにごめんなさい。

観劇オタクが少女☆歌劇レヴュースタァライトを観た感想

この私が話しかけてるってのに上司がキーボードカタカタしたまま顔を上げず応対するのにムカついたので仕事サボって海の見えるホテルのラウンジに来てPC広げていかにも仕事してますみたいな顔しながらこの文章を書いています。のいです。ミュージカル歌舞伎ストプレ2.5わりと何でも観る人です。スタァライトされてきたので感想を書こうと思います。蘊蓄のある考察などはなく思ったことをダラダラ話します。アニメの話と劇場版の話がごっちゃです。


そもそもスタァライトは昨年夏にフォロワーさんにお薦め頂いてアニメ1話だけ視聴し、そのときは「すげー出席番号言うアニメだな」という印象だったのですが、観劇オタクとしては舞台が見たいところだな~~延期か~~と思いながらそのままになっていたので、良い機会だと思って劇場版を見に行き、その流れでアニメ全話視聴→ロンド・ロンド・ロンド視聴で今に至ります。舞台版はYoutubeに上がっている公式のものしか見てないんだけど歌、うまいな……。7月に公演あるのか~と思って調べたらシステムが普段観ている舞台と違いすぎて「文化が違う!」とエウメネス顔になりチケットは手に入らぬままです。F5さえ押せれば赤ちゃんでも最前列が取れる四季は優しかったんだな、というのを改めて噛み締めた。
ちなみに中の人で存じ上げていたのは三森すずこさんと富田麻帆さんくらい。富田さんは『プロパガンダコクピット』ですごくお歌が上手で可愛かったのでよく覚えてる。その時のツイートこれ↓ パガンダ ダッパダッパ…



まずスタァライト独特のあの概念のシャワーとでも言えばいいのか、良く分からない精神世界についてですが、アニメ1話視聴したときから「このサステナブルな訳のわからなさ初めてじゃないぞ」とは感じており、多分それ『さらざんまい』じゃないかな? と思ってたら監督同士が師弟関係? にある? とのことであながち筋違いでもなさそうです。
(「さらざんまい」もフォロワーさんにお薦めされて視聴済→感想はこちら)
525600.hatenablog.jp


というわけでけっこう序盤に「あ、これは訳がわかる瞬間がなかなか来ないか最後まで来ないまま進むやつだな」という心の準備ができたのでフラストレーションを溜めることなく楽しめたと思います。劇場版を見終わってTwitter開いてまず呟いたのは「脳に直接叩き込まれるうま味成分みたいな映画見た」。


「少女歌劇レヴュースタァライト」というタイトルだけ聞いて思ったのは「『かげきしょうじょ!』みたいなやつかな?(←全巻履修済)」ということだったのですが全然違いましたね。でも実際、制作側も「舞台俳優になるためのリアルな苦しみや舞台そのもののキラめきは『かげきしょうじょ!』にやってもらえばいいからウチは『舞台少女』のキラめきを脳に叩き込むぞ!!」って思って作ってたんじゃないでしょうか。そんなことないか。
この作品の主題はあくまで「舞台少女」であって「舞台」じゃないんですよね。文字通り「舞台」は「舞台」でしかない。だから舞台少女たちのそれぞれ抱える夢や苦悩って「大好きな友達といっしょに夢を叶えたい」とか「どうやっても二番手にしかなれない」とか「誰かを追いかけてばかりで自分の目標がない」とか割と普遍的というか、テーマが舞台じゃなくてもいいようなものばかりだなって思う。だからこそ多くの人に響くし、あの精神世界を背景にした魂の大立ち回りに映えるんだと思うので、大成功ではあるはずなんですが。私、「舞台少女の死」とか「舞台の果て」とか言われたとき(←うろ覚え)てっきり「えっ、女性劇団員がしばらく週間予定キャストのページで名前見ないなと思ってたら寿退団して子ども産んでて二度と舞台に戻ってこないままSNSに子どもの写真upするみたいなコト…!?」とか「出演者が逮捕されて最初から無かったことになった舞台の円盤の話……!?」とか思っちゃった。寿退団はもちろん本人の選択だから祝福したいとは思うけどファンとしてはつらいんだよな……逮捕は……論外ですが……。


あとね、共感するポイント絶対ソコジャナイと思うんだけど、バナナちゃんの「脚本や演出が洗練されてキャストも変わって舞台が進化していっても初演が忘れられない」っていう気持ち わ か り ま す。同じ舞台は二度とないんだけど、あの日、あの席から、あの角度から、この目でこのお芝居を観たのって私だけで、それはもう私の記憶の中にしかなくて、何物も"それ"を超えてこない、二度と戻らないが故に記憶の隅で光を放ち続ける舞台って私にもあるあるなので、バナナちゃんがエンドレスナインティナインする気持ち痛いほど分かる~~~って感じだった。「新キャスト楽しみだね~」って言う友達に「そうだね」って言いながら「私にとっての(役名)は(役者)だけだもん!!!」って心の中だけで暴れる私と、「新しいスタァライト楽しみだね~」って言う純那ちゃんに渋い顔するバナナが完全にオーバーラップしてた。とは言え、役者と役名が完全に紐づいてしまって(役名)と言えば(役者)さん! と言われる演目ってむしろ不幸だなと理性では思っている(そういう演目いっぱいあるよね~勿体ないね)。話は逸れるけど先日、浅利事務所プロデュースの『夢から醒めた夢』を観て、かつてマコ役だった野村玲子様がマコのママ役をされているのを見て、そうやって世代交代しながら長く演じ続けられる舞台ってやっぱり素晴らしいな、私もおばあちゃんになってもこの演目を観たいなって思いました。華恋ちゃんとひかりちゃんはおばあちゃんになってもスタァライトするんだろうか。それはもう「舞台少女」じゃなくて「舞台ばあちゃん」だな……舞台ばあちゃんのスタァライトちょっと、いやわりと本気で観たい。


なぜ華恋がオーディションに飛び入りし、バナナちゃんの連勝がストップしたか。サラッと通して見ただけの私の浅い考察では多分「キリンが飽きたんじゃ?」というところかと思うのですがどうでしょう。私たちオタは同じ演目を繰り返し見て「今度こそ大丈夫なんじゃないかと思っていたけどやっぱりラストで〇〇が死んだ」とか訳の分からないことを結構本気で悲しんだりしますが、そういうことではなく、まったく同じ、結末の見え透いたレヴューとその末のまったく同じスタァライト公演に、キリンはもう飽き飽きしていたんだと思う。キリンは第四の壁を打ち破って"客席"に干渉できる唯一無二のトリックスターで、同時に"観客"のメタファーでもあるのなら、発展の見込みもなくどん詰まりの舞台を観続けたいと思わないはず。舞台少女たちはしきりに自分たちを欲深いだの罪深いなどと言いますが正直なところね、観客であるキリンと我々のほうがよっぽど罪深いよ……観客は金を払っただけでどこまでも傲慢になれるし、私なんか2.5のイケメンばっかりワチャワチャ出てくる系の舞台を観るたびに「ああ~~~私はこの男の子たちの人生の時間でもっとも身体機能が高く若く溌溂とした瞬間を金で買っている~~~~」って苦悩してるよ。どうでもいいですね。
ところでオーディションで勝ち残ったら他の舞台少女のキラめきを奪ってトップスタァとして君臨できる(そしてバナナやアニメ終盤のひかりはそれを拒否した)って解釈で合ってますか? 舞台はスターだけで出来てないんだから、ロンドン留学中のひかりちゃんがもぬけの殻になっちゃったみたいに他のキャストに悪い影響があるんだったら舞台が成り立たないだろうが!! いい迷惑だわ!! これだからスターシステムとは相容れないんだよ!!(???) ときわめて個人的な憤りを感じた次第です。


役者さんってよく「今日も(演目)の世界を生きることができて幸せです」「残りの日程も全力で(役名)として生きます」みたいな言い方をするんだよね。舞台の上で彼らは演目の世界を、割り当てられた役を生きている。毎公演毎公演、生き直している。役者というのは百万回生きた猫とタメ張れるくらいに生き死にを繰り返す存在で、そのどれも一つとして同じものはない。そういう意味でも舞台は何度でも繰り返され新しくなっていくものだし、99期生はいつまでもループしているわけにもいかないし、だから「アタシ、再生産」は舞台少女たちが変身バンクに突入できる魔法の言葉たりうるのだと思う……んだけど、ごめんなさい、「アタシ、再演」ではダメだったのか? と無粋なことを考えてしまいました。「再生産」って言葉、どうしても経済学とか、「教育格差の再生産」みたいな使い方のイメージが強いのであのロゴが出てくるたび違和感があり……。もちろん語呂とか字面とかの問題もあるんだろうけどね。
それはともかく今回の劇場版の、「舞台に生かされている」彼女たちが訳の分からない精神世界で歌って踊って奪い合いながら深めているのが「卒業後の進路どうするか」という非常にパーソナルでいっそ微笑ましい(当人たちは今後のキャリアがかかっているので真剣ではあるんだけど)トピックであることにちょっとホッとしちゃったよね。舞台の上でなんにでもなれるはずの彼女たちが現実世界で自分の望んだ何者かになるべく藻掻いている様子は痛ましいけどキラめいている。
また四季の話をしちゃうんだけど、キャストを囲んだオフステージトークイベントでファンからの「どうしてそんなにつらい稽古でも乗り越えることができるんですか、努力を続けられるコツは」という質問を聞いた俳優たちが一様に首をひねって「ツライ……ドリョク……???」みたいな反応をしたことがすごく印象深かった。「大変だけどべつにつらいとかではない、それが仕事だから」ってサラッと言う。私たち消費者はついつい「血を吐き涙を流し、眠れぬ夜を超えて、やっと辿り着いたこの場所……」みたいなストーリーを求めてしまうけど、そりゃ舞台俳優としてそれだけで食べていけるのはほんの一握りだしものすごい努力や精神力が求められるのも確かだけど、彼らにとってはそれが、舞台に立つこととそのために練習することがすごく自然で違和感のない行為だっていうことで、あの舞台少女たちにとっても舞台の上が一番自分らしく嘘をつかずにいられる場所だったらいいなと思いました。「女の子としての普通の幸せを諦めて……」みたいなセリフあったけど、そんな誰かが決めた"女の子として"の "普通" の幸せなんかしゃらくせえと蹴散らして、舞台の上でアドレナリン全開で汗だくで生きるのが一番幸せな彼女たちであってほしい。シリアスな演目のあとカテコで手を振りながら目は全然笑ってない憑依型の役者であってほしい(それは只のテメーの好みだろ)。


収拾つかなくなってきたので最後に特に好きだったうま味成分の話をすると香子ちゃんと双葉ちゃんがすごくよかったです。私、ニコイチ仲良しが円満に道を違える展開、三度の飯より好き!! 香子ちゃんが双葉ちゃんにどっぷり依存してるように見えて、香子ちゃんがいないと歩く道すら分からなくなってしまいかねない双葉ちゃんのほうが実は危うくて、そこを自覚して「もう追いかけるだけは嫌だ」と覚醒する流れメッチャ熱かった。Defying GravityだしFor Goodだった。香子ちゃんの「うちには友達がぎょうさんいてはったわ。やけど、大切なんは双葉はん、あんただけ……(嘘すぎ京ことば)」って幻聴が聞こえた。
華恋ちゃんひかりちゃん、真矢ちゃんクロちゃん、バナナちゃん純那ちゃんもみんな結局違う場所で挑戦を続けることになったし、ニコイチ推すだけ推しておいて最後そうやって案外バッサリ引き離すところ潔くて良いな~と思いました。gleeのレイチェルの最終目標がブロードウェイスターだったように、かれひかも最終的にはブロードウェイで共演することを夢みたりするんだろうか。その頃にはもっと多くのアジア系俳優にチャンスが開かれてるといいね……などとしんみりしてしまったわ。香子ちゃんと双葉ちゃんのことは新感線とかで見てみたいです。四季で一番活躍の場があるのはバナナちゃんみたいな笑顔が可愛いオールラウンダーかもしれないね。ななベル、ななアリエル、ななソフィ、ななクリス、ななジェリーロラム、全部見たい。

前回公演の配信があるみたいなのでそれ見たらまた感想書くかな~という感じです。

f:id:noi_chu:20210625231843j:plain
妄想キャスティングめっちゃ楽しかった~~~~
「メジャーどころ……メジャーどころ……」と暗示をかけながら書いたのでもしスタァライトファンの人で検索とかから来てくれた人いたらミュージカルも見てみてネ……

【それわた#2】抱擁するシスターフッド

f:id:noi_chu:20190506024402p:plain

初めに

この文章は、私・noiと愛すべき友人たほさんが3時間ほどツイキャスで楽しくおしゃべりした内容を読み物として楽しめるよう書き起こし・編集したものです。突然、日本の貧困の話から始まります。


Deep Love ~ノイの物語~


のい: 本当に私、おんなじ話を壊れたRadioみたいに繰り返してるんですけど。日本人は本当に一億総セルフネグレクト状態にあると思うんですよ。理不尽なことがあっても、自分たちがそれ以上を望んでいいとそもそも思わないので。みんなに「あなたたちはもっと多くを望んでいいんだよ、声を上げていいんだよ」って言っても、「そうだよね、手取り30万あっていいよね」みたいなことをいう人は徐々に増えてきているとはいえ、「高望みじゃないの」とか「最低賃金しかもらえない仕事しかできないのは努力不足だからだ」とか言われるわけじゃないですか。なんかそういう、日本人の気質? 体質? ってもうあれかな、コロナワクチンを打つとDNAが書き変わると言いますけど、もう、書き換えてくれよ!!! って思うんだよね。

たほ: のいちゃんの話すごいよく分かるんだけど、私ってどっちかって言うと、「そんだけしか給料もらえないなら転職しなよ」って言っちゃうタイプ、になりかねない。

のい: ほげー。

たほ: 私自身が転職して年収がものすごく上がったっていう体験に基づいちゃってるのが悪いんだけど。私の知り合いに、顔を合わせるたびに職場の愚痴を言う人がいるわけよ。同じチームの人がすごい嫌いで、誰も助けてくれなくて、飲み会にも強制的に参加させられて、かといって賃金はすごく安い、みたいなことをそれこそ壊れたRadioみたいに唱え続けるわけ。でもそれももう、一年二年の話じゃなくて、出会った時から話続けてる、かれこれもう五年?

のい: ボクらが生まれてくるずっとずっと前にはもう? 

たほ: アポロ11号は月に行ったって言うのにさ、その子は退職届ひとつ書かずに事務机に鎮座ましましてるわけよ。

のい: ハハハ。うん。

たほ: その話を聞くたびにさ、もう辞めたら? しか出てこないわけ。まだ20代で転職のチャンスはいくらでもあるしさ。資格も持ってないっていうけど…

のい: 取れや、ってなるね。

たほ: そうそう、身体がすごく悪くて働けないとかでもないわけだし、そこまで言うなら転職しろよって思っちゃうんだけど、でもそういう人って「自分にはできない」っていう理由を探し続けてるように見える。

のい: はいはい。よくわかる。

たほ: なんか家の更新があるからとか。身内が結婚するからとか。だから何? って思うけど、本人にとっては一大事なんだろうね。それで、その人にちょっと貸したお金が返ってこなかったりすると、すごく嫌~な気分になる。なんなんコイツ、って思っちゃう。そういうときに、私の中のいじわるな気持ちがふつふつと湧いてきて、その子の背景を何も知らないくせに、なにも努力しないくせにコイツ、って気分になっちゃう。

のい: ずっと文句言う割に、何も変えようとしない、と。

たほ: すごい腹が立っちゃう。絶対その子には悟られないようにするけど。

のい: 私の友達にもまったく同じような子が何人かいて。紀元前から同じ職場の悪口を言ってるんだけど。

たほ: すごいじゃん。

のい: かといって、転職に向けて動き出すわけでもなければ自己研鑽をするでもない、でも毎日毎日もうヤダしんどいって言いながら同じ職場に通い続ける。私も確かに「じゃあなんとかしろや」ってイライラするんだけど、なんでしょうね。それも、あの、もう伝家の宝刀みたいになってるけど、セルフネグレクトだと思うんだよね。「私はもっといい生活をするに値しない」みたいな。

たほ: 愚痴を言うことで何とか彼らなりに現状に満足しちゃってる部分もあるのかな。三食食べれてるし、みたいな。

のい: そういうところで保てているから、引っ掛かり続けてはいる。

たほ: う~ん。

のい: でもなんか、そもそもなんでそんな苦しい思いをしながら働き続けなきゃいけないんだって話なんだよね。苦しくてつらい思いをすることに意味があるみたいな風潮だけど、それは価値や利益を生む過程で生まれるものであって、リターンとしての喜びや賃金を得てやっと意味があるかもしれないものじゃない。なのになんか、苦しいことそのものに意味があるような風潮だから、日本人の生産性が下がっていく。結局日本人のDNAを書き換えろっていう話になってきちゃうんだよ~。どうしよ~。

たほ: その話はもう……私にはちょっと対応しきれないけれど。

のい: あっ、投げられた!

たほ: 投げられたボールが熱すぎてアチチ! ってなっちゃった。

のい: 私はその、文句言い続けてつらいつらいヤダヤダって言ってる子たちに、毎日楽しく暮らしてほしいんだよ。もはや、彼女たち自身よりも私のほうが彼女たちに楽しく生きてほしいって思ってるくらい、強い想いを抱いている。Deep Love

たほ: Deep Love。キショいな~。

のい: Deep Love ~ノイの物語~。

たほ: それ「アユの物語」のオマージュ? 横書きの書籍の存在を思い出してしまった。私はそこまでDeep Loveを持って彼女たちに接してないな~。もう少し冷ややかな感じ。深い愛を感じるのいちゃんは偉い。

のい: それはまあ、友達だからさ。関係ない人には別に……でも、本当に、日本は貧しいなと思うから、みんなに幸せになってほしいですけど。


私、パパ活女子! こっちは巨万の富


たほ: 私、パパ活してる女を銀座で見かけると、本当にわかるんだよね。本人はお父さん連れてるつもりなのかも知れないけど、おまえ、バレてるよって。それでも本当に生活維持するためにやってるかもしれないしね。

のい: まあでも、買う男がいるから成り立つわけで。

たほ: それもそうだけど、私、絶対にSNSも悪いと思う。アフィリエイトで稼いで整形とかしてる自分と歳変わらない女子が巨万の富を見せつけてくるわけじゃん。で、私さいきん、洋服の整理をしててね、メルカリで服を売ってると、本当に飛ぶように売れるわけ。それを見てて思うのは、この程度の服が定価で買えない子もメチャメチャいるんだろうなと思って。

のい: そらそうよ。

たほ: 自分は何の気なしに買って気に入らなくて少しでも取り戻そうと売っただけの服なのに、それが15分とかで売れて「こんなに安く買えてうれしいです」みたいなメッセージが来ちゃうと、キィー! ってなっちゃうわけ。

のい: それはさ、たほさんなりのDeep Loveだったりしないんですか。

たほ: Deep Loveなのかな?

のい: その「キィー!」はさ、何から来てるの。

たほ: だからそれは、健気だなって思う気持ちと同時に、パパ活する女の子の気持ち、パパ活が生まれる理由がよく分かる気がする。買う男と繋がるのもSNSだし、女が巨万の富を見せつけてくるのもSNSだし。SNSを規制しろって思う。何て言うのかなあ、そういう発信する側に疑問を抱くようになった、最近。

のい: はあー。豊かな生活してまーす、みたいな。

たほ: ブランド品買ってもらいましたとか、高級そうなご飯アップして「ごちそうさまでした」とか。自分のタニマチを……タニマチ? パトロン

のい: 突然の相撲用語。

たほ: まあ、タニマチを抱えてる素振りとか、何でそういうことするんだろうって思う。

のい: その華やかさの裏にすっごいリスクを抱えてるわけだしね。

たほ: 20代の女が自分の責任でやってるなら結構だけど、高校卒業して間もない子とか、家庭環境に問題があって満足にお小遣いもらってない子とかに見せちゃうとさ、パパ活しちゃいますよ、身体くらい差し出しちゃいますよ、ってなるんだよね。それって危ないし、あなたがその程度のものだと見下げられてるってことだよって、誰かが囁いてくれるような環境もないってことが露骨にパパ活アカウントから見えるんだよね。なんか、すげーもん見ちゃった、ってなる。そういう子たちが変に妊娠とかしちゃったりしないか、本当に心配。

のい: Loveじゃん。

たほ: Loveだね。そういう子たちに会ったらまず何したいかって言われたら抱きしめたいもん。そして本当に、人に買ってもらったものをSNSに上げて自慢する女が許せない。すごい怒りがある。私に至っては、身近にもそういう女たちがいるわけだけど。

のい: 「至っては」。

たほ: なんか、「私レベルになると」みたいな言い方になっちゃった。

のい: いや、私の周りには「Monsta Xのヨントンが当たった」みたいな女しかいないからさ。

(参考: 脱K-POP初心者!今さら聞けない専門用語のハナシ【後編】)

たほ: こういう話するたびに、のいちゃんの中で「何でたほさんと友達なんだろう」っていう気持ちが膨れ上がっていくんだろうね。

のい: まあ、私がエルファバでたほさんがグリンダだから。偶然同じ部屋になっちゃっただけ。


スーパーいい女歌舞伎セカンド


たほ: 私はシスターフッドの力みたいなものを信じているところがあって。

のい: ほう。

たほ: やっぱさ、あと山田詠美の「いいお姉さん文学」みたいなのを読んで育ったとこあるから。

のい: 読んじゃったよ、も~。読みましたよ。

たほ: あれってさ、いい女の歌舞伎じゃん。山田詠美なんて。

のい: いい女の歌舞伎……!?

たほ: いい女がさ、ドドン! カカン! つって、若い男を一蹴して、大見得を切って、ヨッ! なんとか屋! みたいな。

のい「彼のベッドの上で私のアンクレットが揺れたの」ドドン! カカン! ヨッ! いい女!

たほ: キターッ! 痺れるいい女! バニラエッセンスの香り!

のい: 上品なシルクのシャツ!

たほ: 化粧は赤いリップだけ!

のい: 彼のジーンズの後ろポケットに指を入れて……

たほ: 「あいつ、木綿のでっかいパンツ履いてるくせに」みたいな。

のい: 風葬の教室』ね。

たほ: 山田詠美はやみねかおるは私たちだけ永遠に盛り上がっちゃうからやめよう。

のい: はい。

たほ: そう、私はシスターフッドの力を信じてるから。やっぱ言葉では言い表せないけど、中学生の時とか、女の先輩って信用できる存在だったし、安心して接することができる人だったから。自分が誰かにとってそういう存在になりたいというのはおこがましいけど、そういう年上の女性が年下を引っ張ってくみたいなのは、すごく形として健全だと思うんだよね。やっぱ話しやすいんだよね、母親より若いし、姉でもない、微妙な距離のあこがれる人……必ずしも美人である必要はないんだけど。


遠くの親戚より近くの他人、イタリア人より頼れるお姉さん


たほ: テレビでさ、「人の人相は変わるのか」みたいな話があって。

のい: あ、それマツコのやつ?

たほ: イタリア人に褒められ続けて人相が変わった話よ。あれさあ、見てて思ったんだけど、イタリア人が褒めたより、一緒にイタリア語教室通ってたお姉さんが化粧教えた功績のほうがはるかにデカいと思うんだよね。

(参考: 『50日間で女性の顔は変わるのか!?』絶妙の設定でレギュラー一直線

のい: あー、あれ、なんかさ、同じ番組の中で女の子が葉山の海辺? に住んで。あれもお姉さんが……

たほ: そうそうそう! お姉さんが。あれよ。

のい: あー、あれ、シスターフッドの番組だったのか。

たほ: あれはシスターフッドの番組だったんですよ。

のい: すげえ!

たほ: あんなのさ、男の誉め言葉なんか何の役にも立ってなくて、彼女たちはすごい具体的な道を進んでいったわけじゃん。葉山の子なんかお姉さんに言われて野菜食べるまで至ってたじゃん。

のい: あんなに綺麗な海辺に住んで外にも出ようとしなかったのに、お姉さんと出会った瞬間に見違えるようだったよね。

たほ: そうそう。あれはね、葉山の海も男たちの甘い声も彼女の心を癒さなかったわけですよ。そんなものよりも、お手本になってくれる、安心できるお姉さんよ。だから、私はそのパパ活をしてる子たちに、他人の金でバーキンを買いたいって確固たる意志があるとかじゃなくて、なんとなく他人が羨ましいからパパ活に走るとかだったら、その前に一回私に相談して、みたいな気持ちにはやっぱりなるよね。

のい: レンタルお姉さん」ってどう。けっこうビジネスライクな感じのおねえさん。

たほ: うーん、悪用されそう。借りる側の審査をすごい厳しくしないといけないよね。

のい: それさえクリアしたら、たほさんレンタルしたい女の子いっぱいいると思うよ。

たほ: えー、いるかなあ。

のい: おもしれー女だからさ。何しろ「はてなブックマークおもしろランキング月間一位」の女ですよ。

(参考: 女友達の新しい彼氏との馴れ初めを聞きに行ったら死ぬほど文学だったから文学書きました

たほ: 名実ともにね。すごいよね。
私はテニプリの夢小説で性教育を受けたろくでもない女だから。私のおべんちゃらなんてねという感じだけど。

のい: それは……深刻な……


ここに3人のお姉さんがおるじゃろ?


たほ: 同人界隈で繋がった女性同士が一生ものの友達になることってあるけど、それも歳の違う女性同士がすごい自然につながるきっかけになったりするわけだし、私とのいちゃんも同い年ではないわけじゃん。そういうのすごくいいと思うから……やっぱり、「レンタルお姉さん」、いいのかなあ。

のい: でもさ、お姉さん側の資質も問われるから、何か研修をちゃんと受けて認定資格を取った……

たほ: プロのお姉さん。

のい: 意味が違ってくる!!!
ダメだ、「おねえさん」という言葉が現代日本社会ではエロい響きになってしまうから、なんだ、「シスター」? 「プロのシスター」もなんかダメだな。

たほ: 囲碁棋士みたいに下にプロつけよう。「のいプロ」「たほプロ」みたいな。ハンネだからあれだけど、ふつうに名字+プロならサマになるよ。

のい: サマになるかあ?
いや、でも身近なおねえさんなんだから、むしろプロじゃないほうがいいのでは? プロがいいならカウンセリングに通えばいいんだし、そういうのじゃなくて、ちょっとクラスに嫌な男の子がいたときとか、ちょっとメイクのこと知りたいみたいなときに居てほしいわけでしょ。

たほ: 父子家庭のおうちの女の子が生理がきたらどうするのみたいな。そういうところから支えになれることもあるよね。まあこんなこと既にやってる団体もあるんだろうけど。

のい: LINE相談やってるNPOとかね。なんだろう、特化できるとしたら、女の子専門の、ちょっと年の離れた……

たほ: ただ相談に行く~みたいな感じだと構えちゃうかもしれないから、軽く英会話を習いに行くみたいな名目で、実際の英会話なんて冒頭15分くらいで……

のい: ちょっと待ってそれモルモン教の人が信者集めるときのやり方。

たほ: ヨガ教室でもいいよ。

のい: それはアムウェイだ。
モルモン教でもなければアムウェイでもないことを証明しなきゃいけないよね。

たほ: やっぱ教室系はうさん臭くなるか~。

のい: まあでも、自分の経験だけでものごとを語るのも危険だから、そのへんのバランスはとりたいよね。お姉さんのAIみたいなのあったらいいのかな? お姉さんの集合知的な……

たほ: 何それ、3つのスーパーコンピュータが多数決で決めるみたいな話?

のい: わかんないけど。さまざまなお姉さんたちの経験とか、行動とそれに伴う結果とかを読み込ませて、もっとも理想的なアドバイスをするお姉さんのAI。

たほ: それは「お姉さんのイデア」みたいなのを作ろうとしてるってこと?

のい: それを洞窟の壁に投影して眺める……みたいな……

(参考: 洞窟の比喩 - Wikipedia)

のい: 最終的に禁術を使って理想のお姉さんを作り出す……みたいな話になる前に、でもやっぱり生身のお姉さんがいいんだよね。

たほ: 生身のお姉さんがいいよ。だってAIに化粧教えられたってピンとこないから。

のい: でも黄金比とか使ってすげー良い角度の眉の書き方を教えてくれたりするかもしれないじゃん。

たほ: それはさあ……もう、「お姉さん」なのか?

のい: 『「お姉さん」とは』???
眉の書き方を教えてくれるのは「お姉さん」ではない?

たほ: お姉さんのAI……でもそうだね、確かに一人のお姉さんに偏るのはよくないし、相談する子にもお姉さんを選ぶ権利が必要なわけじゃん。

のい: ああー……「チェンジ」?

たほ: だってそうじゃん! 性に合わないお姉さん来たらメッチャ腹立つじゃん。

のい: ポケモンみたいに三匹のお姉さんから選んだら?

たほ: みずタイプ、くさタイプ、みたいな?

のい: 私、くさタイプ。

たほ: 私きっと炎だよ。普通に。

のい: そうだね、アルファだし。あ、オメガか。

(参考: オメガバース (おめがばーす)とは【ピクシブ百科事典】)

たほ: 私オメガだと思う。

のい: 私は両親アルファのベータ。

たほ: やじゃない? オメガのお姉さんに相談すんの。

のい: 偏見ですよ、それは。

たほ: やだよ、私だったら絶対アルファのお姉さんがいいもん。

のい: 好みもあるでしょ! オメガの子はオメガのお姉さんがいいと思う。

たほ: 違っ……オメガの子はアルファのお姉さんに行っちゃうんだって。

のい: うっせぇわ。

たほ: まあ、ビジネスとしては課題が様々に残るね。

のい: 競合他社が他にいないか調べるね。

たほ: 競合他社があったらさ、潜入したいよね。

のい: どの立場で?

たほ: 女児として。自分より年下のお姉さんに相談することになるかも。

のい: まあ、精神年齢5歳くらいだからちょうどいいな。


書き起こしを終えて・雑感


・ 「スキルを身に着けて転職すれば今よりずっと良い待遇の仕事に就ける」と私たちが思えること自体が、上野祝辞的に言えば「努力の成果ではなく、環境のおかげ」なのかもしれないなと思いました。

・ テニプリの夢小説で性教育を受けたたほさんのことを「深刻」とか言いながら私もTabキー連打して探すタイプのR18のBL小説で性教育を受けたので五十歩百歩、いや余計質が悪いかもしれないと反省しました。そこに穴はない。

・ よく二十歳そこらの(それこそ就活アカとか)若い女の子のTwitterを見て回るのですが、極端なニヒリズム冷笑主義の色の強い、インパクトのあるツイートが何千RTもされて、エコーチェンバー的に共感を集めていく様子に「何とかならんのこれ」という思いを日々抱いています。私も大学時代に同じような考え方のフォロワーに囲まれて「人生なんかクソ」「私なんか一生もてない」「生きる価値なんかない」みたいな思想にずっぽりはまってしまっていた(そしてアカ消ししたとたん「何だったんだアレは」と急に目が覚めた)という経験があり、こういうのって抜け出した後でないと異常性に気づけないものとは思いつつ、何とか、何とかならんのかこういうの、って毎日思ってる。多分これもLoveなのかもしれん……。

・ 元の録画はこちらからお聞きいただけます。「どついたれ本舗との結婚」「池袋から来た20人の移民」「子宮に還りたい願望」などのどうでもいい話が聞きたい方はぜひどうぞ。


のい:

たほ:
ブログ『たほ日記』

就活自殺をしようとした話

大学院に通っていた頃の話。同じ研究科の親しい友人がスピーチコンテストに出場することになった。彼女は優秀な留学生で、コンテストは日本語を学んでいる留学生を対象としたものだった。「変な日本語があったら直してくれる?」と言う彼女からスピーチ原稿のデータをもらい、読んでみると、それは遠い国からひとりで日本に来た彼女が自分の体験談を交えながら『夢を持つこと』の大切さを訴える内容だった。内容はともかくとして、これはたいへんな作業になるぞ、と私は思った。彼女の日本語はとても流暢ではあったが、書き言葉になるとどうしても端々に違和感と、英語表現特有の"強さ"みたいなものが出てしまう。私は、例えば、彼女が「一般的に多くの人は〇〇について××と考えやすいですが、その考え方が間違っているということを私は強く主張します」と書いたことを、「みなさんの中には〇〇と言うと××と考える方も多いかもしれませんね。でも、私の考え方は少し違います」みたいに直す、という作業を一文ごとに行った。長い時間をかけ、何度も音読して文法に破綻がないかを確認し、すべてのセンテンスを訂正し終えたところで「これじゃ完全に別物じゃねーか」ということにようやく思い至って、「全部この通りに変えろという意味ではないからね。この言い回しはいいな、と思ったところだけ採用してね」と付け加えて、彼女にデータを送り返した。


「内容はともかく」と書いたのはなぜかというと、私は彼女がほとんど鬱病になりかけていることを知っていたからだ。彼女は最初に入学した語学学校で、特別日本語がうまいということで凄惨ないじめに遭って、そこでまず心に大きな傷を負っている。そして後に入学した私の通う研究科ではゼミの指導教授から耳を疑うようなパワハラを受け続け、また私生活では国に置いてきた婚約者とうまくいかずに悩んでいた。大量の課題や自分の研究で体を休める暇もなく、たまに横になれても目が冴えてなかなか寝付けず、結局朝までSNSを見てしまうのだと彼女は言った。徹夜明けの彼女の肌から隠しようもなく漂ってくる独特の刺激臭が、何年も経った今でも、まだ鼻の奥に残っているような気がする。
そんなI dreamed a dream状態の彼女がいったいどういう気持ちで『夢を持つことの大切さ』をみんなに説こうとしているのか、私には理解しがたかったが、きっとこのスピーチ大会も「きっとxxxさんなら素晴らしいスピーチをしてくれるだろうから」とか何とか言われて断り切れずに引き受けてしまったのだろう。自分が他人からどう見えているか、どう見せたいか、ということについて、彼女は人一倍敏感だったから。


私はというと、院生として人生二度目の就職活動の真っ最中だった。
そもそも、進学は考えていなかった私がなぜ入院(文系の大学院進学を蔑んだ言い方)を選んだかと言うと、学部生の頃の就職活動で誇張なしに全敗を喫したからだ。私はいちおう有名大学と呼ばれる類のマンモス校に通っていたが、マジのマジで、書類の時点で全部落ちてしまった。そんな私を憐れんだゼミの先生が、大学院ではもっと違う経験ができるかもしれないから、と推薦状を書いてくれた。留学生が多く集まる研究科ということで、キラキラ~国際交流~みたいなのに対する妙な憧れを捨てきれないミーハーな母が学費を支援してくれることにもなった(母は先の鬱病留学生とはちゃっかりLINE友達である)。
「今度こそ最強のESを作ってやる」と意気込んだ私は、大学院では企業受けのよさそうな活動をいろいろやった。海外大学を訪ねて国際交流もしたし、企業インターンもしたし、TOEICスコアもぐんと上がった。そして臨んだ二度目の就活では、驚くほど、するすると書類が通った。しかし今度は面接で落ちる。しかも最終面接で無慈悲に落ちる。なぜか修正液を使ってはいけないことになっているエントリーシートのデカすぎる枠を必死で埋めて、かしこい奴らはチームで受験するというWebテストをかい潜り、企業のホームページを隅々まで読んで、靴擦れを作りながら何度も面接に呼ばれて、笑顔を作ってへこへことお辞儀をして、最後の最後に落とされるのだ。
精神的に限界が近づいてきていた7月。その日受けた最終面接は、今まで経験した面接とまったく違った。ドアを開けた瞬間に目に飛び込んできた皇居のお堀の、青々とした緑をよく覚えている。役員たちは私に、併願企業とか座右の銘とか、ほとんど意味のないような質問を二、三投げかけてから、私の経歴のどこがいいと思ったか、入社後の私にどんな仕事を任せたいかを微笑みながら語った。15分もかからなかったと思う。私は、やっと解放される、と思って、もう内定をもらったつもりになって、企業を出たその足でコンビニに入ってお菓子を買い込み、東御苑でピクニックをした。内定者にのみ、翌日17時までに電話で連絡があるとのことだった。
そして次の日、17時を過ぎても、携帯は鳴らなかった。
ベッドに突っ伏して、私は「死にたい」とか「消えたい」とかではなく、何故か「もうこれ以上、この体に入っていたくない」と強く思った。今すぐ肉体を脱ぎ捨ててどこか遠いところまで走っていきたい。感じたことがないほどの強い衝動が抑えきれず、いつまでもベッドの上で暴れた。魂が肉体に拒絶反応を起こしているみたいだった。へとへとになるまで暴れまわったところで、もう私はこの社会で生きていくのが無理だということを母に伝えなければ、と謎の冷静さを取り戻し、部屋を出て、リビングにいた母に「希死念慮がすごい、私はちょっともうだめかもしれない」ということを伝えた。母は「死ぬのはとりあえずxxxちゃんのスピーチを聞いてからにしたら」と言った。翌日は例のコンテストの日で、母と私は彼女から関係者として招待を受けていたのだった。


そして迎えたスピーチコンテスト当日、うだるような暑さの中ようやくたどり着いた会場で、友人のスピーチを聞いた私は唖然とした。「いいと思ったところだけ採用して」と言ったはずなのに、彼女は一言一句違わず、私が更正したあとの原稿を朗々と読み上げていた。これって一種の不正というか、これじゃ私ゴーストライターなのでは……と震撼する私と対照的に、彼女のほうは大人数を前にとても落ち着いて、自信に満ち溢れていた。夢を持つことの大切さを滔々と語る彼女は鬱病で、おっさん教授からものすごいアカハラを受けていて、恋人とも婚約破棄寸前だし、部屋はメチャメチャ汚いし服は臭いし、私とお茶するたびに国に帰りたいけどみんなに期待されているから放り出して逃げたりできないと言って泣く、そしてそのスピーチ原稿は私が一晩かけて赤ペンをいれまくった結果別モノになってしまった代物で、その私は昨日さんざん期待させられた上で企業から血も涙もないサイレントお祈りを食らい、もう何もかも嫌になって暴れまくって泣き喚いて目が未だに腫れていて、Googleの検索履歴には「自殺 前準備」「身辺整理」「遺書 法的効力」などのワードがまだ残っているのだ。
何なんだこれは、と私は思った。何なんだ、と、呆然としているうちに、一言一句すべて身に覚えのあるスピーチは終わった。その後もそれぞれに美しい国の衣装をまとった留学生たちが次々とスピーチを披露して、結局、友人が地区大会の最優秀賞に決まり、全国大会へと駒を進めることになった。大きな花束を抱え、ニコニコ笑って偉い人たちと写真を撮る彼女を横目に、私と母は会場を後にした。(ついでに言うと彼女はこのあと全国大会でも優勝してしまった。もう何年も前のことなので、時効だろう。)


この経験から私が得た教訓はない。私は救われてもいないし慰められてもいない。帰り道、私はゲラゲラ笑っていた。就活さえまともにできない自分に愛想が尽き、真剣に社会からドロップアウトすることを考えていた私が、何故か鬱病の留学生から夢を持つことの大切さを説かれ、そしてその原稿はほとんど私が書いたものなのだ。こんなにも意味の分からない、シュールな出来事がほかにあるだろうか。
あまりの暑さに、涼みに入ったマルイで母が帽子を買ってくれた。とりあえずこの帽子が無駄にならないようにこの夏は生きようと思った。見せしめとしてあの権威主義的な部屋の窓から見えたお堀に飛び込んで死ぬ計画も廃案とした。


今だからわかることは、あのとき、私は(そして恐らく友人も)どこまでも"被害者"でしかなかった、ということだ。大企業が入念に作り上げた理不尽で搾取的な新卒採用のシステム、番号をつけられた家畜のように横並びにされて競い合う就活生たち、の、中で藻掻き苦しむしかない被害者。私はいつだって、「どうして私がこんなことをしなきゃいけないんだ」と思っていた。それでも「どうして」の答えはないし、探す意味もないし、「こんなことをしなきゃいけない」のが確定事項である以上、私に逃げ場はなかった。こんなことしたくないのに、こんなのおかしいのに、そうしないといけない、哀れな被害者だった。
狂ったシステムに囚われていたとしても、必ずしも"被害者"になる必要はない、と知ったのは本当に最近のことだ。いくら理不尽だろうが、その構造が社会に強固に根付いている以上、その中でうまく立ち回ってサバイバルすることはどうしても必要になる。その中で耐えきれず脱落していく人もいるだろう。それでも、私たちは全身をその狂気に浸して、構造の一部として取り込まれなくても、完全に諦めなくてもいいのだと、教えてくれた人がいた。それから、その構造が狂っていることに気付いていて、何とか変えようとしている人たちは決して少なくないのだということも。


あのスピーチコンテストの日から今日まで私は、ふらふらニートしてみたり、通訳の真似事をしたり、法的に限りなく黒に近いグレーな会社でオーストラリア人の社長と喧嘩しながら働いたり、年下の現役大学生に交じってインターンしたりと、かなり浮ついた日々を過ごしてきた。
先日、とある会社から採用通知を受け取った。私のこのメチャクチャな経歴でどうして採用されたのか分からないくらいまっとうな会社だ。現役時代の私であれば泣いて喜んでいただろう。それなのに、今日の私は自分でも不思議なくらい落ち着いている。それはおそらく、今の私はもはや"被害者"ではないからだし、勤め先が決まったという出来事それ自体は、私という存在に何ら影響を及ぼさないことをわかっているからだ。


可哀そうな被害者の私を皇居のお堀に投げ捨ててしまった代わりに、今の私には、これからの私がやるべきことがだんだんはっきりと見えてきている。仕事はその手段のひとつでしかないから、そこで評価されなくても、誰かの期待に応えられなくても、泣いて暴れたりする必要なんかない。それにやっと気づけたから、あの友人にも教えてあげたかったのに、久しぶりにFacebookを覗いてみたら友達関係を解除されていた。