on my own

話し相手は自分だよ

就活自殺をしようとした話

大学院に通っていた頃の話。同じ研究科の親しい友人がスピーチコンテストに出場することになった。彼女は優秀な留学生で、コンテストは日本語を学んでいる留学生を対象としたものだった。「変な日本語があったら直してくれる?」と言う彼女からスピーチ原稿のデータをもらい、読んでみると、それは遠い国からひとりで日本に来た彼女が自分の体験談を交えながら『夢を持つこと』の大切さを訴える内容だった。内容はともかくとして、これはたいへんな作業になるぞ、と私は思った。彼女の日本語はとても流暢ではあったが、書き言葉になるとどうしても端々に違和感と、英語表現特有の"強さ"みたいなものが出てしまう。私は、例えば、彼女が「一般的に多くの人は〇〇について××と考えやすいですが、その考え方が間違っているということを私は強く主張します」と書いたことを、「みなさんの中には〇〇と言うと××と考える方も多いかもしれませんね。でも、私の考え方は少し違います」みたいに直す、という作業を一文ごとに行った。長い時間をかけ、何度も音読して文法に破綻がないかを確認し、すべてのセンテンスを訂正し終えたところで「これじゃ完全に別物じゃねーか」ということにようやく思い至って、「全部この通りに変えろという意味ではないからね。この言い回しはいいな、と思ったところだけ採用してね」と付け加えて、彼女にデータを送り返した。


「内容はともかく」と書いたのはなぜかというと、私は彼女がほとんど鬱病になりかけていることを知っていたからだ。彼女は最初に入学した語学学校で、特別日本語がうまいということで凄惨ないじめに遭って、そこでまず心に大きな傷を負っている。そして後に入学した私の通う研究科ではゼミの指導教授から耳を疑うようなパワハラを受け続け、また私生活では国に置いてきた婚約者とうまくいかずに悩んでいた。大量の課題や自分の研究で体を休める暇もなく、たまに横になれても目が冴えてなかなか寝付けず、結局朝までSNSを見てしまうのだと彼女は言った。徹夜明けの彼女の肌から隠しようもなく漂ってくる独特の刺激臭が、何年も経った今でも、まだ鼻の奥に残っているような気がする。
そんなI dreamed a dream状態の彼女がいったいどういう気持ちで『夢を持つことの大切さ』をみんなに説こうとしているのか、私には理解しがたかったが、きっとこのスピーチ大会も「きっとxxxさんなら素晴らしいスピーチをしてくれるだろうから」とか何とか言われて断り切れずに引き受けてしまったのだろう。自分が他人からどう見えているか、どう見せたいか、ということについて、彼女は人一倍敏感だったから。


私はというと、院生として人生二度目の就職活動の真っ最中だった。
そもそも、進学は考えていなかった私がなぜ入院(文系の大学院進学を蔑んだ言い方)を選んだかと言うと、学部生の頃の就職活動で誇張なしに全敗を喫したからだ。私はいちおう有名大学と呼ばれる類のマンモス校に通っていたが、マジのマジで、書類の時点で全部落ちてしまった。そんな私を憐れんだゼミの先生が、大学院ではもっと違う経験ができるかもしれないから、と推薦状を書いてくれた。留学生が多く集まる研究科ということで、キラキラ~国際交流~みたいなのに対する妙な憧れを捨てきれないミーハーな母が学費を支援してくれることにもなった(母は先の鬱病留学生とはちゃっかりLINE友達である)。
「今度こそ最強のESを作ってやる」と意気込んだ私は、大学院では企業受けのよさそうな活動をいろいろやった。海外大学を訪ねて国際交流もしたし、企業インターンもしたし、TOEICスコアもぐんと上がった。そして臨んだ二度目の就活では、驚くほど、するすると書類が通った。しかし今度は面接で落ちる。しかも最終面接で無慈悲に落ちる。なぜか修正液を使ってはいけないことになっているエントリーシートのデカすぎる枠を必死で埋めて、かしこい奴らはチームで受験するというWebテストをかい潜り、企業のホームページを隅々まで読んで、靴擦れを作りながら何度も面接に呼ばれて、笑顔を作ってへこへことお辞儀をして、最後の最後に落とされるのだ。
精神的に限界が近づいてきていた7月。その日受けた最終面接は、今まで経験した面接とまったく違った。ドアを開けた瞬間に目に飛び込んできた皇居のお堀の、青々とした緑をよく覚えている。役員たちは私に、併願企業とか座右の銘とか、ほとんど意味のないような質問を二、三投げかけてから、私の経歴のどこがいいと思ったか、入社後の私にどんな仕事を任せたいかを微笑みながら語った。15分もかからなかったと思う。私は、やっと解放される、と思って、もう内定をもらったつもりになって、企業を出たその足でコンビニに入ってお菓子を買い込み、東御苑でピクニックをした。内定者にのみ、翌日17時までに電話で連絡があるとのことだった。
そして次の日、17時を過ぎても、携帯は鳴らなかった。
ベッドに突っ伏して、私は「死にたい」とか「消えたい」とかではなく、何故か「もうこれ以上、この体に入っていたくない」と強く思った。今すぐ肉体を脱ぎ捨ててどこか遠いところまで走っていきたい。感じたことがないほどの強い衝動が抑えきれず、いつまでもベッドの上で暴れた。魂が肉体に拒絶反応を起こしているみたいだった。へとへとになるまで暴れまわったところで、もう私はこの社会で生きていくのが無理だということを母に伝えなければ、と謎の冷静さを取り戻し、部屋を出て、リビングにいた母に「希死念慮がすごい、私はちょっともうだめかもしれない」ということを伝えた。母は「死ぬのはとりあえずxxxちゃんのスピーチを聞いてからにしたら」と言った。翌日は例のコンテストの日で、母と私は彼女から関係者として招待を受けていたのだった。


そして迎えたスピーチコンテスト当日、うだるような暑さの中ようやくたどり着いた会場で、友人のスピーチを聞いた私は唖然とした。「いいと思ったところだけ採用して」と言ったはずなのに、彼女は一言一句違わず、私が更正したあとの原稿を朗々と読み上げていた。これって一種の不正というか、これじゃ私ゴーストライターなのでは……と震撼する私と対照的に、彼女のほうは大人数を前にとても落ち着いて、自信に満ち溢れていた。夢を持つことの大切さを滔々と語る彼女は鬱病で、おっさん教授からものすごいアカハラを受けていて、恋人とも婚約破棄寸前だし、部屋はメチャメチャ汚いし服は臭いし、私とお茶するたびに国に帰りたいけどみんなに期待されているから放り出して逃げたりできないと言って泣く、そしてそのスピーチ原稿は私が一晩かけて赤ペンをいれまくった結果別モノになってしまった代物で、その私は昨日さんざん期待させられた上で企業から血も涙もないサイレントお祈りを食らい、もう何もかも嫌になって暴れまくって泣き喚いて目が未だに腫れていて、Googleの検索履歴には「自殺 前準備」「身辺整理」「遺書 法的効力」などのワードがまだ残っているのだ。
何なんだこれは、と私は思った。何なんだ、と、呆然としているうちに、一言一句すべて身に覚えのあるスピーチは終わった。その後もそれぞれに美しい国の衣装をまとった留学生たちが次々とスピーチを披露して、結局、友人が地区大会の最優秀賞に決まり、全国大会へと駒を進めることになった。大きな花束を抱え、ニコニコ笑って偉い人たちと写真を撮る彼女を横目に、私と母は会場を後にした。(ついでに言うと彼女はこのあと全国大会でも優勝してしまった。もう何年も前のことなので、時効だろう。)


この経験から私が得た教訓はない。私は救われてもいないし慰められてもいない。帰り道、私はゲラゲラ笑っていた。就活さえまともにできない自分に愛想が尽き、真剣に社会からドロップアウトすることを考えていた私が、何故か鬱病の留学生から夢を持つことの大切さを説かれ、そしてその原稿はほとんど私が書いたものなのだ。こんなにも意味の分からない、シュールな出来事がほかにあるだろうか。
あまりの暑さに、涼みに入ったマルイで母が帽子を買ってくれた。とりあえずこの帽子が無駄にならないようにこの夏は生きようと思った。見せしめとしてあの権威主義的な部屋の窓から見えたお堀に飛び込んで死ぬ計画も廃案とした。


今だからわかることは、あのとき、私は(そして恐らく友人も)どこまでも"被害者"でしかなかった、ということだ。大企業が入念に作り上げた理不尽で搾取的な新卒採用のシステム、番号をつけられた家畜のように横並びにされて競い合う就活生たち、の、中で藻掻き苦しむしかない被害者。私はいつだって、「どうして私がこんなことをしなきゃいけないんだ」と思っていた。それでも「どうして」の答えはないし、探す意味もないし、「こんなことをしなきゃいけない」のが確定事項である以上、私に逃げ場はなかった。こんなことしたくないのに、こんなのおかしいのに、そうしないといけない、哀れな被害者だった。
狂ったシステムに囚われていたとしても、必ずしも"被害者"になる必要はない、と知ったのは本当に最近のことだ。いくら理不尽だろうが、その構造が社会に強固に根付いている以上、その中でうまく立ち回ってサバイバルすることはどうしても必要になる。その中で耐えきれず脱落していく人もいるだろう。それでも、私たちは全身をその狂気に浸して、構造の一部として取り込まれなくても、完全に諦めなくてもいいのだと、教えてくれた人がいた。それから、その構造が狂っていることに気付いていて、何とか変えようとしている人たちは決して少なくないのだということも。


あのスピーチコンテストの日から今日まで私は、ふらふらニートしてみたり、通訳の真似事をしたり、法的に限りなく黒に近いグレーな会社でオーストラリア人の社長と喧嘩しながら働いたり、年下の現役大学生に交じってインターンしたりと、かなり浮ついた日々を過ごしてきた。
先日、とある会社から採用通知を受け取った。私のこのメチャクチャな経歴でどうして採用されたのか分からないくらいまっとうな会社だ。現役時代の私であれば泣いて喜んでいただろう。それなのに、今日の私は自分でも不思議なくらい落ち着いている。それはおそらく、今の私はもはや"被害者"ではないからだし、勤め先が決まったという出来事それ自体は、私という存在に何ら影響を及ぼさないことをわかっているからだ。


可哀そうな被害者の私を皇居のお堀に投げ捨ててしまった代わりに、今の私には、これからの私がやるべきことがだんだんはっきりと見えてきている。仕事はその手段のひとつでしかないから、そこで評価されなくても、誰かの期待に応えられなくても、泣いて暴れたりする必要なんかない。それにやっと気づけたから、あの友人にも教えてあげたかったのに、久しぶりにFacebookを覗いてみたら友達関係を解除されていた。

背徳を食べよう!お一人様・博多風もつ鍋

私は一人っ子だ。
つまり、バースデーケーキの苺は全部私のものだった。
そんな私でも、人と食事をするときは、特に料理がドカッと大皿で出てくる飲み会などでは、みんなにきちんと料理が行き渡るように気を配らなければならないことは理解している。
正直クソ面倒くさい。面倒くさくない?
お肉取りすぎたかなとか、あの人ピザの生ハムのってないとこ取ってるなとか、周りに気を配りながらも、私このマグロとアボカドのやつ3皿くらい1人でイケるんだけど、などと薄暗いことを考えてしまう。


友人を部屋に呼んでDVDの応援上映会など催す際に、よく博多風もつ鍋で鍋パをするのだが、これも私にとっては苦悩と葛藤の時間だった。
友達と食べる鍋は美味しいし、楽しい。しかし、もつ鍋は私の大好物であり、本当なら鍋に入っているもつは全部私が食べたいし、「締めはラーメンとうどんと雑炊、どれにする~?」なんて気の利いたせりふを吐くこともなくラーメンで強行採決したい。私一人で議席過半数を占領したい。
悶々としながら過ごしていたある日、私の耳に悪魔がそっと囁いた。


「ひとりでもつ鍋、しちゃえばいいじゃん?」


その手があったか───
それから私はもっとも美味しくお一人様もつ鍋を楽しむために、週一でもつ鍋を作って試行錯誤した。さすがに友人が来るときに作る3〜4人分の分量だとちょっと多すぎるので、スープがちょうどいい濃さになり、気持ち悪くならずに食べきれる量を研究した。最近ようやく理想の味に近いレシピにたどり着いたので、ここに公開しようと思う。
ちなみに私は料理の専門家でもなければ勉強したわけでもなく、単に自分がやりやすく作業が簡単なことと、私好みの味になることを目指しているので、こまけぇことは見逃してほしい。


ベースにさせてもらったのはこちらのレシピ。
cookpad.com


これを私好みにお一人様アレンジした分量はこちら。

キャベツ 1/4玉
ニラ 1束
牛小腸(マルチョウ) 200g
乾燥にんにくチップ 適量
白ごま 適量
輪切り唐辛子 適量
【スープ】
水 2カップ
だしパック 1つ
だし昆布 1枚
鶏ガラスープの素 大さじ1
薄口しょうゆ 大さじ2
みりん 大さじ1
はちみつ 小さじ1
チューブにんにく・しょうが 好きなだけ

・たくさん食べられる人ならキャベツは1/2玉入れちゃっていい。春キャベツより普通のみっしりしたキャベツが合う。
・もやしは水っぽくなってしまうので入れない。
・私はしょうがを相当いっぱい入れるがこのへんは好みで。



①「今日、背徳食べよ」と決めた瞬間、鍋に水を入れて、だしパックとだし昆布を浸してしばらく置く。

夜食べるなら、朝もうスープの準備をしちゃう。
だしをしっかり取っておくことで、醤油が少なめでも十分に濃いスープができる。
本当はだしパックまで入れる必要ないと思うんだけどあとで入れ忘れそうだから入れちゃう。


② スープの材料を全部鍋に入れる。
鶏ガラスープで味付けた料理って絶対美味しいからすごいよね。


③ もつの下処理。沸騰した湯(1lくらい)をゆっくり回しかける。
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近所の肉屋で買ってきた新鮮な牛小腸をざるに入れて、熱湯をかける。
店のおじさんは「下処理~? いらないよ水でさっと洗えばそれで」と言っていたが、なんとなく余計な脂が落ちる気がして……
水切りラックをうまく使って、お湯がまっすぐ排水口に流れるようにしている。こうすればシンクが油でべとべとにならず、後片付けが楽。
終わったらしっかり水を切る。


④ もつを鍋に入れて中火にかける。アクが浮いてくるのですくう。

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昆布は沸騰する前に、だしパックは沸騰したら2~3分で取り出す。

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アク取りの様子。ざっと取ったら、あまり火に長くかけすぎるともつがしぼんでしまうので、いったん火を止めて、もつを先ほどのざるに引き上げる。


⑤もつを取り出したスープに野菜を入れて、乾燥にんにくチップ、輪切り唐辛子、白ごまを入れて火にかける。
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適当にカットした野菜をスープに沈めて、その上から乾燥にんにくチップ、輪切り唐辛子、白ごまを思うさまふりかけ、火にかける。
つまり、もうもつには火が通ってるので、これ以上は煮込まず、野菜は野菜だけで煮る。
乾燥にんにくチップを、普通のにんにくのスライスにしてみたこともあるんだけど、ちょっと味がくどかったので私はチップが好みだな。


⑥もつを炙る。
はい、山場です。舞台で言えば一幕のラスト。
使うのは、どのご家庭にも必ずひとつはあるだろう、おなじみのコレ。

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トーチバーナーです。網は近所の何屋なのかよくわからん店で100円くらいで買った。
(普段は写真の奥に見えてる、排水口の上にセットした水切りラックに網を乗せて、油がそのまま排水口に落ちるようにしてるんだけど、「これだけ油が落ちました!」というのをやるために今回はボウルの上で炙った。)
腸壁の部分は炙ると固くなってしまうので、炙る前に箸でひっくり返して、ぽよぽよの脂身の部分が表にくるように揃える。

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しばらく炙るとこうなるので、暫し眺めたり、嗅いだり、つまんでこのまま食べたりする。ふふっ、か~わいい

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これだけ油が落ちました! わかりづらいな。やらなきゃよかった。


⑦もつを鍋に戻し、完成!!
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もつと戯れている間に野菜にもしっかり火が通ったので、もつをコロコロと鍋に放り入れたら完成!!!


もちろん、鍋を全部食べたあとは、好きなように締めてもらったらいい。
私は細麺を入れてラーメンにするのが好きだ。このスープの量で、麺をそのまま入れると水分を吸ってスープがなくなってしまうので、別の鍋で軽く茹でてから改めてスープに入れて煮込みラーメンにする。


というわけで、おうちで一人で簡単に食べられる背徳の作り方でした。
こんなに美味しいもつ鍋、本当は誰にも教えたくないんだけど、楽しいことがめっきり少なくなってしまったこの頃なので、ぜひ、自宅で背徳を存分に味わってほしい。
トーチバーナーを持っていない人はこの令和の世にさすがにいないとは思うんだけど、万が一持っていない人がいたら、宅配ピザに追いチーズして炙ってトロトロお焦げにしたり、自宅で炙りエンガワ塩レモン寿司を作ったりなど楽しみが無限大なので、この機会に買っちゃって損はない。

自分をADHDだと思い込んでいた”普通”の人の話

今日書こうとしていることは、ものすごくセンシティブで、私もうまく言葉にできるか不安なのですが、なんとかやってみようと思います。気持ちが引きずられやすい方などはちょっと気をつけてね。



もう誰も覚えていないと思うが、昨年9月にこのエントリがちょっとバズった。女性オタク界隈で予想の10万倍くらい多くの人に読まれ、ポジティブな反応も、もちろんネガティブな反応も多くあった。
この中で私はこういうことを書いた。

私たちが(独身女オタクとして自分を卑下せず生きようという決意表明をした)つづ井さんに心動かされ、今の自分のあり方に確信を抱いたところで、つづ井さんは責任を取ってくれない。

すると、私がつづいさんに責任を取るよう要求しているとか、攻撃しているとか、自分の心の弱さの責任転嫁をしているなどというふうに読み取った人から私を非難するコメントがドカドカ届いた。
しかし弁解させてもらうと私は本当に文字通り「誰も人生の責任を取ってくれない」ということが言いたかっただけだった(ちなみに同じく批判を浴びた「寝た子を起こした」という言い回しについてはこっちのエントリでちょっと補足している)。


そもそも私が「誰も人生の責任を取らない」という、このアイデアをどこで得たのかと言うと、私が事あるごとにダイマしている漫画『ファンタジウム』からである。


ファンタジウム(1)

ファンタジウム(1)


この作品はディスレクシア(読み書き障害)を持った少年がマジシャンとして神奈川の小さな町工場から世界へのし上がっていく話なのだが、主人公の良くんは中学校で「赤点連発のやべーバカ」としてボロクソにいじめられる(問題文が読めないので当然なのだが……)。そんな中で良くんにTV出演のオファーがあったとき、彼は通級指導の先生からこう言われる。

読み書き障害の自覚のない子が周囲からバカとか怠けているとか自覚もないまま言われ続けていると!
本当にそういう人間になってしまうんですよ
人生をそんなふうにした責任を誰もとってくれません  (2巻7話)


そう言われ続けていると本当にそうなってしまって、その責任を誰も取ってくれない。
他人の言うことをそのまま自分の中に取り込み続けると、実際はそうでなかったとしても本当にその通りの人間、その通りの人生になってしまう。
私はさらにそこから進んで考えた。他人の価値観と自分の価値観の境界があいまいなまま選択や決定を積み重ねた先に、意にそぐわない事態や幸福と言えない人生が待っていたとしても、その価値観を植え付けた他人は何の埋め合わせもしてくれない。「あのとき、おまえはバカだから大学なんか行けないと言ったじゃないか!」とか、「あのとき、結婚すれば幸せになれると言ったじゃないか!」とか、他人を責めたところでもはや人生は帰ってこない。
だから私たちは、その価値基準が自分を守り生かすものなのか、それともただひたすらに搾り取るだけのものなのか、他人任せにせずに慎重に見極める必要がある。その見極めの難しさ、そして例え見極められたとしてもそれを実践できるとは限らないままならなさについて、あの文章では私なりに整理したつもりだ。



そして今回は、「誰も人生の責任をとってくれない」ということについて、もう少し踏み込んで書いていこうと思う。



私は幼い頃より、母から「おまえの頭はおかしい」と言われて育った(こちらのエントリを読むとわかるけど私のママはちょっとばかりmentally illである。なんか今回過去記事のPRばっかりだな)。
もっと具体的に言うと、「おまえの脳には障害があるから、おまえはいつかきっと取り返しのつかないほど大きな失敗をする、それを誰も助けてくれないし、そんなことをしたら許さないから常に自分を見張っていろ」ということを繰り返し言われてきた。
いったい何が母にそのような怖いことを言わせてしまったのか、未だによく分からない。本人もまったく覚えていないそうだ。おそらく、父親のいない、躾のなっていない子と他所様から言われないよう母なりに必死に子育てをしていて、その熱意が変な形で表出してしまったものと思われるが、それも私の勝手な憶測に過ぎない。


かと言って、母が私を然るべき医療機関や支援団体に繋いでくれるわけでもなく、言われるたびにどうしたらいいか分からなくて、幼い私は不安で夜ごとしくしく泣いたりしていた(かわいそう…)。歳を取るにつれて、母からいろいろ言われても「うるせえよ」と言い返せるふてぶてしさも身に着けつつあったのだが、「私の頭はどこかおかしいんだ」という考えは私の中にすっかり染み付いて取れなくなっていた。


大学を卒業したあたりで、私は「大人の発達障害」という概念と出会う。ひととおり調べて、衝撃を受けた。私の頭が変な理由はきっとこれだ、薬を飲めば治せるんだ、と確信を抱いた。
そして高校生の頃からお世話になっている心療内科の先生に突撃して「私はADHDなんじゃないかと思うんです。治療して普通の人になりたいのでまずは診断を受けさせてほしい」ということをぶちまけた。
すると、先生は眉をひそめてなんだか変な顔をしながら「あなたはね、発達障害とかではないと思うよ」と言って「TOEICの対策はどうやってしてるの?私も受けようと思うんだけど」などとまったく違う話を始める始末で、私は先生を心から信頼していただけに失望を隠せなかった。ADHDじゃないなら、私はどうしたらまともな頭になれるんだ?


私はずっと自分に大きな欠陥があるということを前提に、その欠陥がいつ露呈してしまうか、いつ取り返しのつかない失敗をしてしまうのか、心のどこかで常に怯えながら暮らしていた。でも、よくよく冷静に振り返ってみると、私は母の言う「取り返しのつかない大きな間違い」なんか犯したことはない。そりゃあ、ちょいちょいミスをしたり、うまくいかないこともあるけど、それでものすごく大きな損害を出したり他人の命を危険にさらしたこともない。そして仕事中などに周りを見ていると、私なんかより余程とんでもないミスをしれっとやらかす上司がいたが、「気をつけてよ~」とか言われながらもみんなに助けてもらっている。私もたくさん、助けてもらった。
あれ、私、ADHDじゃない、というか、私の頭は別に母が言うようにはおかしくなんかないのかも?
「誰もおまえを助けない」って、みんな普通に助けてくれてるじゃん???
ということに私は、実家を出たあたりから少しずつ少しずつ、気が付き始めた。


はっきりと目が醒めたきっかけは今Twitterでバズっている認知特性テストだ。
知らない方にご説明すると、これは35問の質問に答えることによって、自分の認知機能の特性(視覚優位とか、聴覚優位とか)を知ることができるというテストである。決してその人の悪いところ、足りないところを突き付けるテストではなく、困っていることにアプローチするときその人にどんな支援が最適なのかを考える際に参考にできるよう作られている。
私はこのウェブサイト上の診断ではなく、しばらく前に元ネタの本を読んで、複雑すぎる採点方式に頭を抱えながら点数を出したのだが、結果はこんな感じだった。


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本田真美『医師のつくった「頭のよさ」テスト 認知特性から見た6つのパターン』光文社新書、2012年



えっ。丸っ。ぜんぜんボコボコしてない。
どこかしらが大きく凹んでいるだろうということをひとつも疑っていなかったので、この結果は正直拍子抜けだった。
あれ、そもそも何で私、自分がADHDだと思ってたんだっけ? そうだ、「脳に障害がある」とか言われていたからだ。それって、周囲のいろんな人から言われていたんだっけ? いや、そんなことを言っていたのは母だけだ。
私は母一人からそう言われ続けただけで、自分を欠陥品だと思い込んで、その通りの人生を生きようとしていた。でも、このまま私が欠陥品として生き続けて、それが常に自尊心を傷つけられ、心安らぐことのない毎日だったとしても、誰ひとり、母でさえも、その責任を取ってはくれない。そう生きることを決めたのは、他でもない私自身なのだから。
そこまで思い至ったとき、私はやっと、長年連れ添った「私の頭はおかしい」という思い込みを捨てることができた。自分にくっついた「欠陥品」のラベルを、ペリッ、と剥がすことができたのだ。


そして更に、ようやくわかってきたのは、たとえ私が本当にADHDやその他の発達障害だったりしたところで、それは「欠陥」でも何でもないし、誰からどんなに蔑まれようと、認知特性テストがボコボコだろうと、「欠陥品」であることの罰を受ける瞬間を心の底で恐れながら暮らす必要なんかひとつもないということだ。ADHDの方が現代日本社会でどんなに苦労しているかは、診断済みリアルガチADHDコンサータを服用しつつ日々奮闘している友人を見ていれば分かる。確かに彼女たちの脳は「普通」とは少し違うつくりをしているが、それは彼女たちの脳の内側に「欠陥」があることにはならない。「普通」ではないと生きづらくなるという「欠陥」が、彼らを取り巻く社会の側にあるというだけのことだ。


コロナ禍を受けて、いままでどんなに不登校の子どもへの支援を訴えても社会は変わらなかったのに、みんなが学校に行けなくなった途端、家でも学習できる仕組みがみるみるうちに整えられていったことを皮肉る支援者の方のツイートを、先日見かけた。
メガネがないと日常生活に支障が出る人のことを障害者とは呼ばない。誰でも安価で良質なメガネやコンタクトを入手でき、誰もメガネをかけることを特別視しないからだ。
ほんの何十年前まで、社会の中で女性は「男ではないもの」でしかなかった。ほんの数十年前まで、同性愛は刑罰、よくて治療の対象だった。場所によっては未だにそうだ。「A」と「Not A」を選り分けるのは、病名をつけるのは、常に社会のほうだ。生まれながらに、純粋に「普通」の人、「普通じゃない」人なんて存在しない。


ある夜、これから先どうやって生きていけばいいのか分からなくて、布団にくるまってぶるぶる震えながら「みんなどうやって耐えているんだろう」と考えたことがあった。そして「耐えられなかった人はもういなくなってる」ということに気が付いて、ぞっとした。適応できない不運な者は音もなく退場して、あとには適応できた者だけが残る。耐え続けられる強者のみがコンティニューを許されるゲームなんて不公平にもほどがあるが、負け知らずの強者はこのゲームの歪みに自分が負けるまで気付けない。


強くいられない人も、デコボコの人も、みんなそのままでいられたらいいのに、と思う。それでも私は、全身から血を流しながら「普通になりたい」と願う人に、「普通になんかならなくていいんだよ」などとは口が裂けても言えない。母の呪縛から逃れ、改めて自分の境遇を客観視したとき、限りなく世間一般の「普通」に近いところにいることは自覚している。そんな私が「普通」を欲する人を諫めることは暴力以外の何でもない。


だからせめて、元「欠陥品」、現「ただの私」として、私は小さな声でも粘り強く求めていきたい。この社会になるべく多くの、いろんなかたちの椅子を。どんな人も命が脅かされずにすむ居場所を。そして自分が何者なのか、自分で決める権利を。

Something next to normal, would be okay.  ──ブロードウェイ・ミュージカル ”Next to Normal” より

Today is going to be a good day. And here's why: because today, today at least you're you and that's enough.  ──ブロードウェイ・ミュージカル ”Dear Evan Hansen” より

母が買い物依存症です。

母が買い物依存症です。特にTVショッピングとメルカリが大好きで、高価な健康食品や家電、ブランドの服やバッグなどを主に買っています。
母は長年、医療系の国家資格を活かしてバリバリ働いているシングルマザーで、一人娘の私が手を離れたこともあって、金銭的にはわりと余裕があるので、借金をしてまで買っているわけではありません。なので依存症と言うのは大げさなのかもしれませんが、埃の積もった段ボール箱が家じゅうに積みあがっている光景は、少し病的に思えます。
箱から出しもしないものを買うべきではないんじゃないか、と私が言うと、自分の稼いだ金を自分の好きに使って何が悪い、おまえはもうこの家の人間ではない(私は5年前に実家を出て都内で一人暮らしを始めました)のだから黙れ、と、取りつくしまもありません。
母にはもっと建設的なお金の使い方をしてほしいです。どうしたら必要のないものを買うのをやめさせられるでしょうか。


 ……Yahoo!知恵袋に書き込むなら、こんな感じだろうか。しかし私は、投稿ボタンを押す前から、この質問に付くであろうベストアンサーがどんなものか、自信をもって予想することができる。


お母様の言う通りです。人がお金をどう使おうが、他人が口出しできることではありません。それがあなたから見てどんなに無駄な買い物だろうが、です。無理な借金を繰り返したり、家族のお金を使い込んだりしてしまっているのでない限り、あなたにお母様の買い物をやめさせる権利はありません。あなたはもう家を出ているのですから、なおさらのこと。
まあ、アドバイスするとしたら、お母様はシングルマザーで少し不安定な精神状態にありそうですから、あなたがきちんとお嫁に行って子どもでも持てば、少しは安心してくれるのではないでしょうか。


 自分で書いててめちゃめちゃ腹が立ってきたが、私はこのセルフ知恵袋からのアンサーに言い返すことができない。私と母は、特に私が家を出た5年前からは、別の世帯の、別の人間だ。いくら私から見て無駄だからといって、母に説教をしたり、母の購買歴を監視したり、母の買ったものを勝手にメルカリで売り飛ばしたりすることはできない。私が同じ演目に何度も通うことを母が止められないのと同じように。
 それでも、私は、母に今のような無茶な買い物をやめてほしいと思うことを、やめられない。



 4月、私は晴れて無職と相成ってしまった(わはは)。かなりの数の企業が採用を中止しており転職活動もままならないので、事態が落ち着くまでしばらくの間、実家の厄介になることにした。母の職場は医療の最前線ではないものの、毎日の出勤が不可欠である。忙しい母の代わりに、80代後半の祖父母+犬(←世界一かわわん)の面倒を見ながら、炊事や洗濯など家事の大半を担当することが条件だ。


 実家生活が始まってほどなく、これまたショップチャンネルで買ったダイソンの型落ち品を手渡され、「これを使って家じゅうの掃除をしろ」との大役を仰せつかった。ショップチャンネルの録画を見せられて、こちゃこちゃと謎にいっぱいある付属ツールの使い方を学習したのち、ゴム手袋とマスクという重装備で仕事にかかる。家の至る所に、まるでダンジョンに落ちているアイテムみたいに母が買ったまま使っていないお掃除グッズが点在するので、浴室の掃除をする前に洗面所の掃除をすると「プロ仕様! お風呂場のカビ落とし」だの「業務用! 排水口のヌメリ取り」などが手に入るという、なんかそういうRPGのクエストみたいになっていて笑うしかない。


 母の軽度の買い物依存症は今に始まったことではないが、メルカリが登場してから悪化の一途をたどっている気がする。母としては、「定価で買えば高額なもの・日常で使える便利なものを、安く賢く買っている」という認識のようだ。箱から出しもせずに積んでおくのは、「今は忙しいけど時間に余裕が出来たら開けて整理をするから」と言い続けているが、趣味=仕事の母が忙しくなかったことなんてない。母は大雪の予報の出ている日の前日に「誰よりも早く出社して、やる気のある所をみんなに見せよう♪」というLINEを送ってくるタイプの人間である。


 しんどいのは、母が買ったものを見ると、母がどういう人間になりたい(見せたい)のか、どういう生活をしたいのかが、手に取るようにわかってしまうことだ。
 「アメリカ海軍でも使用、これ一本で玄関のタイルからエアコンのフィルターまでピカピカ」とか(ご家庭向け洗剤に航空母艦の汚れを落とせるほどのポテンシャルは必要ないと思う)
 「毎食ごとに一本水に溶かして飲むだけでみるみる痩せる」とか(母はダイエット歴30年のプロである)
 「栄養素を損なわずあっという間にスムージーができて毎日健康」とか(このブレンダーは埃の巨塔と化しており見るも無残だ)
 「誰でも簡単に美味しいパンが焼ける」とか(焼き立てを食べさせてもらったがパン職人への尊敬の念をいっそう深める結果となった)
 「おもてなし料理も材料を入れて放置するだけ」とか(おもてなしどころか部屋が汚くてまず客を呼ぶのが困難)
 そもそもTVショッピングはそういう商材を扱いがちということも勿論あるけれど、さわやかな風の通り抜ける明るくキレイな部屋で、朝はほうれん草のスムージーなんか飲んだりパンを焼いたりして、休日は友人を招いて小洒落た料理をふるまって「わあ、母子さんて料理上手~」とか褒めてもらって……たぶん、そういう生活を夢みているのだろう、ということが、もう嫌になるほど伝わってくるのが、とてもしんどい。


 学生のとき、社会学の教授が「人が生きるということはつまり商品を消費することなのだ」と断言するのを聞いて、いやそりゃ言い過ぎだろと当時は思ったものだが、なんだか最近、その通りなんじゃないかという気持ちになってきた。
 You are what you buy.
 消費は生命活動の維持に必要不可欠であり、同時に自己表現で、自己実現の手段でもある。


 そういえば緊急事態宣言が出る直前のある日、もう当面は楽しいお買い物なんかできないだろうと思って、ずっと欲しかったけどなかなか買いに行く機会がなかったものをいっぺんに買い込んだ。
 買ったものを並べてみると、ちょっといい電動歯ブラシデンタルフロス、ヘアオイル、バスソルト、ルームウェア、ルームミスト、ふつうのラグがふかふかになる下敷き用ラグ、ヨガマット……は高すぎて断念、リングフィットアドベンチャー……は何かの呪いかってくらい買えない、という感じ。しばらくは家にこもるのが前提であるとはいえ、お部屋の中で快適に暮らすこと、また体のパーツをメンテナンスすることに振り切れている。
 同じ状況でも買う人が違えば、好きなブランドの春物だったり、お菓子作りの材料だったり、詰将棋だったりするだろう。私の買ったものは、考えてみればめちゃめちゃ私らしい。それなら、私は今まで買ったことのなかったものを買えば、今までとは違う私になれるんだろうか。今度ちょっとやってみたい。


 母の買い物依存と掃除嫌いは筋金入りである。今まで何度も「手伝うから一緒に不用品を処分しよう」と申し出たが、そのたびにブチギレられて終了してしまった。
 「業務用! 排水口のヌメリ落とし」でオクサレ様が詰まったみたいな排水口を掃除しながら、それでも私は一筋の光明を見出していた。母がこのたび、私に家じゅうの掃除を言いつけたことは、実は革新的な出来事だった。母は今まで、料理や洗濯を任せることはあっても、掃除だけは頑なに手を出させなかった。その母が、自分のテリトリーに私が介入することを許し、母が母たるゆえんであったはずのショップチャンネルの箱の開封を許した。もしかしたら、母は、違う自分になりたがっているのかもしれない。何かを変えようと思っているのかもしれない。ただの思い過ごしかもしれないのだが、そうだったらいいなと思う。


 母は今までとにかく仕事ばかりしていて、その他のいろいろなことをおざなりにして生きてきた。一瞬だけプールやテニスにハマって道具を一揃い買ったことがあったが、疲れると言ってすぐやめてしまった。オブジェと化したバランスボールやダンベルは、埃を払って従妹が嬉しそうに持って帰った。本屋に行くたびに英会話の本を買い込み、ベッドサイドにどんどん積み上げていくのを、盗み読みして私は英語の勉強をした。
 ただ買うだけではだめだ。何かを新しく始めるには、今までしていた何かをやめなくてはいけない。一日は二十四時間しかないのだから、毎日三分プランクをするなら、三分、スマホをだらだら見るのをやめなくてはいけない。パンパンに膨れた箪笥に新しい服を入れるのなら、もう着ない服を捨てないといけないのだ。


 母が、何かを捨てて、新しい何かをそこに入れようとしているなら、私は応援したい。そしてその「新しい何か」が、「身体がどんどん若返る水素水」とか「癒しの波動を発するイルカの絵」とかでないことを祈るばかりだ。そのときは今度こそ、Yahoo!知恵袋に相談しようと思う。

私はまた眠り、目を逸らし、黙るべきなのか ──ハエのたかるタコスを食べて決意したこと

メキシコを旅して分かったのは、「基本、この国の食べ物にはハエがたかっている」ということだ。裏路地の大衆食堂でも、今ふうの小洒落たオープンカフェでも、旅行者向けのお高いレストランでさえ、ハエとのエンカウントは不可避だった。私は最初こそハエを払おうと努力したが、ものの数分で諦めてしまった。だって、あとからあとから無限に飛んでくるハエをいちいち払っていては食事にならない。私は「このハエは1分前まで犬の糞にたかっていたかもしれない」などと想像することを自らに禁じながら、無我の境地で食事をやりすごしたのだった。衛生観念ポルファボル。

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グアナファトの市場の犬。

場面は変わり、ある秋の日の東京、私はとある企業の中途採用面接を受けていた。知名度は低いが伝統と実績のあるきちんとした企業だった。そこで私は、面接官である中年の男性社員が女性社員のことを一貫して「うちの女の子」と呼んではばからないことに、かなり大きな違和感と反感を抱いた。家で奥さんに「うちの女の子が立て続けに産休入ってさ〜」などと話す分には問題ないとしても、採用面接で、ましてや女性の応募者相手に「うちの女の子」を連発ってどういうことだよ、もし入社したら私もおまえの女の子ズの仲間入りかよキッッッッッショ!!! と、帰宅後にキレたツイートをひととおり投下して、一息ついて、ふと、思った。

『これってもしかして、メキシコのタコス屋で「なんでここのタコスにはハエがたかってるんだ!」とキレるのと同じことだったりするのだろうか?』

ああ、と、何だか急に、いろんなことが腑に落ちたような感じだった。

おそらく、キレ始めた私に向かって、タコス屋の主人はこう言うだろう。
「何を言っているんだ? ハエがたかっていたって、食べても死にはしない。現にここの人はみんなハエのたかったタコスを食べて生活している、今までもずっと。おまえがそんなに騒いだところでハエは根絶されないし、他のお客も気分が悪くなる。黙って食べるか、そんなに嫌なら出ていけよ」

そういうことだ。いちいちハエに怒って、追い払おうとしていては、食事にならない。この国の食事風景にはハエがいるのが当たり前なんだし、むしろそれがこの国らしいと言う人までいる。ハエを介して恐ろしい伝染病がまき散らされているならともかく、たかがハエごときで人は死なない。それなら、あの日の私みたいに、なるべくハエを見ないように、気にしないように、いないものとして、黙って食事をした方がずっと建設的だ。


それはともすれば、インドで「どうして歩いてるだけで物乞いに囲まれなきゃいけないんだ!!」と憤ったり、エチオピアで「ガスも水道もないなんてありえない!!」と気絶したりすることと大差ないのかもしれない。
それでも、日常のどんな隙間にも入り込んでくるハエが、どうしても視界に入ってきてしまって、やり過ごすことができない。

山手線を埋め尽くす車内広告。若くあれ、美しくあれ、そのままのあなたは見苦しい。女は謙虚に華やかに男を立てろ、男は強く逞しく女を守れ。20代はこうしろ、30代でこれはキツい、40代の大人にふさわしい何ちゃら。こんなあなたは価値がない、こんなあなたは恥ずかしい、こんなあなたでは全然足りない。あなた以外の人は問題ないと思っているので問題ない、あなたさえ我慢すればいい、黙って従えばいい。

一匹一匹はとても小さな虫である。彼らは今すぐ私たちを刺し殺したりしないが、確実に、静かに、僅かずつ私たちの精神衛生や生活環境に影響を与えている。しかし、あまりにも小さく、あまりにも多いので、無視して生活する方がラクなのは明らかだ。堪え切れず、「ハエがたかってるものは食べたくない」と声を上げれば、「どうしてそれくらい我慢できないの? 私は平気だよ。生きづらそう、もっと寛容になりなよ」などと言われて口を塞がれる。そうして、黙っていた方が賢明だということを嫌でも学習させられる。

さらに、この社会には、この虫がもとから見えない人も多く存在する。その中には、原因はハッキリしないながら、なんとなく生きづらかったり、なんとなくイヤな気分になることが多かったりする人もいるだろう。そんな人がある日、無数に飛び回る虫が見えるようになったところで、それは私が前のエントリで「寝た子を起こす」と表現したことと同じで、決してその人を救ってくれるとは限らない。本来、内面化された固定観念差別意識から私たちを解放するはずのエンパワメントの力が、「寝た子を起こす=余計なことをする」程度の効力しか持たず、せっかく起きた子に「こんなものが見えてしまうなら眠っていた方がマシだった」と言わせてしまうのがこの社会だ。


それでは私は、タコス屋でキレ散らかすような不毛な行為をやめて、黙ってハエまみれのタコスを食べ続けるべきなんだろうか?

いや、でも。でもやっぱり、食べ物にハエがたかっているのは、おかしいだろ。日本は"一応"、G7の一角を担う先進国なんだから。


たぶん、何の権力も持たない、批評家でも社会活動家でも何でもない一市民としての今の私にできることは、ハエの一匹一匹に腹を立てて、片っ端から潰そうとすることではない。また、ハエを見ないふりしている人に一方的に怒りをぶつけたり、改心させようとやきもきすることでもない。

そうではなくて、一度もっと広く、遠くを見ることだ。どうしてみんな、こんなにたくさんのハエに気がつかないのか。どうして、ハエを潰そうとすると邪魔されるのか。ハエはそもそもどこから沸いてくるのか。せめて、少しでも衛生的な場所で暮らすにはどうしたらいいのか。そう言う私もどこかで誰かの食事の邪魔をしていないか、ハエの湧きやすい環境づくりに加担していないか。そういうことを、できる範囲で真剣に考えたり、それを言葉にしたり、共に生きる人たちと話し合ったりすることなのだと思う。もちろん、時には怒ったり、悲しくなったり、途方に暮れたりしながら。

今日の私たちの当たり前の生活は、ハエなんかよりももっと大きくて凶悪なものをまっすぐ見据え、黙らされても黙らず、時にそれで命を落としてきた人たちの不断の闘争の上に成り立っている。そんな、勲章を受け、TED Talksや国連に招かれスピーチをするようなアクティビストになる必要は全くない(というか無理)にせよ、自分たちの住む場所を少しでも今より良くするためにどうしたらいいのか問い続けること、いま何が議論されているのか知ることを、疎かにしていいはずがない。

そして、私は信じている。私たちには、真摯に声を上げる誰かを不当に黙らせる権利などない代わりに、自ら声を上げる権利があるのだということ。誰かが声を上げても「どうしてそんなことでいちいち騒ぐの?」と冷笑する人だけでは決してなく、「何があったの? 何が問題なの?」と耳を傾けてくれる人はきっといるのだということを。


劇団四季の『キャッツ』をきっかけにブロードウェイ・ミュージカルの虜になったのは大学生の頃だ。夢中で通い詰めた舞台から得られた多くの経験は、私の目を開かせて、私の世界を広げてくれた。特に、NY留学中に観劇した『Kinky Boots』『Matilda』『Fun Home』『The Curious Incident of the dog in the Night Time』、そして今年ようやく見に行けた『Dear Evan Hansen』は、生きづらさや困難さ、弱さを抱えた多くの人をエンパワーする強力なメッセージ性と美しさとを持って、いまも私の心に焼き付いて消えずにいる。

人は誰も、その属性や身体的特徴、文化的バックグラウンドによって差別されない、傷つけられない。すべての人は美しく、その身体や心はその人だけのものだ。私たちは本来、誰を愛しても愛さなくても自由だし、誰にも指図されないし、誰からも貶められない。

そんなメッセージを受け取り、涙を流したりして、劇場を出て、日常である現代日本社会に帰ってくる。そうすると、劇場を出る前と比べて、より多くの、より多種のハエが見えるようになっている。面倒くさい。嫌になる。うんざりだ。でも、同時に、内側にくすぶっていた得体のしれない何かが、私の身体からすっと抜けていき、代わりに温かなエネルギーが満ちていくのを確かに感じる。

そうやって私は今まで、ミュージカルはもちろん、漫画や小説、音楽や絵画、アニメや映画、多くの優れた創作物に触れて、たくさんの豊かなものを受け取ってきた。現実では身を切るようにつらいこともたくさんあったけど、すぐれた表現者たちから道しるべを与えてもらって、何とか今日まで生きてこられた。それなのに、『あるがままの現実を見て、あるべき姿を見ない』ことを良しとしては、私の大好きな作品たちに申し訳が立たない。だからもう、眠らないし、目を逸らさないし、黙らない。これからは、少しずつできる範囲で、ちゃんと自分を守りながら、戦っていきたいと思う。


という、きわめて個人的な決意表明でした。ちなみに、件の面接は、「長く働く気はあるか?」と聞かれたので「女性の管理職の方はいますか?」と聞いたら「いますよ! えーっと、2、3人くらい……」と歯切れ悪く答えられ「ホォー…」と赤井秀一みたいな反応をしてしまったせいか知らないけど落ちたし、メキシコでは無事におなかを壊しました。やっぱり食べ物にハエがたかっているのはおかしいんだよ!!!!!!!! メキシコの歴史的建造物や遺跡、博物館は素晴らしかったので、機会があったらまた行きたいです。タコスはしばらく見たくもない。

When life itself seems lunatic, who knows where madness lies? Perhaps to be too practical is madness. To surrender dreams — this may be madness. To seek treasure where there is only trash. Too much sanity may be madness — and maddest of all: to see life as it is, and not as it should be!” ──ブロードウェイ・ミュージカル ”Man of La Mancha” より

つづ井さんは寝た子を起こしてしまったかもしれない ──地獄は地獄のままでありつづけるという話


【9/15追記しました】

はじめに言いたいことは、つづ井さんのメッセージは、彼女のファン層と影響力を鑑みても、おそろしく真っ当で、健やかで、まさしくこの時代にそぐうものだということだ。つづ井さんのような、感性のやわらかさと絶妙なバランス感覚を併せ持った方から、このようなメッセージが発信されたことをとても嬉しく思うし、彼女の気づきと決意が多くの女オタクの心にまっすぐ届いて、救いとなったことに間違いはない。それでも、きっとどこかに、つづ井さんでさえ救えなかった人、それどころかますます心の闇を深めてしまい、苦しんでいる人がいるのではないかと思い、このエントリを書いている。というか、いま、現在進行形で、私が苦しんでいる。この文章が同じ地獄を見ているどこかの誰かに届くことを願います。


つづ井さんの「メッセージ」、という書き方をしたが、実はつづ井さんは、誰かに何かを語りかけようとしていない。ただ、自分の身に起きたこと、自分の心の中で起きたこと、そこで自分はこうすることにしました、ということを書いているだけで、「みんなこうしようよ」「こうするべきだよ」とは一言もいっていない。私はこれをとても賢明というか、なるほどなぁ~と思ってしまったのだが、結局ここで「独身オタクでも自虐やめようよ」「自分に自信を持つべきだよ」と書いてしまうと、「女は結婚して子供を持つべきだよ」勢とやってることが同じ(つまり、他人に自分と同じあり方を強いる)ということになってしまう。彼女はこれを巧妙に回避している。無自覚なのだろうけれど……。


つづ井さんのnoteを読んで多くの人が感動した。幸せな気持ちを分けて貰えた。これは紛れもない事実だ。しかし私はこれを読んで、「いい文章だなあ、RTしたい!」と感動すると同時に、自分の心の中のゴチャゴチャと片付かず薄暗い片隅で、なにか意地悪な気持ちが蠢くのをはっきりと感じていた。


これを読んだ人たちは、他人からとやかく言われ傷つき疲れた自分を慰めてもらった心地がするだろう。そして、(つづ井さんがそうすることをまったく奨励していないにもかかわらず)、私も自虐をやめて、自分のあり方を肯定しよう! と思うだろう。繰り返すが、もちろんそれは素晴らしいことだ。自分が自分であるだけで、何かが間違っているような気がする状態というのは、あまりに苦しく、悲しい。


しかし、彼女たちはそう時を置かずに気がつくはずだ。自分で自分を否定する日々から脱したところで、そこはともすれば、元いた地獄とそう変わらない、また別の地獄かもしれないということに。


一つめの地獄。"私は"自分のあり方を否定しない。自虐しない。そして他人も貶めない。私はこれでいいんだ! そう決めたところで、"私"のあり方を否定し、貶め、改心させようとしてくる人たちは、いなくならない。それどころか、他人のあり方に口出ししてくる人のウザさが明白になってしまったぶん、今までよりしんどくなってしまう恐れさえある。


ここで隙あらば自分語り。
子持ちの既婚女性に囲まれて仕事をしたことのある私の経験から言うと、「独身で寂しいでしょ」という類の圧力に対し、「私は趣味もあるし友達もいるからぜんぜん寂しくありません、毎日とっても楽しいですよ」と反撃に出るのは、これ以上ない悪手である。それが紛れもない事実であろうと、だ。そんなことを言えば彼女たちは目の色を変えて「この哀れな小娘の考えを改めねば」とますます圧力を掛けてくることになる。


じつは、彼女たちは私に、彼氏や旦那と子をもうけて幸せになってほしいわけではない。本当はただ『自分の人生を肯定してほしい』のだと、気付いたのはその職場に入って半年ほど経った頃のことだった。そこで私は対応を変えた。「ほんっと結婚したいし子どもも欲しいんですけど、なかなか出会いがないんです。良い人いたらマジ紹介してくださいよ~!! イケメンで金持ちのインド人がいいな笑」とかなんとか、そんなふうに返すと、彼女たちは「何よインド人って~! まずはインド美人に負けないメイクを勉強しなさいよ~」とにこにこ笑ってその話題を終わりにしてくれるのだった。


パートタイムとして働く彼女たちは皆、子供や家庭のために、一度自分のキャリアを捨てている。
そんな彼女たちを、既婚子なしの上司は「まともな仕事をしたことのない人たち」と陰で蔑んでいる。
「今夜は娘の好きなホイコーロー作るの」と言いながら退勤処理をし、「快速行っちゃう~」とものすごい勢いで職場を出ていく背中を、どういう気持ちで見送ればいいか分からなかった。


私が言いたいのは、現代日本社会というのは単に独身オタク女性が迫害される社会なのではなく、自分の選んだ人生を自分で肯定できない人のたくさんいる社会ということだ。さらに、自分の人生は本当にこれでよかったのか、確信を持てない人たちは、自分と違う人生を選んだ人を否定することで、自分の人生を肯定しようとする。つまり、私の職場でいうと、パートさんたちは私や上司を「可哀そうな、寂しい人」扱いすることで、そしてキャリアウーマンの上司はパートさんたちを「安易に家庭に入った人」扱いすることで。そしてそれは決して、彼女たち個人の「怠慢」や「努力不足」に100%起因する事態、つまり完全な自己責任ではありえない。
そんな社会において、自分の独身オタクというあり方に胸を張り、「私は幸せです」と言い切れるつづ井さんに対して、反感を抱いたり、彼女を僻んだりする人に向かって、少なくとも"私"は「人の足を引っ張る嫌なやつ」と石を投げることができない。


二つめの地獄。私たちがつづ井さんに心動かされ、今の自分のあり方に確信を抱いたところで、つづ井さんは責任を取ってくれない。


いや、取る必要なんか全然ないよ。ないんだけど、つまり、私の人生の選択の責任を、私以外の誰もとってくれない、というシンプルな事実。シンプルだけど、ときどき忘れそうになる。


私たちには選択肢が与えられている。ことになっている。男を愛するも女も愛するも自由。結婚するもしないも自由。子どもを産むも産まないも自由。


それでも「結婚出産」=「問答無用で良いこと、素晴らしいこと」という価値観は未だ保存されたままでいる。「愛する人といっしょになりたい」「自分の子どもに会ってみたい」という人に結婚や出産のリスクを並べ立て「あなたの人生は本当にそれでいいのか、後悔しないか」と水を差す人は、いなくはないだろうがメチャメチャ嫌われるだろう。しかし、その逆をする人は……言うに及ばず。


そんな社会で、あえて、問答無用で祝福されないほうの人生を選ぶ人、また特に選んだつもりはないが自動的にそうなった人が、果たして、私は自分の人生を後悔しませんと、胸を張って言えるだろうか? 何だかんだで振り切れることができず、悩み続けるのではないだろうか?
選択ができるようになった、素晴らしいことだ。それでも、私たちはみんながみんな、膨大な情報を処理し、自分の状況を冷静に考慮し、誰にも忖度せず、純粋に自分の意志で、最適な行動をとることができるだろうか? 中にはいろんな理由でそれが難しい人がいる。傍目からは決して幸福でない選択をしてしまう人がいる。そんな人たちを、「あなたにも選択肢が与えられていたのに。きちんと考えて行動できなかった、この状況を予測できなかったあなたが悪い」と突き放す社会であるなら、もしかするとそこは単に2Pカラーの地獄ではないか?


つづ井さんのように自分を肯定できない人もいる。つづ井さんのように思い切れず、マッチングアプリをアンスコできない人もいる。もちろん、その人たちにつづ井さんのような人が遠慮・配慮する必要はまったくない。
ただ私は、そんな人たちの葛藤が、意味のない、時代にそぐわない、弱者の思考だと、一蹴される社会であってほしくないと思う。人生に回答編なんて存在しない。日本がとってもポリティカリー・コレクトで、どんな個人の尊厳も守られる天国のような場所になる日はまだまだ来そうにない。私たちの多くは悩み続け、苦しみ続け、また後悔をする、その繰り返しで歳を取っていくのだと思う。もちろん「これは私の選んだ人生で、わたしは私が大好きだ」と言えたらそれ以上うれしいことはない、でも、そう言えないことで、また自分を責めることほど、悲しいこともない。


つづ井さんは辛い思いをしながらも、自分を、自分をかたちづくる全てを誇ることを私たちに教えてくれたし、それは本当に素晴らしいことだ。その点をしつこいくらいに繰り返したうえで、私は、自分のあり方を問い続ける人のことを尊敬する。そして、現在進行形でどじょうの如くもんどりを打って悩み苦しんでいる私自身のことを、今夜くらいは祝福してあげたいと思う。



【9/15 追記】
想像をはるかに超えて多くの方に読んでいただいているようです。ありがとうございます。ちょっと反応を見て回ったら気になる反応がありましたので、言いたいことを言わせてください。

①私はつづ井さんの言うことやこれからすることをひとつも非難しません。つづ井さんのnoteを読んで自虐をやめようとか自分を肯定しようと思った方々についても同じです。このエントリで何をさておいてもまず始めに言ったように、とても素晴らしいと思うし本当にその通りにしていただきたいです。

②私はつづ井さん個人に向けてこれを発信していません。私がつづ井さんに何かを要求していると読み取った方が複数名いましたが、私は私を救うためにこれを書いただけです。
つづ井さんに責任を取れとも、配慮しろとも言ってないし、そういう表現はちゃんとひとつひとつ否定していたはずなんですが、誤解を招いてしまったなら申し訳ありません。以後このようなことが起きないよう対策を講じます。

③こんなことを長々と書く意味が分からない、だから何? 知らんがな、という反応もわりと多くありましたが、あなたには意味ないんでしょうけど私にはあるんです。これも何故かよくわからないんですけど、他人が作ったものが自分のために作られていないことに怒り出してしまう人っているんですよね。not for meという便利な言葉があるので使ってください。

共感を寄せてくださった方も本当に多くいらっしゃって、夕飯を抜いて書いた甲斐があったなあ(夕飯を抜くことは推奨しません)と泣きそうになりました。この記事は、ご指摘にもあったように、何も訴えていないし何も非難していない、何の発展の見込みもないどん詰まりの私のお気持ちです。それでもこんな私のお気持ちに寄り添ってくれる方がこんなにいるなら、きっとすこしずつ、私が「地獄」と呼んだ場所も良くなっていってくれるのではないかと思いました。ありがとう。Let's make the world a better place.

【ひとこと】
ブログにコメントもたくさんいただいています。ありがとうございます。私の文章からなにかを受け取って言葉を尽くしてくださったことにただ感謝です。質問もいくつかいただきましたが、特に私からお返事することはありませんのでご了承ください。

ポリコレ暴走機関車の見た『プロメア』

『プロメア』を観た。具合が悪くなった。

観終わってからも胃のあたりの不快感が消えず、鍵アカウントでぶちぶち小言をこぼしていたところ、フォロワーがこちらのツイートを共有してくれた。

私の不快感の元凶はこの方がきちんと整理して語ってくださっており、これ以上言うべきことは特にないはずなのだが、ただ暴れ狂うだけでは赤ちゃんになってしまうので、「じゃあどうしたらよかったんだよ」というのを頑張って考えてみたいと思う。

まず、上記ツイートの方は

中島かずきさんが「『差別を受ける者との共生』という自分にとってのテーマの集大成」と仰っている

と仰っているが、実際にそういう発言をしたわけではなく、インタビューの中で

差別される者との共存とはなんぞやというテーマも、これまで新感線のほうでずっと書いている話で、そういう意味では集大成

と語っていただけとのことで、以前からそのテーマに関心があって出来たのがコレなんだったらますます絶望が深まるばかりなのだが、とりあえず
『プロメアのコアのテーマ』『差別を受けるものとの共生』(コアは別のところにある)
であるということは念頭に置いて、なるべく落ち着いて話をしていきたい。
もちろんネタバレを多分に含みます。


ガロについて

とにかくバカだということが作中で繰り返し強調される。突き抜けたバカだからこそ突破口になりうることはあるし、理論より気持ちで動くキャラクターは共感を得やすいというのは分かる。それでもちょっとバカすぎやしないだろうか。バカすぎるというか、中身がなさすぎて、物語を強制的に(かつ、見た目良く)動かすための歯車に成り下がってしまっているというか……。
例えばクレイの正体を知るシーン。家が燃えて、おそらく自分以外の家族全員を失ったであろう彼にとってクレイは、唯一無二の精神的支柱だったはずだ。そのクレイが非人道的な人体実験に関与しバーニッシュを苦しめていることを知って、ちょっと洞窟で反省して、即座に勲章を返上しにクレイのもとに向かう。「うなぎが絶滅危惧種だと知ったので反省して今年の土用の丑の日にはうどんを食べようと思う」くらいの軽さだ。すべてを失った世界で唯一信じられる理想を打ち砕かれた人間のとる行動とは思えない。もうちょっと迷いとか、葛藤とか、怒りみたいな、ぐちゃぐちゃした心情を吐露する場面があってしかるべきじゃないだろうか。「テロリスト野郎があんなこと言ってたけど、嘘だよな? 嘘だって言ってくれよ旦那!!」みたいなシーンとか、もしくはリオの言うことを嘘だと決めてかかった結果として自分も人体実験に加担してしまいそこでやっと後悔とともに真実を受け入れるとか、やりようはいくらでもあるはず。そこで初めて、「こんなもの!!」と勲章を投げ捨て、踏みつけ、クレイを睨みつける。熱いじゃん……。

リオについて

ガロに比べればまだキャラクターがはっきりしている。顔がかわいい。あんまり突っ込むところはない。

クレイについて

どう見てもヒトラーであり、彼の思想はどう考えても優生思想であり、バーニッシュを動力源としたエンジンはどう見てもホロコーストである。ナチス式敬礼をしないのが不思議なくらいだ。
彼が悪に心を染めた要因となるようなエピソードは語られない。それはそれで良い、むしろ好ましい。「実は幼いころに自らの炎が原因で両親を亡くし」などと言われても冷めるだけだ(そういう観点から言えば『弱虫ペダル』の御堂筋くんの過去編は残念だった。御堂筋くんには何の理由もなく、何の目的もなく、ただキモくて嫌なやつでいてほしかった)。
一口に悪役と言ってもそのあり方はさまざまで、中には主人公より観客の支持を集めてしまうラブリーチャーミーな敵役もいる。しかしクレイを見ていてもヒトラーだなあ……としか思えないので、とにかく生理的嫌悪がすごい。ムスカのような可愛げもない。……いや、ほとんど存在まるごとネットミームになってしまったムスカと比べてはいけないかもしれない。
しかも、そのヒトラーを殺さず生かす、という選択肢をガロは選ぶ。自分から二度も全てを奪い去った男を、である。たとえば、リオをも凌ぐ炎エネルギーの持ち主であるクレイを煽って煽って限界まで発火させてプロメアにぶつけて相殺させてGOOD BYE、という人柱的な使い方もできたはず(サンド伊達のゼロカロリー理論を参考に)。ガロがとにかく「みんなを救いたい」という思想の持ち主だったことを強調させたいのは分かるが、こいつはどう考えても生き残る資格がない。もしスピンオフやアナザーストーリーがあるならなるべく苦しんだ後に派手に散ってほしい。隅田川の花火みたいに。

(追記: お風呂場でスピッツのα波オルゴールを聞いていたらだんだん頭が冷えてきて、「どう考えても生き残る資格がない」と言ってしまったことを撤回したくなった。たとえどんな極悪人でも"生きる資格"のない人なんていません。クレイ憎しで自分を見失っていました。ただ、フィクション内での表現として、「苦悩しながらも断腸の思いでかつての師を手にかけ、それを背負って生きていく弟子」というのはだいしゅきなのでそういうのが見たかったという素直な気持ちも否定できない。でもプロメアの雰囲気には合わないかな。でもきっちり罪は償ってほしい、相応の報いを受けてほしいので、どうだろう、弱体化したプロメアと一体化して「ぷろめあたん」的なマスコット生物になっちゃうとか……?)

バーニッシュとプロメアについて

というわけで、どう見ても社会的弱者である。自力では何ともしがたい要素で差別を受けており、一部の目立つ過激派のせいで大きくイメージを損ねているという点では、少数民族や異教徒、性的少数者のようでもあるし、社会に"害"をなすお荷物であるという描かれ方からは、身体・精神障害者の暗喩のようにも受け取れる。
ただ「燃やしたいという衝動」については、また別の考え方が可能であって、たとえばこれを『反社会的な思想・信条』のメタファーとすると、「燃やしたいというのはどうしようもなく湧いてくる心の声であり、燃やさないと生きていけないのに、社会的タブーであるがために規制され、罪に問われる」というのは、「君たちは自由ですよ(ただし法律・良識の範囲内でネ)」という国家権力や社会の合意に対するカウンターであるという見方もできる。私の友人には重度のショタコンがおり、18禁の同人誌をひっそりと描くことでその欲望を昇華しているという。好きでショタコンになったわけではないのに、欲望に身を任せた瞬間に犯罪者になってしまう事実が本当につらいと話していた。現実の少年には指一本触れない=誰も傷つけないことをプライドとして日々同人誌を生産し続ける彼女のことを、バーニッシュを見て少し思い出したりした。
しかし、ご存じの通り、彼らの発火能力は最終的に失われてしまう。たとえバーニッシュが社会的弱者をあらわしていても、彼らの炎が反社会的思想をあらわしていても、エルサの氷の力のような二面性を持っていたとしても、はたまた人間のコントロールの及ばない自然災害をあらわしていようが、もうあのラストで全部台無しだ。現実に議論の種となっているイシューを最後どう片付けるか、どう折り合いをつけるのか、と固唾を飲んで見守っていたのがバカみたいだ。
ちょっと長くなりそうなのでラストについては別項で深めたいと思う。

ガロとリオの関係性について

「バーニッシュも飯を食うのか」と、差別どころか人間扱いさえしていなかったガロが、一瞬で「バーニッシュは同じ人間! 苦しめるなんてヒドイ! 俺はみんなを救いたい!」と豹変するのが気に入らない。個人的に気に入らないだけでシナリオ上大きな問題はないです(『グリーンブック』を見た後も同じようなことで騒ぎまくった)。もう少しバーニッシュへの差別意識や嫌悪感を残したままリオと関われなかったのだろうか。バカには保守的で頭の固いバカと、周りの言うことで自分もころころ変わるバカと、いくつかタイプがあるが、ころころタイプのバカだと本当に人間性に厚みがなくなってしまう……代わりに話を進めやすくなる。先ほど「歯車に成り下がっている」と言ったのはガロのこういうところだ。差別意識というのはそんなにクイックルワイパーを使ったみたいに一拭きでお手軽きれいになってしまうものなのだろうか。そう簡単じゃないから、バーニッシュが焼いたというだけでピザが投げ捨てられる世界になってしまったのではないのか。
こいつはただ自分の衝動のために俺の大切な街を燃やし続けたテロリスト、手を貸すのはマジで気に入らねえが、ここは一時休戦だ! と、睨みあうようなシーンがなかったことが残念で仕方がない。なるべく殺さないようにしてるし、何か問題でも? と涼しい顔でテロ行為を正当化するリオのドライさ、キレた魅力を殺してしまっている。相反する二人だからこそ、あの共闘も、キスシーンも光るのではないか。せめて「リオ・デ・ガロン」と「ガロ・デ・リオン」で言い争う場面くらいあったって良かったと思う。頼んでもないのに「リオ・デ・ガロン」って、もう完全降伏に等しくない?

ラストシーンについて

とにかく、発火能力を焼失させるべきでなかった、の一言に尽きる。
「ぼくのかんがえたさいきょうのプロメアのラストシーン」がどういうものかというと、何だかんだで今この瞬間の地球大爆発は防いだものの、バーニッシュたちの衝動は消えてくれなかった。戦いを通して、リオの言う『衝動』について未だ理解も共感もできないが、とにかく自分がリオたちバーニッシュを変えたり、いないことにすることはできないと気付いたガロ。何だかんだで壊滅してしまった街を再建にかかるが、彼はあえて『燃えやすい街』を作り、「いつでも燃やしに来い、俺が全部消してやる」とリオに告げる。リオはバーニッシュたちの集落に帰っていき、彼らは適度に距離を置いてそれぞれの生活を営むが、時折ガロの街を襲撃する。リオとガロの炎バトルは街の人たちにとって一大イベント、最大の娯楽となり、マッドバーニッシュが来るたびに街は大賑わい。いいぞ! 燃やせ! どうせまた建てればいいだけだ! キャー!! リオたゃがうちを燃やしたわ!!! ご褒美~~~!!! 倒れるご婦人。リオくーん!! うちも燃やして~~~!!! ピースくださ~~~い!!! ったく、消すのは俺たちレスキュー隊なんだから、あんまり煽るなよな!! そう言いながらもニヤつきを隠せないガロたちレスキュー隊の面々なのであった……。
えーーーーこっちのほうが絶対熱いじゃん!!!! 中島かずきどうして私に助言を仰がなかったの??? という茶番はさておき、本当に、どうして、あんなラストにしてしまったんだろうという気持ちが消えない。バトルが気持ち良ければそれで良いのだろうか? 私はかっこいい上にシナリオもちゃんとした映画が見たいと思うのだが、かっこよければ整合性は二の次で許されるのか? そのないがしろにされた整合性のせいで作品の品位がガクッと落ちてしまっても、キャラクターがペラペラになっても、話として一貫性がなくても、それでもかっこよければそれでいいの? 本当に?

技術を持つ者の社会的責任について

冒頭で「差別と共生はプロメアのメインテーマではない」ということを確認したのはなぜかというと、「なぜ差別と共生をプロメアのメインテーマにしなかったのか」という憤りがあるからである。男同士のホモソーシャル的友情の勝利なんて掃いて捨てるほどあるテーマなのだから、せっかく「~とはなんぞや」という思索を続けてきたのだったら、なぜそれを作品にして社会に投げかけなかったのか。私はすべての作品がポリコレに丁寧に配慮して、弱い立場の人をエンパワーし、人々が日々生活で抱える難しさに示唆を与えてくれるような、『ブラックパンサー』みたいに社会現象まで巻き起こす大作になるべきだとは微塵も思っていない。思っていないのだが、これだけの素晴らしい画を作るアニメーションの技術力があり、シーンごとにバチバチに嵌まる音楽があり、実力のある役者をそろえておいて、「頭カラッポで楽しめる整合性無視のアクション大作」を作るというのは、あまりにも、あんまりにも勿体ない。「頭カラッポでどっぷり楽しめるシーンもありつつ、きちんとアップデートされた価値観に基づいた社会的メッセージを織り込み、メインターゲットである10代~20代の若者にただ頭カラッポな2時間を過ごさせない」作品を、どうして作れなかったのか。観客も、そんなものは全然ほしくないっていうことなのか。それがなんだか無性に悲しい。

ウルトラハイパー余談・差別と共生について

先日、NHKで「ムスリム社員の働く日本企業で、イスラム教への理解を深めるために交流会が行われた」というニュースが流れていた。この交流会に参加した日本人の社員が、「みんないっしょなんだということがわかりました」と笑顔でコメントしているのを、私はぞっとする思いで聞いた。「みんないっしょ」というのが「みんな同じ人間」という意味なのだとしたら、お前は今までムスリムを何だと思っていたんだという話だし、文字通り「みんないっしょだということがわかった」と言うなら、「いや全然いっしょじゃねーーーだろうが交流会で気絶してたの???」と全力で突っ込みたい。私たちは違う。全然違う。神様も歴史も文化も思考も全然違う。この国の人間は「共生」を考えるとき、何故か「みんないっしょ」にしたがる。「話せばわかりあえる」と思いたがる。だから「自分と違うしわかりあえない」相手に出会うと、排斥(そんな人は最初からいませんでした~)もしくは同化(いっしょになれば嫌われないよ~)の二択しか選択肢がなくなってしまう。「違うままで、お互い深入りせずに、そこにある」という選択肢を、何故かとらない。そんなことをすれば「わかりあおうとしないのは怠慢だ」となる。具体例を挙げれば、「カムアウトしやすい職場を作ろう!」なんていうのはちゃんちゃらおかしい。どうして「ゲイの人もぼくたちといっしょなんだということがわかりました」とマジョリティが納得できる環境をわざわざ整えなければいけないのか。お互いのセクシュアリティに踏み込まなければいいだけの話だ。作るべきなのは「カムアウトする必要のない職場」である(もちろんしたい人はすればいいし、カムアウトした人が不当な扱いを受けないようにしなければならない)。
バーニッシュが能力を失ってしまう描写はあまりにも「日本的」だった。そうやってアイヌ民族琉球民族も在日外国人も移民も難民も「みんないっしょ」もしくは「そんな奴らはいなかった」という扱いを受けてはずなのだから、もう令和なんだからそんなものは打ち破ってほしかった。全然違う私たちが全然違うままで楽しくやっていける未来を描いてほしかった。ただただ、残念だ。