Netflixで配信中の映画『そばかす』を見たら怒りで気が変になりそうになって感想を書こうと思ったんだけど思うままに書いたらただの悪口にしかならなさそうだったので代わりにエッセイを書きました。
『そばかす』のネタバレが一カ所だけあります。
もしかしたら似た経験をしたことのある人には読んでいて苦しくなる部分があるかもしれません。元気なときに読んでください。
私の友人の話をしたい。
私たちは二次創作のBLを書いて同人誌を作ったりする、いわゆる同人女で、当時放送されていたアニメの同じカップリングが好きで出会った。彼女はフォローゼロ・フォロワーゼロでひたすら壁打ちをしていた私をフォローしてくれた、ただひとりの自カプ仲間だ。すぐに仲良くなって、LINEも交換したし合同誌も出した。出会って6年近く経つけど、新幹線の距離に住んでいることもあってまだ4回しか会ったことがない。それでも私たちはLINEや電話でいろいろなことを話した。特に、アニメがかなり中途半端な感じで終わって、自カプの新規燃料も完全に途絶えて、二人の中で自カプへの思いが煮詰まりすぎて、攻めの子ども(もちろん私たちのオリキャラ)がアメリカのインターナショナルスクールに進学した先で出来た友達(もちろん私たちのオリキャラ)と繰り広げる毎日(純度100%の妄想)について夢中で話していて、ある瞬間に「これはもう二次創作と呼ぶべきではない」と二人して我に返ったあたりからは、オタク話以外のいろんな話をするようになった。
友人と二人で登ったスカイツリーで。
ところで、私が二次創作を含む創作活動をするモチベーションの最たるものとして、「この世のどこにも私のためのフィクションがない」という欠落感がある。何か作品を見ていて、「このキャラクターがどうしてこんなことをするのか、よくわからないな」とか「この展開はなんとなく不愉快だな」とか思うことは、もちろん誰にでも起こりうるが、私の場合、何を見てもほぼ必ず、『意味のわからない瞬間』や『私にとって不都合な展開』が訪れるのである(注1)。もちろん心底大好きな作品はちゃんとあるのだがものすごく少ない。他人の作るフィクションは、そういう意味で常に私にとって『異物』だが、自分で書いちゃえば、当たり前だが、その中では私にとって意味のわかることや都合のいいことしか起こらない。それがあまりに心地よく幸せなので、自分を救うためにもう何年も小説を書き続けている。
そんな私の書くものを好きになってくれた彼女もまた、私同様にピンとこないことが多いらしい。有り体にいえば、つまり、誰かを好きになって、胸が苦しくなって、会えない時期が続くと苦しくて、他の子と話していると嫉妬して、相手も同じ気持ちでいるか不安になって、思いが通じ合ったら嬉しくて、独占したくなったり、気持ちがすれ違うとつらくて、一人の夜にふと涙が出たりする、みたいな、恋愛なる行動様式一般に見られる鮮烈な感情の何もかもが、我々にはどうにも共鳴しづらく、分厚い壁一枚隔てた向こう側にあるように感じられるのだった。ただでさえ理解に苦しむ恋愛感情に性的欲求まで加算されるともう完全にお手上げで、「好きだからセックスしたい」はもうなんか「おなか空いたからカラオケ行きたい」くらい全然よくわからない(「おなかが空いた」も「カラオケ行きたい」も個別ではまだ理解できるのでなおさら厄介である)。フィクションでよく見る「オレはおまえのことが好きだ」「私も好きだよ」「違う、違うんだ、オレはおまえを『そういう』意味で好きなんだよ……(苦しげに俯く)」みたいなやつも、それは「好きだ」じゃなくて「おまえとセックスがしたい」とはっきり言うべきだと常々思っている。
あの日の夜、私は彼女と電話をしていた。私は電話をするときに部屋の中をグルグル回る習性があって、その日もやっぱり狭い自室の中をグルグル回りながら話をしていた。私は彼女よりちょっとお姉さんだったが、二人ともまだ二十代で若かった。本棚、テレビ台、ベッド、デスク、キッチンのある狭い廊下へと繋がるドア、また本棚、テレビ台、と、なけなしの家財道具をひとつひとつ確かめながら私は『恋愛をしない人間が社会の中でどんな目に遭うのか』について話をしていた。私は三十路を目前にしたいわゆる適齢期の人間で、その頃にはこの世の恋愛をしない人間が浴びるであろう大体の言葉を既に浴びてきていた。いっぽう彼女はその時まだ国家資格のために大学院に通っていたところで、そのような体験をかろうじて免れていた。
今思えば、あれは呪いだった。
──あのさ、この社会で恋愛に興味が無いとか、ピンとこないとか、無理だとか言うと、「そんな人間がいると思えない」とか、「まともじゃない」とか、「本当に好きな人に出会ったことがないだけだ」とか、「トラウマで異性に対して忌避感があるのかもしれないからカウンセリングに行ってみたら」とか、「自分磨きをしない言い訳だ」とか、「誰にも選ばれない自分を受け入れられないだけだ」とか、「理想が高すぎるんだ」とか、「人間として未熟だ」とか、「もっと明るい服を着てちゃんとメイクをしなさい」とか、「そんな人生になんの意味があるの」とか、「そう思い込んでいるだけで、頑張れば大丈夫だよ」とか、「私の言うとおりにしないと後で後悔する」とか、「おまえは愛情のない心が冷たい人間だ」とか、「自分が特別だと思ってるんだろ」とか、好き勝手に踏み込まれてジャッジされて説教されて、本当に酷い目に遭うんだよね。
私は誰にも何かを要求していない。「恋愛をしない私がもっとも正しい」とか、「恋愛なんてばかげてるから私に恋愛の話をするな」とか、ましてや「恋愛しない私を褒め称えろ」などとは一言もいってない。ただ、私なりにふつうにしていただけである。それなのに、人びとはただふつうにしているだけの私を大慌てで否定し、顔をしかめ、なんらかの欠陥を見出し、ときに同情したような顔で「なんとかしよう」としてくれる。そういうことがいくらでもあった。学校で、バイト先で、家庭で、職場で、飲み会で、数え切れないくらいあった。そういうことについて私は何の配慮もなしに彼女に話してしまった。
彼女はびっくりしていた。「私は幸いなことにまだそういうことを体験してないけど、のいさんは本当にいろいろ大変だったんだね。怖いね」と不安そうに言っていた。
あれは呪いだった。『そばかす』を見て、それに気づいてしまった。私はグルグル回りながら自分の本棚とかテレビ台とかのことはよく見ていたが、電話の向こう、新幹線の距離にいる大切な女友達のことは、何一つ見えていなかった。
先に述べたように、現在の私は『この世で恋愛をしない人間が遭遇する不都合な出来事』の大半を既に通過し、かといってアセクシャルやアロマンティックを自認することもなく、恋愛をしたいともしたくないともできるともできないとも何も思わない、そうやって性的指向を自認する行為そのものをブン投げたおかげで、かなりニュートラルな場所に泳ぎ着いた。手のひらサイズの金属の板とか目の前の金属の箱のおかげで、私みたいな人間が世界中にありふれていることも、さらにはそれが欠陥でも疾患でも何でもないことをもとうに知っているので、もはや悲しんだり困ったりすることもなくなった。『それ』がなくても私の内的世界は美しく完璧なのだと、長い葛藤を経てようやく心から思えるようになった。
でも、ここに来るまで本当にきつかった。“ふつうに”恋愛できたらどんなにラクだろうかと何度も思った。そういう感じの人たちがいるということは少しずつ知られるようになり、『理解』が広まってきた感はあるものの、ようやく出てきたフィクション内のアセクシャルは無表情の不思議ちゃんばっかりだし、「どこかが欠けている私たち」みたいな書かれ方を見るたびに怒りでどうにかなるかと思った。
私は、今この社会に生きている私と似た感じの人たちや、今後生まれてくる人たち、まだはっきり自覚してないけどもしかして自分ってそうなんじゃないかと薄々思っている人たちに、絶対に、私と同じ目に遭って欲しくない。
私の、あのたったひとりの自カプのフォロワー、一体そんなんどこで見つけてくるんだと言いたくなるような訳わかんない変なLINEスタンプを山ほど持っていたり、家に泊めてくれたお礼にと木箱に入ったかなり豪華な柿の葉寿司をクール便で送ってきてくれたり、久しぶりに会う約束をしたら向かう途中で交通事故に遭って救急車で運ばれたけど結局どこも怪我してなくて3時間くらい遅れて半泣きのフニャフニャの顔で現れたりする可愛いやつが今後、『そんな感じ』であることで悩んだり苦しんだり心が凍り付くような経験をするなんて、絶対絶対絶対に、あってはならない。
『そばかす』のラストシーンで、主人公と同じようなタイプの人間であることが示唆されるキャラクターが、こんなことを言う。
『なんか、嬉しかったです/おんなじこと考えてる人いるんだなあって/おんなじような人がいてどっかで生きてるんなら/それでいいやって思えました』
私だったら、こんなに健気で可愛いことは絶対に言わない。異物扱いされて、否定されて、一方的に説教されて、勇気を出して言い返したところで絶望的な溝がどうしても埋まらなくて何も状況が変わらないとしても、『おんなじような人がどっかで生きてるならそれでいいや』なんてそんなふうには一生思えない。
ふざけるなと言いたい。
たとえ『お話』の中だろうと、私に似た感じの人間にそんなことを言わせるな。
私に、私の友人に、私の後輩に、これから生まれる私に似た感じの人たちに、『それでいいや』を押しつけるな。理不尽の中に取り残された状態を爽やかな笑顔で受容させるな。『それでも強く生きていく』みたいな感じにうまいことまとめるな。全然よくない。全然、よくないんだよ。よくないって、言わせてくれよ。
もしこれを読んでいる人の中に、世界のどっかで生きている、私と似たようなことを考えている人がいたら、私があなたに言いたいことは、私はあなたがどっかで生きているだけでは全然満足しなくて、あなたが毎日好きな人や好きなことに囲まれていて、時々仕事でミスしたり車に轢かれたりしてもおいしいお寿司食べたら忘れちゃったりしながら、誰からも踏みにじられることなく健やかに生きていて欲しい、そういう当たり前の幸福が何の苦労もなくあなたに降り注いでほしいと本気で思っているということである。
恋愛する人も、しない人も、セックスする人も、しない人も、みんな等しく気持ちよくほっとかれてほしい。そこにはそれぞれの人生と選択があるだけで優劣なんかない。それぞれの小さくも祈りの込められた選択が、叩き潰されることなく、自由に枝葉を伸ばせるような、そういう広く豊かな土壌の上に数限りなくあるといい。本当にそう思う。
そして私の友人には、あの日、何のフォローもなくあんな話をしたことを謝りたい。あのとき私は、自分が経験したことを話した後に、「でも、あなたも私も、こんなことを経験するに値しない」ということをはっきり言うべきだった。ただ怖くて不安な思いをさせただけになってしまったことを後悔している。次に会った時、今度は私が東京で一番うまいと思っている寿司屋に連れていくし、今いるジャンルの話を地球が滅びるまで聞いてあげるので許して欲しい。そして、私はあなたのことが大好きなので、どうか、これからも私に訳のわからない変なLINEスタンプをいきなり送ってきて欲しい。
※1 完全に蛇足なので以下は読み飛ばしてもらって構わないが、じゃあいったいどういうフィクションなら訳がわかるしおまえにとって都合がいいのか、と疑問に思われた方のために私が好きな感じの話の例を挙げておく。例えば吉本ばななの『キッチン』の続編である『満月――キッチン2』。主人公のみかげが出張先でテキトーに入った店で食べたカツ丼がおいしすぎて、これをかつての同居人である雄一にどうしても食べさせたくて、タクシーに乗って雄一に会いに行くシーン。『キッチン』でも『キッチン2』でも二人の間に恋愛感情は生まれないし、最終的に二人が惹かれ合うわけでもない(もしかしたらセックスくらいはしたかもしれない)。それでも「うまいカツ丼を食べさせたい」という思いひとつで尋常でない行動力を発揮するみかげは愛おしいし、真夜中の道路をホカホカのカツ丼とみかげを乗せたタクシーが駆けていく情景はとても美しい。ここでもし、みかげが「私はやっぱり雄一のことが好き。これからは隣でいっしょにカツ丼が食べたい」とか言い出したら全てが台無しだった。ただ彼にうまいカツ丼を食わせたいという気持ちひとつが暗く静かな伊豆の夜に光っているのがとにかくいいのだ。あとは映画だと『once ダブリンの街角で』とか『ガタカ』、舞台では『The Curious Incident of the Dog in the Night-Time』や『NEXT TO NORMAL』、マンガなら『ファンタジウム』や『LIMBO THE KING』みたいな話が好き。