on my own

話し相手は自分だよ

観劇オタクが少女☆歌劇レヴュースタァライトを観た感想

この私が話しかけてるってのに上司がキーボードカタカタしたまま顔を上げず応対するのにムカついたので仕事サボって海の見えるホテルのラウンジに来てPC広げていかにも仕事してますみたいな顔しながらこの文章を書いています。のいです。ミュージカル歌舞伎ストプレ2.5わりと何でも観る人です。スタァライトされてきたので感想を書こうと思います。蘊蓄のある考察などはなく思ったことをダラダラ話します。アニメの話と劇場版の話がごっちゃです。


そもそもスタァライトは昨年夏にフォロワーさんにお薦め頂いてアニメ1話だけ視聴し、そのときは「すげー出席番号言うアニメだな」という印象だったのですが、観劇オタクとしては舞台が見たいところだな~~延期か~~と思いながらそのままになっていたので、良い機会だと思って劇場版を見に行き、その流れでアニメ全話視聴→ロンド・ロンド・ロンド視聴で今に至ります。舞台版はYoutubeに上がっている公式のものしか見てないんだけど歌、うまいな……。7月に公演あるのか~と思って調べたらシステムが普段観ている舞台と違いすぎて「文化が違う!」とエウメネス顔になりチケットは手に入らぬままです。F5さえ押せれば赤ちゃんでも最前列が取れる四季は優しかったんだな、というのを改めて噛み締めた。
ちなみに中の人で存じ上げていたのは三森すずこさんと富田麻帆さんくらい。富田さんは『プロパガンダコクピット』ですごくお歌が上手で可愛かったのでよく覚えてる。その時のツイートこれ↓ パガンダ ダッパダッパ…



まずスタァライト独特のあの概念のシャワーとでも言えばいいのか、良く分からない精神世界についてですが、アニメ1話視聴したときから「このサステナブルな訳のわからなさ初めてじゃないぞ」とは感じており、多分それ『さらざんまい』じゃないかな? と思ってたら監督同士が師弟関係? にある? とのことであながち筋違いでもなさそうです。
(「さらざんまい」もフォロワーさんにお薦めされて視聴済→感想はこちら)
525600.hatenablog.jp


というわけでけっこう序盤に「あ、これは訳がわかる瞬間がなかなか来ないか最後まで来ないまま進むやつだな」という心の準備ができたのでフラストレーションを溜めることなく楽しめたと思います。劇場版を見終わってTwitter開いてまず呟いたのは「脳に直接叩き込まれるうま味成分みたいな映画見た」。


「少女歌劇レヴュースタァライト」というタイトルだけ聞いて思ったのは「『かげきしょうじょ!』みたいなやつかな?(←全巻履修済)」ということだったのですが全然違いましたね。でも実際、制作側も「舞台俳優になるためのリアルな苦しみや舞台そのもののキラめきは『かげきしょうじょ!』にやってもらえばいいからウチは『舞台少女』のキラめきを脳に叩き込むぞ!!」って思って作ってたんじゃないでしょうか。そんなことないか。
この作品の主題はあくまで「舞台少女」であって「舞台」じゃないんですよね。文字通り「舞台」は「舞台」でしかない。だから舞台少女たちのそれぞれ抱える夢や苦悩って「大好きな友達といっしょに夢を叶えたい」とか「どうやっても二番手にしかなれない」とか「誰かを追いかけてばかりで自分の目標がない」とか割と普遍的というか、テーマが舞台じゃなくてもいいようなものばかりだなって思う。だからこそ多くの人に響くし、あの精神世界を背景にした魂の大立ち回りに映えるんだと思うので、大成功ではあるはずなんですが。私、「舞台少女の死」とか「舞台の果て」とか言われたとき(←うろ覚え)てっきり「えっ、女性劇団員がしばらく週間予定キャストのページで名前見ないなと思ってたら寿退団して子ども産んでて二度と舞台に戻ってこないままSNSに子どもの写真upするみたいなコト…!?」とか「出演者が逮捕されて最初から無かったことになった舞台の円盤の話……!?」とか思っちゃった。寿退団はもちろん本人の選択だから祝福したいとは思うけどファンとしてはつらいんだよな……逮捕は……論外ですが……。


あとね、共感するポイント絶対ソコジャナイと思うんだけど、バナナちゃんの「脚本や演出が洗練されてキャストも変わって舞台が進化していっても初演が忘れられない」っていう気持ち わ か り ま す。同じ舞台は二度とないんだけど、あの日、あの席から、あの角度から、この目でこのお芝居を観たのって私だけで、それはもう私の記憶の中にしかなくて、何物も"それ"を超えてこない、二度と戻らないが故に記憶の隅で光を放ち続ける舞台って私にもあるあるなので、バナナちゃんがエンドレスナインティナインする気持ち痛いほど分かる~~~って感じだった。「新キャスト楽しみだね~」って言う友達に「そうだね」って言いながら「私にとっての(役名)は(役者)だけだもん!!!」って心の中だけで暴れる私と、「新しいスタァライト楽しみだね~」って言う純那ちゃんに渋い顔するバナナが完全にオーバーラップしてた。とは言え、役者と役名が完全に紐づいてしまって(役名)と言えば(役者)さん! と言われる演目ってむしろ不幸だなと理性では思っている(そういう演目いっぱいあるよね~勿体ないね)。話は逸れるけど先日、浅利事務所プロデュースの『夢から醒めた夢』を観て、かつてマコ役だった野村玲子様がマコのママ役をされているのを見て、そうやって世代交代しながら長く演じ続けられる舞台ってやっぱり素晴らしいな、私もおばあちゃんになってもこの演目を観たいなって思いました。華恋ちゃんとひかりちゃんはおばあちゃんになってもスタァライトするんだろうか。それはもう「舞台少女」じゃなくて「舞台ばあちゃん」だな……舞台ばあちゃんのスタァライトちょっと、いやわりと本気で観たい。


なぜ華恋がオーディションに飛び入りし、バナナちゃんの連勝がストップしたか。サラッと通して見ただけの私の浅い考察では多分「キリンが飽きたんじゃ?」というところかと思うのですがどうでしょう。私たちオタは同じ演目を繰り返し見て「今度こそ大丈夫なんじゃないかと思っていたけどやっぱりラストで〇〇が死んだ」とか訳の分からないことを結構本気で悲しんだりしますが、そういうことではなく、まったく同じ、結末の見え透いたレヴューとその末のまったく同じスタァライト公演に、キリンはもう飽き飽きしていたんだと思う。キリンは第四の壁を打ち破って"客席"に干渉できる唯一無二のトリックスターで、同時に"観客"のメタファーでもあるのなら、発展の見込みもなくどん詰まりの舞台を観続けたいと思わないはず。舞台少女たちはしきりに自分たちを欲深いだの罪深いなどと言いますが正直なところね、観客であるキリンと我々のほうがよっぽど罪深いよ……観客は金を払っただけでどこまでも傲慢になれるし、私なんか2.5のイケメンばっかりワチャワチャ出てくる系の舞台を観るたびに「ああ~~~私はこの男の子たちの人生の時間でもっとも身体機能が高く若く溌溂とした瞬間を金で買っている~~~~」って苦悩してるよ。どうでもいいですね。
ところでオーディションで勝ち残ったら他の舞台少女のキラめきを奪ってトップスタァとして君臨できる(そしてバナナやアニメ終盤のひかりはそれを拒否した)って解釈で合ってますか? 舞台はスターだけで出来てないんだから、ロンドン留学中のひかりちゃんがもぬけの殻になっちゃったみたいに他のキャストに悪い影響があるんだったら舞台が成り立たないだろうが!! いい迷惑だわ!! これだからスターシステムとは相容れないんだよ!!(???) ときわめて個人的な憤りを感じた次第です。


役者さんってよく「今日も(演目)の世界を生きることができて幸せです」「残りの日程も全力で(役名)として生きます」みたいな言い方をするんだよね。舞台の上で彼らは演目の世界を、割り当てられた役を生きている。毎公演毎公演、生き直している。役者というのは百万回生きた猫とタメ張れるくらいに生き死にを繰り返す存在で、そのどれも一つとして同じものはない。そういう意味でも舞台は何度でも繰り返され新しくなっていくものだし、99期生はいつまでもループしているわけにもいかないし、だから「アタシ、再生産」は舞台少女たちが変身バンクに突入できる魔法の言葉たりうるのだと思う……んだけど、ごめんなさい、「アタシ、再演」ではダメだったのか? と無粋なことを考えてしまいました。「再生産」って言葉、どうしても経済学とか、「教育格差の再生産」みたいな使い方のイメージが強いのであのロゴが出てくるたび違和感があり……。もちろん語呂とか字面とかの問題もあるんだろうけどね。
それはともかく今回の劇場版の、「舞台に生かされている」彼女たちが訳の分からない精神世界で歌って踊って奪い合いながら深めているのが「卒業後の進路どうするか」という非常にパーソナルでいっそ微笑ましい(当人たちは今後のキャリアがかかっているので真剣ではあるんだけど)トピックであることにちょっとホッとしちゃったよね。舞台の上でなんにでもなれるはずの彼女たちが現実世界で自分の望んだ何者かになるべく藻掻いている様子は痛ましいけどキラめいている。
また四季の話をしちゃうんだけど、キャストを囲んだオフステージトークイベントでファンからの「どうしてそんなにつらい稽古でも乗り越えることができるんですか、努力を続けられるコツは」という質問を聞いた俳優たちが一様に首をひねって「ツライ……ドリョク……???」みたいな反応をしたことがすごく印象深かった。「大変だけどべつにつらいとかではない、それが仕事だから」ってサラッと言う。私たち消費者はついつい「血を吐き涙を流し、眠れぬ夜を超えて、やっと辿り着いたこの場所……」みたいなストーリーを求めてしまうけど、そりゃ舞台俳優としてそれだけで食べていけるのはほんの一握りだしものすごい努力や精神力が求められるのも確かだけど、彼らにとってはそれが、舞台に立つこととそのために練習することがすごく自然で違和感のない行為だっていうことで、あの舞台少女たちにとっても舞台の上が一番自分らしく嘘をつかずにいられる場所だったらいいなと思いました。「女の子としての普通の幸せを諦めて……」みたいなセリフあったけど、そんな誰かが決めた"女の子として"の "普通" の幸せなんかしゃらくせえと蹴散らして、舞台の上でアドレナリン全開で汗だくで生きるのが一番幸せな彼女たちであってほしい。シリアスな演目のあとカテコで手を振りながら目は全然笑ってない憑依型の役者であってほしい(それは只のテメーの好みだろ)。


収拾つかなくなってきたので最後に特に好きだったうま味成分の話をすると香子ちゃんと双葉ちゃんがすごくよかったです。私、ニコイチ仲良しが円満に道を違える展開、三度の飯より好き!! 香子ちゃんが双葉ちゃんにどっぷり依存してるように見えて、香子ちゃんがいないと歩く道すら分からなくなってしまいかねない双葉ちゃんのほうが実は危うくて、そこを自覚して「もう追いかけるだけは嫌だ」と覚醒する流れメッチャ熱かった。Defying GravityだしFor Goodだった。香子ちゃんの「うちには友達がぎょうさんいてはったわ。やけど、大切なんは双葉はん、あんただけ……(嘘すぎ京ことば)」って幻聴が聞こえた。
華恋ちゃんひかりちゃん、真矢ちゃんクロちゃん、バナナちゃん純那ちゃんもみんな結局違う場所で挑戦を続けることになったし、ニコイチ推すだけ推しておいて最後そうやって案外バッサリ引き離すところ潔くて良いな~と思いました。gleeのレイチェルの最終目標がブロードウェイスターだったように、かれひかも最終的にはブロードウェイで共演することを夢みたりするんだろうか。その頃にはもっと多くのアジア系俳優にチャンスが開かれてるといいね……などとしんみりしてしまったわ。香子ちゃんと双葉ちゃんのことは新感線とかで見てみたいです。四季で一番活躍の場があるのはバナナちゃんみたいな笑顔が可愛いオールラウンダーかもしれないね。ななベル、ななアリエル、ななソフィ、ななクリス、ななジェリーロラム、全部見たい。

前回公演の配信があるみたいなのでそれ見たらまた感想書くかな~という感じです。

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妄想キャスティングめっちゃ楽しかった~~~~
「メジャーどころ……メジャーどころ……」と暗示をかけながら書いたのでもしスタァライトファンの人で検索とかから来てくれた人いたらミュージカルも見てみてネ……

【それわた#2】抱擁するシスターフッド

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初めに

この文章は、私・noiと愛すべき友人たほさんが3時間ほどツイキャスで楽しくおしゃべりした内容を読み物として楽しめるよう書き起こし・編集したものです。突然、日本の貧困の話から始まります。


Deep Love ~ノイの物語~


のい: 本当に私、おんなじ話を壊れたRadioみたいに繰り返してるんですけど。日本人は本当に一億総セルフネグレクト状態にあると思うんですよ。理不尽なことがあっても、自分たちがそれ以上を望んでいいとそもそも思わないので。みんなに「あなたたちはもっと多くを望んでいいんだよ、声を上げていいんだよ」って言っても、「そうだよね、手取り30万あっていいよね」みたいなことをいう人は徐々に増えてきているとはいえ、「高望みじゃないの」とか「最低賃金しかもらえない仕事しかできないのは努力不足だからだ」とか言われるわけじゃないですか。なんかそういう、日本人の気質? 体質? ってもうあれかな、コロナワクチンを打つとDNAが書き変わると言いますけど、もう、書き換えてくれよ!!! って思うんだよね。

たほ: のいちゃんの話すごいよく分かるんだけど、私ってどっちかって言うと、「そんだけしか給料もらえないなら転職しなよ」って言っちゃうタイプ、になりかねない。

のい: ほげー。

たほ: 私自身が転職して年収がものすごく上がったっていう体験に基づいちゃってるのが悪いんだけど。私の知り合いに、顔を合わせるたびに職場の愚痴を言う人がいるわけよ。同じチームの人がすごい嫌いで、誰も助けてくれなくて、飲み会にも強制的に参加させられて、かといって賃金はすごく安い、みたいなことをそれこそ壊れたRadioみたいに唱え続けるわけ。でもそれももう、一年二年の話じゃなくて、出会った時から話続けてる、かれこれもう五年?

のい: ボクらが生まれてくるずっとずっと前にはもう? 

たほ: アポロ11号は月に行ったって言うのにさ、その子は退職届ひとつ書かずに事務机に鎮座ましましてるわけよ。

のい: ハハハ。うん。

たほ: その話を聞くたびにさ、もう辞めたら? しか出てこないわけ。まだ20代で転職のチャンスはいくらでもあるしさ。資格も持ってないっていうけど…

のい: 取れや、ってなるね。

たほ: そうそう、身体がすごく悪くて働けないとかでもないわけだし、そこまで言うなら転職しろよって思っちゃうんだけど、でもそういう人って「自分にはできない」っていう理由を探し続けてるように見える。

のい: はいはい。よくわかる。

たほ: なんか家の更新があるからとか。身内が結婚するからとか。だから何? って思うけど、本人にとっては一大事なんだろうね。それで、その人にちょっと貸したお金が返ってこなかったりすると、すごく嫌~な気分になる。なんなんコイツ、って思っちゃう。そういうときに、私の中のいじわるな気持ちがふつふつと湧いてきて、その子の背景を何も知らないくせに、なにも努力しないくせにコイツ、って気分になっちゃう。

のい: ずっと文句言う割に、何も変えようとしない、と。

たほ: すごい腹が立っちゃう。絶対その子には悟られないようにするけど。

のい: 私の友達にもまったく同じような子が何人かいて。紀元前から同じ職場の悪口を言ってるんだけど。

たほ: すごいじゃん。

のい: かといって、転職に向けて動き出すわけでもなければ自己研鑽をするでもない、でも毎日毎日もうヤダしんどいって言いながら同じ職場に通い続ける。私も確かに「じゃあなんとかしろや」ってイライラするんだけど、なんでしょうね。それも、あの、もう伝家の宝刀みたいになってるけど、セルフネグレクトだと思うんだよね。「私はもっといい生活をするに値しない」みたいな。

たほ: 愚痴を言うことで何とか彼らなりに現状に満足しちゃってる部分もあるのかな。三食食べれてるし、みたいな。

のい: そういうところで保てているから、引っ掛かり続けてはいる。

たほ: う~ん。

のい: でもなんか、そもそもなんでそんな苦しい思いをしながら働き続けなきゃいけないんだって話なんだよね。苦しくてつらい思いをすることに意味があるみたいな風潮だけど、それは価値や利益を生む過程で生まれるものであって、リターンとしての喜びや賃金を得てやっと意味があるかもしれないものじゃない。なのになんか、苦しいことそのものに意味があるような風潮だから、日本人の生産性が下がっていく。結局日本人のDNAを書き換えろっていう話になってきちゃうんだよ~。どうしよ~。

たほ: その話はもう……私にはちょっと対応しきれないけれど。

のい: あっ、投げられた!

たほ: 投げられたボールが熱すぎてアチチ! ってなっちゃった。

のい: 私はその、文句言い続けてつらいつらいヤダヤダって言ってる子たちに、毎日楽しく暮らしてほしいんだよ。もはや、彼女たち自身よりも私のほうが彼女たちに楽しく生きてほしいって思ってるくらい、強い想いを抱いている。Deep Love

たほ: Deep Love。キショいな~。

のい: Deep Love ~ノイの物語~。

たほ: それ「アユの物語」のオマージュ? 横書きの書籍の存在を思い出してしまった。私はそこまでDeep Loveを持って彼女たちに接してないな~。もう少し冷ややかな感じ。深い愛を感じるのいちゃんは偉い。

のい: それはまあ、友達だからさ。関係ない人には別に……でも、本当に、日本は貧しいなと思うから、みんなに幸せになってほしいですけど。


私、パパ活女子! こっちは巨万の富


たほ: 私、パパ活してる女を銀座で見かけると、本当にわかるんだよね。本人はお父さん連れてるつもりなのかも知れないけど、おまえ、バレてるよって。それでも本当に生活維持するためにやってるかもしれないしね。

のい: まあでも、買う男がいるから成り立つわけで。

たほ: それもそうだけど、私、絶対にSNSも悪いと思う。アフィリエイトで稼いで整形とかしてる自分と歳変わらない女子が巨万の富を見せつけてくるわけじゃん。で、私さいきん、洋服の整理をしててね、メルカリで服を売ってると、本当に飛ぶように売れるわけ。それを見てて思うのは、この程度の服が定価で買えない子もメチャメチャいるんだろうなと思って。

のい: そらそうよ。

たほ: 自分は何の気なしに買って気に入らなくて少しでも取り戻そうと売っただけの服なのに、それが15分とかで売れて「こんなに安く買えてうれしいです」みたいなメッセージが来ちゃうと、キィー! ってなっちゃうわけ。

のい: それはさ、たほさんなりのDeep Loveだったりしないんですか。

たほ: Deep Loveなのかな?

のい: その「キィー!」はさ、何から来てるの。

たほ: だからそれは、健気だなって思う気持ちと同時に、パパ活する女の子の気持ち、パパ活が生まれる理由がよく分かる気がする。買う男と繋がるのもSNSだし、女が巨万の富を見せつけてくるのもSNSだし。SNSを規制しろって思う。何て言うのかなあ、そういう発信する側に疑問を抱くようになった、最近。

のい: はあー。豊かな生活してまーす、みたいな。

たほ: ブランド品買ってもらいましたとか、高級そうなご飯アップして「ごちそうさまでした」とか。自分のタニマチを……タニマチ? パトロン

のい: 突然の相撲用語。

たほ: まあ、タニマチを抱えてる素振りとか、何でそういうことするんだろうって思う。

のい: その華やかさの裏にすっごいリスクを抱えてるわけだしね。

たほ: 20代の女が自分の責任でやってるなら結構だけど、高校卒業して間もない子とか、家庭環境に問題があって満足にお小遣いもらってない子とかに見せちゃうとさ、パパ活しちゃいますよ、身体くらい差し出しちゃいますよ、ってなるんだよね。それって危ないし、あなたがその程度のものだと見下げられてるってことだよって、誰かが囁いてくれるような環境もないってことが露骨にパパ活アカウントから見えるんだよね。なんか、すげーもん見ちゃった、ってなる。そういう子たちが変に妊娠とかしちゃったりしないか、本当に心配。

のい: Loveじゃん。

たほ: Loveだね。そういう子たちに会ったらまず何したいかって言われたら抱きしめたいもん。そして本当に、人に買ってもらったものをSNSに上げて自慢する女が許せない。すごい怒りがある。私に至っては、身近にもそういう女たちがいるわけだけど。

のい: 「至っては」。

たほ: なんか、「私レベルになると」みたいな言い方になっちゃった。

のい: いや、私の周りには「Monsta Xのヨントンが当たった」みたいな女しかいないからさ。

(参考: 脱K-POP初心者!今さら聞けない専門用語のハナシ【後編】)

たほ: こういう話するたびに、のいちゃんの中で「何でたほさんと友達なんだろう」っていう気持ちが膨れ上がっていくんだろうね。

のい: まあ、私がエルファバでたほさんがグリンダだから。偶然同じ部屋になっちゃっただけ。


スーパーいい女歌舞伎セカンド


たほ: 私はシスターフッドの力みたいなものを信じているところがあって。

のい: ほう。

たほ: やっぱさ、あと山田詠美の「いいお姉さん文学」みたいなのを読んで育ったとこあるから。

のい: 読んじゃったよ、も~。読みましたよ。

たほ: あれってさ、いい女の歌舞伎じゃん。山田詠美なんて。

のい: いい女の歌舞伎……!?

たほ: いい女がさ、ドドン! カカン! つって、若い男を一蹴して、大見得を切って、ヨッ! なんとか屋! みたいな。

のい「彼のベッドの上で私のアンクレットが揺れたの」ドドン! カカン! ヨッ! いい女!

たほ: キターッ! 痺れるいい女! バニラエッセンスの香り!

のい: 上品なシルクのシャツ!

たほ: 化粧は赤いリップだけ!

のい: 彼のジーンズの後ろポケットに指を入れて……

たほ: 「あいつ、木綿のでっかいパンツ履いてるくせに」みたいな。

のい: 風葬の教室』ね。

たほ: 山田詠美はやみねかおるは私たちだけ永遠に盛り上がっちゃうからやめよう。

のい: はい。

たほ: そう、私はシスターフッドの力を信じてるから。やっぱ言葉では言い表せないけど、中学生の時とか、女の先輩って信用できる存在だったし、安心して接することができる人だったから。自分が誰かにとってそういう存在になりたいというのはおこがましいけど、そういう年上の女性が年下を引っ張ってくみたいなのは、すごく形として健全だと思うんだよね。やっぱ話しやすいんだよね、母親より若いし、姉でもない、微妙な距離のあこがれる人……必ずしも美人である必要はないんだけど。


遠くの親戚より近くの他人、イタリア人より頼れるお姉さん


たほ: テレビでさ、「人の人相は変わるのか」みたいな話があって。

のい: あ、それマツコのやつ?

たほ: イタリア人に褒められ続けて人相が変わった話よ。あれさあ、見てて思ったんだけど、イタリア人が褒めたより、一緒にイタリア語教室通ってたお姉さんが化粧教えた功績のほうがはるかにデカいと思うんだよね。

(参考: 『50日間で女性の顔は変わるのか!?』絶妙の設定でレギュラー一直線

のい: あー、あれ、なんかさ、同じ番組の中で女の子が葉山の海辺? に住んで。あれもお姉さんが……

たほ: そうそうそう! お姉さんが。あれよ。

のい: あー、あれ、シスターフッドの番組だったのか。

たほ: あれはシスターフッドの番組だったんですよ。

のい: すげえ!

たほ: あんなのさ、男の誉め言葉なんか何の役にも立ってなくて、彼女たちはすごい具体的な道を進んでいったわけじゃん。葉山の子なんかお姉さんに言われて野菜食べるまで至ってたじゃん。

のい: あんなに綺麗な海辺に住んで外にも出ようとしなかったのに、お姉さんと出会った瞬間に見違えるようだったよね。

たほ: そうそう。あれはね、葉山の海も男たちの甘い声も彼女の心を癒さなかったわけですよ。そんなものよりも、お手本になってくれる、安心できるお姉さんよ。だから、私はそのパパ活をしてる子たちに、他人の金でバーキンを買いたいって確固たる意志があるとかじゃなくて、なんとなく他人が羨ましいからパパ活に走るとかだったら、その前に一回私に相談して、みたいな気持ちにはやっぱりなるよね。

のい: レンタルお姉さん」ってどう。けっこうビジネスライクな感じのおねえさん。

たほ: うーん、悪用されそう。借りる側の審査をすごい厳しくしないといけないよね。

のい: それさえクリアしたら、たほさんレンタルしたい女の子いっぱいいると思うよ。

たほ: えー、いるかなあ。

のい: おもしれー女だからさ。何しろ「はてなブックマークおもしろランキング月間一位」の女ですよ。

(参考: 女友達の新しい彼氏との馴れ初めを聞きに行ったら死ぬほど文学だったから文学書きました

たほ: 名実ともにね。すごいよね。
私はテニプリの夢小説で性教育を受けたろくでもない女だから。私のおべんちゃらなんてねという感じだけど。

のい: それは……深刻な……


ここに3人のお姉さんがおるじゃろ?


たほ: 同人界隈で繋がった女性同士が一生ものの友達になることってあるけど、それも歳の違う女性同士がすごい自然につながるきっかけになったりするわけだし、私とのいちゃんも同い年ではないわけじゃん。そういうのすごくいいと思うから……やっぱり、「レンタルお姉さん」、いいのかなあ。

のい: でもさ、お姉さん側の資質も問われるから、何か研修をちゃんと受けて認定資格を取った……

たほ: プロのお姉さん。

のい: 意味が違ってくる!!!
ダメだ、「おねえさん」という言葉が現代日本社会ではエロい響きになってしまうから、なんだ、「シスター」? 「プロのシスター」もなんかダメだな。

たほ: 囲碁棋士みたいに下にプロつけよう。「のいプロ」「たほプロ」みたいな。ハンネだからあれだけど、ふつうに名字+プロならサマになるよ。

のい: サマになるかあ?
いや、でも身近なおねえさんなんだから、むしろプロじゃないほうがいいのでは? プロがいいならカウンセリングに通えばいいんだし、そういうのじゃなくて、ちょっとクラスに嫌な男の子がいたときとか、ちょっとメイクのこと知りたいみたいなときに居てほしいわけでしょ。

たほ: 父子家庭のおうちの女の子が生理がきたらどうするのみたいな。そういうところから支えになれることもあるよね。まあこんなこと既にやってる団体もあるんだろうけど。

のい: LINE相談やってるNPOとかね。なんだろう、特化できるとしたら、女の子専門の、ちょっと年の離れた……

たほ: ただ相談に行く~みたいな感じだと構えちゃうかもしれないから、軽く英会話を習いに行くみたいな名目で、実際の英会話なんて冒頭15分くらいで……

のい: ちょっと待ってそれモルモン教の人が信者集めるときのやり方。

たほ: ヨガ教室でもいいよ。

のい: それはアムウェイだ。
モルモン教でもなければアムウェイでもないことを証明しなきゃいけないよね。

たほ: やっぱ教室系はうさん臭くなるか~。

のい: まあでも、自分の経験だけでものごとを語るのも危険だから、そのへんのバランスはとりたいよね。お姉さんのAIみたいなのあったらいいのかな? お姉さんの集合知的な……

たほ: 何それ、3つのスーパーコンピュータが多数決で決めるみたいな話?

のい: わかんないけど。さまざまなお姉さんたちの経験とか、行動とそれに伴う結果とかを読み込ませて、もっとも理想的なアドバイスをするお姉さんのAI。

たほ: それは「お姉さんのイデア」みたいなのを作ろうとしてるってこと?

のい: それを洞窟の壁に投影して眺める……みたいな……

(参考: 洞窟の比喩 - Wikipedia)

のい: 最終的に禁術を使って理想のお姉さんを作り出す……みたいな話になる前に、でもやっぱり生身のお姉さんがいいんだよね。

たほ: 生身のお姉さんがいいよ。だってAIに化粧教えられたってピンとこないから。

のい: でも黄金比とか使ってすげー良い角度の眉の書き方を教えてくれたりするかもしれないじゃん。

たほ: それはさあ……もう、「お姉さん」なのか?

のい: 『「お姉さん」とは』???
眉の書き方を教えてくれるのは「お姉さん」ではない?

たほ: お姉さんのAI……でもそうだね、確かに一人のお姉さんに偏るのはよくないし、相談する子にもお姉さんを選ぶ権利が必要なわけじゃん。

のい: ああー……「チェンジ」?

たほ: だってそうじゃん! 性に合わないお姉さん来たらメッチャ腹立つじゃん。

のい: ポケモンみたいに三匹のお姉さんから選んだら?

たほ: みずタイプ、くさタイプ、みたいな?

のい: 私、くさタイプ。

たほ: 私きっと炎だよ。普通に。

のい: そうだね、アルファだし。あ、オメガか。

(参考: オメガバース (おめがばーす)とは【ピクシブ百科事典】)

たほ: 私オメガだと思う。

のい: 私は両親アルファのベータ。

たほ: やじゃない? オメガのお姉さんに相談すんの。

のい: 偏見ですよ、それは。

たほ: やだよ、私だったら絶対アルファのお姉さんがいいもん。

のい: 好みもあるでしょ! オメガの子はオメガのお姉さんがいいと思う。

たほ: 違っ……オメガの子はアルファのお姉さんに行っちゃうんだって。

のい: うっせぇわ。

たほ: まあ、ビジネスとしては課題が様々に残るね。

のい: 競合他社が他にいないか調べるね。

たほ: 競合他社があったらさ、潜入したいよね。

のい: どの立場で?

たほ: 女児として。自分より年下のお姉さんに相談することになるかも。

のい: まあ、精神年齢5歳くらいだからちょうどいいな。


書き起こしを終えて・雑感


・ 「スキルを身に着けて転職すれば今よりずっと良い待遇の仕事に就ける」と私たちが思えること自体が、上野祝辞的に言えば「努力の成果ではなく、環境のおかげ」なのかもしれないなと思いました。

・ テニプリの夢小説で性教育を受けたたほさんのことを「深刻」とか言いながら私もTabキー連打して探すタイプのR18のBL小説で性教育を受けたので五十歩百歩、いや余計質が悪いかもしれないと反省しました。そこに穴はない。

・ よく二十歳そこらの(それこそ就活アカとか)若い女の子のTwitterを見て回るのですが、極端なニヒリズム冷笑主義の色の強い、インパクトのあるツイートが何千RTもされて、エコーチェンバー的に共感を集めていく様子に「何とかならんのこれ」という思いを日々抱いています。私も大学時代に同じような考え方のフォロワーに囲まれて「人生なんかクソ」「私なんか一生もてない」「生きる価値なんかない」みたいな思想にずっぽりはまってしまっていた(そしてアカ消ししたとたん「何だったんだアレは」と急に目が覚めた)という経験があり、こういうのって抜け出した後でないと異常性に気づけないものとは思いつつ、何とか、何とかならんのかこういうの、って毎日思ってる。多分これもLoveなのかもしれん……。

・ 元の録画はこちらからお聞きいただけます。「どついたれ本舗との結婚」「池袋から来た20人の移民」「子宮に還りたい願望」などのどうでもいい話が聞きたい方はぜひどうぞ。


のい:

たほ:
ブログ『たほ日記』

就活自殺をしようとした話

大学院に通っていた頃の話。同じ研究科の親しい友人がスピーチコンテストに出場することになった。彼女は優秀な留学生で、コンテストは日本語を学んでいる留学生を対象としたものだった。「変な日本語があったら直してくれる?」と言う彼女からスピーチ原稿のデータをもらい、読んでみると、それは遠い国からひとりで日本に来た彼女が自分の体験談を交えながら『夢を持つこと』の大切さを訴える内容だった。内容はともかくとして、これはたいへんな作業になるぞ、と私は思った。彼女の日本語はとても流暢ではあったが、書き言葉になるとどうしても端々に違和感と、英語表現特有の"強さ"みたいなものが出てしまう。私は、例えば、彼女が「一般的に多くの人は〇〇について××と考えやすいですが、その考え方が間違っているということを私は強く主張します」と書いたことを、「みなさんの中には〇〇と言うと××と考える方も多いかもしれませんね。でも、私の考え方は少し違います」みたいに直す、という作業を一文ごとに行った。長い時間をかけ、何度も音読して文法に破綻がないかを確認し、すべてのセンテンスを訂正し終えたところで「これじゃ完全に別物じゃねーか」ということにようやく思い至って、「全部この通りに変えろという意味ではないからね。この言い回しはいいな、と思ったところだけ採用してね」と付け加えて、彼女にデータを送り返した。


「内容はともかく」と書いたのはなぜかというと、私は彼女がほとんど鬱病になりかけていることを知っていたからだ。彼女は最初に入学した語学学校で、特別日本語がうまいということで凄惨ないじめに遭って、そこでまず心に大きな傷を負っている。そして後に入学した私の通う研究科ではゼミの指導教授から耳を疑うようなパワハラを受け続け、また私生活では国に置いてきた婚約者とうまくいかずに悩んでいた。大量の課題や自分の研究で体を休める暇もなく、たまに横になれても目が冴えてなかなか寝付けず、結局朝までSNSを見てしまうのだと彼女は言った。徹夜明けの彼女の肌から隠しようもなく漂ってくる独特の刺激臭が、何年も経った今でも、まだ鼻の奥に残っているような気がする。
そんなI dreamed a dream状態の彼女がいったいどういう気持ちで『夢を持つことの大切さ』をみんなに説こうとしているのか、私には理解しがたかったが、きっとこのスピーチ大会も「きっとxxxさんなら素晴らしいスピーチをしてくれるだろうから」とか何とか言われて断り切れずに引き受けてしまったのだろう。自分が他人からどう見えているか、どう見せたいか、ということについて、彼女は人一倍敏感だったから。


私はというと、院生として人生二度目の就職活動の真っ最中だった。
そもそも、進学は考えていなかった私がなぜ入院(文系の大学院進学を蔑んだ言い方)を選んだかと言うと、学部生の頃の就職活動で誇張なしに全敗を喫したからだ。私はいちおう有名大学と呼ばれる類のマンモス校に通っていたが、マジのマジで、書類の時点で全部落ちてしまった。そんな私を憐れんだゼミの先生が、大学院ではもっと違う経験ができるかもしれないから、と推薦状を書いてくれた。留学生が多く集まる研究科ということで、キラキラ~国際交流~みたいなのに対する妙な憧れを捨てきれないミーハーな母が学費を支援してくれることにもなった(母は先の鬱病留学生とはちゃっかりLINE友達である)。
「今度こそ最強のESを作ってやる」と意気込んだ私は、大学院では企業受けのよさそうな活動をいろいろやった。海外大学を訪ねて国際交流もしたし、企業インターンもしたし、TOEICスコアもぐんと上がった。そして臨んだ二度目の就活では、驚くほど、するすると書類が通った。しかし今度は面接で落ちる。しかも最終面接で無慈悲に落ちる。なぜか修正液を使ってはいけないことになっているエントリーシートのデカすぎる枠を必死で埋めて、かしこい奴らはチームで受験するというWebテストをかい潜り、企業のホームページを隅々まで読んで、靴擦れを作りながら何度も面接に呼ばれて、笑顔を作ってへこへことお辞儀をして、最後の最後に落とされるのだ。
精神的に限界が近づいてきていた7月。その日受けた最終面接は、今まで経験した面接とまったく違った。ドアを開けた瞬間に目に飛び込んできた皇居のお堀の、青々とした緑をよく覚えている。役員たちは私に、併願企業とか座右の銘とか、ほとんど意味のないような質問を二、三投げかけてから、私の経歴のどこがいいと思ったか、入社後の私にどんな仕事を任せたいかを微笑みながら語った。15分もかからなかったと思う。私は、やっと解放される、と思って、もう内定をもらったつもりになって、企業を出たその足でコンビニに入ってお菓子を買い込み、東御苑でピクニックをした。内定者にのみ、翌日17時までに電話で連絡があるとのことだった。
そして次の日、17時を過ぎても、携帯は鳴らなかった。
ベッドに突っ伏して、私は「死にたい」とか「消えたい」とかではなく、何故か「もうこれ以上、この体に入っていたくない」と強く思った。今すぐ肉体を脱ぎ捨ててどこか遠いところまで走っていきたい。感じたことがないほどの強い衝動が抑えきれず、いつまでもベッドの上で暴れた。魂が肉体に拒絶反応を起こしているみたいだった。へとへとになるまで暴れまわったところで、もう私はこの社会で生きていくのが無理だということを母に伝えなければ、と謎の冷静さを取り戻し、部屋を出て、リビングにいた母に「希死念慮がすごい、私はちょっともうだめかもしれない」ということを伝えた。母は「死ぬのはとりあえずxxxちゃんのスピーチを聞いてからにしたら」と言った。翌日は例のコンテストの日で、母と私は彼女から関係者として招待を受けていたのだった。


そして迎えたスピーチコンテスト当日、うだるような暑さの中ようやくたどり着いた会場で、友人のスピーチを聞いた私は唖然とした。「いいと思ったところだけ採用して」と言ったはずなのに、彼女は一言一句違わず、私が更正したあとの原稿を朗々と読み上げていた。これって一種の不正というか、これじゃ私ゴーストライターなのでは……と震撼する私と対照的に、彼女のほうは大人数を前にとても落ち着いて、自信に満ち溢れていた。夢を持つことの大切さを滔々と語る彼女は鬱病で、おっさん教授からものすごいアカハラを受けていて、恋人とも婚約破棄寸前だし、部屋はメチャメチャ汚いし服は臭いし、私とお茶するたびに国に帰りたいけどみんなに期待されているから放り出して逃げたりできないと言って泣く、そしてそのスピーチ原稿は私が一晩かけて赤ペンをいれまくった結果別モノになってしまった代物で、その私は昨日さんざん期待させられた上で企業から血も涙もないサイレントお祈りを食らい、もう何もかも嫌になって暴れまくって泣き喚いて目が未だに腫れていて、Googleの検索履歴には「自殺 前準備」「身辺整理」「遺書 法的効力」などのワードがまだ残っているのだ。
何なんだこれは、と私は思った。何なんだ、と、呆然としているうちに、一言一句すべて身に覚えのあるスピーチは終わった。その後もそれぞれに美しい国の衣装をまとった留学生たちが次々とスピーチを披露して、結局、友人が地区大会の最優秀賞に決まり、全国大会へと駒を進めることになった。大きな花束を抱え、ニコニコ笑って偉い人たちと写真を撮る彼女を横目に、私と母は会場を後にした。(ついでに言うと彼女はこのあと全国大会でも優勝してしまった。もう何年も前のことなので、時効だろう。)


この経験から私が得た教訓はない。私は救われてもいないし慰められてもいない。帰り道、私はゲラゲラ笑っていた。就活さえまともにできない自分に愛想が尽き、真剣に社会からドロップアウトすることを考えていた私が、何故か鬱病の留学生から夢を持つことの大切さを説かれ、そしてその原稿はほとんど私が書いたものなのだ。こんなにも意味の分からない、シュールな出来事がほかにあるだろうか。
あまりの暑さに、涼みに入ったマルイで母が帽子を買ってくれた。とりあえずこの帽子が無駄にならないようにこの夏は生きようと思った。見せしめとしてあの権威主義的な部屋の窓から見えたお堀に飛び込んで死ぬ計画も廃案とした。


今だからわかることは、あのとき、私は(そして恐らく友人も)どこまでも"被害者"でしかなかった、ということだ。大企業が入念に作り上げた理不尽で搾取的な新卒採用のシステム、番号をつけられた家畜のように横並びにされて競い合う就活生たち、の、中で藻掻き苦しむしかない被害者。私はいつだって、「どうして私がこんなことをしなきゃいけないんだ」と思っていた。それでも「どうして」の答えはないし、探す意味もないし、「こんなことをしなきゃいけない」のが確定事項である以上、私に逃げ場はなかった。こんなことしたくないのに、こんなのおかしいのに、そうしないといけない、哀れな被害者だった。
狂ったシステムに囚われていたとしても、必ずしも"被害者"になる必要はない、と知ったのは本当に最近のことだ。いくら理不尽だろうが、その構造が社会に強固に根付いている以上、その中でうまく立ち回ってサバイバルすることはどうしても必要になる。その中で耐えきれず脱落していく人もいるだろう。それでも、私たちは全身をその狂気に浸して、構造の一部として取り込まれなくても、完全に諦めなくてもいいのだと、教えてくれた人がいた。それから、その構造が狂っていることに気付いていて、何とか変えようとしている人たちは決して少なくないのだということも。


あのスピーチコンテストの日から今日まで私は、ふらふらニートしてみたり、通訳の真似事をしたり、法的に限りなく黒に近いグレーな会社でオーストラリア人の社長と喧嘩しながら働いたり、年下の現役大学生に交じってインターンしたりと、かなり浮ついた日々を過ごしてきた。
先日、とある会社から採用通知を受け取った。私のこのメチャクチャな経歴でどうして採用されたのか分からないくらいまっとうな会社だ。現役時代の私であれば泣いて喜んでいただろう。それなのに、今日の私は自分でも不思議なくらい落ち着いている。それはおそらく、今の私はもはや"被害者"ではないからだし、勤め先が決まったという出来事それ自体は、私という存在に何ら影響を及ぼさないことをわかっているからだ。


可哀そうな被害者の私を皇居のお堀に投げ捨ててしまった代わりに、今の私には、これからの私がやるべきことがだんだんはっきりと見えてきている。仕事はその手段のひとつでしかないから、そこで評価されなくても、誰かの期待に応えられなくても、泣いて暴れたりする必要なんかない。それにやっと気づけたから、あの友人にも教えてあげたかったのに、久しぶりにFacebookを覗いてみたら友達関係を解除されていた。

背徳を食べよう!お一人様・博多風もつ鍋

私は一人っ子だ。
つまり、バースデーケーキの苺は全部私のものだった。
そんな私でも、人と食事をするときは、特に料理がドカッと大皿で出てくる飲み会などでは、みんなにきちんと料理が行き渡るように気を配らなければならないことは理解している。
正直クソ面倒くさい。面倒くさくない?
お肉取りすぎたかなとか、あの人ピザの生ハムのってないとこ取ってるなとか、周りに気を配りながらも、私このマグロとアボカドのやつ3皿くらい1人でイケるんだけど、などと薄暗いことを考えてしまう。


友人を部屋に呼んでDVDの応援上映会など催す際に、よく博多風もつ鍋で鍋パをするのだが、これも私にとっては苦悩と葛藤の時間だった。
友達と食べる鍋は美味しいし、楽しい。しかし、もつ鍋は私の大好物であり、本当なら鍋に入っているもつは全部私が食べたいし、「締めはラーメンとうどんと雑炊、どれにする~?」なんて気の利いたせりふを吐くこともなくラーメンで強行採決したい。私一人で議席過半数を占領したい。
悶々としながら過ごしていたある日、私の耳に悪魔がそっと囁いた。


「ひとりでもつ鍋、しちゃえばいいじゃん?」


その手があったか───
それから私はもっとも美味しくお一人様もつ鍋を楽しむために、週一でもつ鍋を作って試行錯誤した。さすがに友人が来るときに作る3〜4人分の分量だとちょっと多すぎるので、スープがちょうどいい濃さになり、気持ち悪くならずに食べきれる量を研究した。最近ようやく理想の味に近いレシピにたどり着いたので、ここに公開しようと思う。
ちなみに私は料理の専門家でもなければ勉強したわけでもなく、単に自分がやりやすく作業が簡単なことと、私好みの味になることを目指しているので、こまけぇことは見逃してほしい。


ベースにさせてもらったのはこちらのレシピ。
cookpad.com


これを私好みにお一人様アレンジした分量はこちら。

キャベツ 1/4玉
ニラ 1束
牛小腸(マルチョウ) 200g
乾燥にんにくチップ 適量
白ごま 適量
輪切り唐辛子 適量
【スープ】
水 2カップ
だしパック 1つ
だし昆布 1枚
鶏ガラスープの素 大さじ1
薄口しょうゆ 大さじ2
みりん 大さじ1
はちみつ 小さじ1
チューブにんにく・しょうが 好きなだけ

・たくさん食べられる人ならキャベツは1/2玉入れちゃっていい。春キャベツより普通のみっしりしたキャベツが合う。
・もやしは水っぽくなってしまうので入れない。
・私はしょうがを相当いっぱい入れるがこのへんは好みで。



①「今日、背徳食べよ」と決めた瞬間、鍋に水を入れて、だしパックとだし昆布を浸してしばらく置く。

夜食べるなら、朝もうスープの準備をしちゃう。
だしをしっかり取っておくことで、醤油が少なめでも十分に濃いスープができる。
本当はだしパックまで入れる必要ないと思うんだけどあとで入れ忘れそうだから入れちゃう。


② スープの材料を全部鍋に入れる。
鶏ガラスープで味付けた料理って絶対美味しいからすごいよね。


③ もつの下処理。沸騰した湯(1lくらい)をゆっくり回しかける。
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近所の肉屋で買ってきた新鮮な牛小腸をざるに入れて、熱湯をかける。
店のおじさんは「下処理~? いらないよ水でさっと洗えばそれで」と言っていたが、なんとなく余計な脂が落ちる気がして……
水切りラックをうまく使って、お湯がまっすぐ排水口に流れるようにしている。こうすればシンクが油でべとべとにならず、後片付けが楽。
終わったらしっかり水を切る。


④ もつを鍋に入れて中火にかける。アクが浮いてくるのですくう。

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昆布は沸騰する前に、だしパックは沸騰したら2~3分で取り出す。

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アク取りの様子。ざっと取ったら、あまり火に長くかけすぎるともつがしぼんでしまうので、いったん火を止めて、もつを先ほどのざるに引き上げる。


⑤もつを取り出したスープに野菜を入れて、乾燥にんにくチップ、輪切り唐辛子、白ごまを入れて火にかける。
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適当にカットした野菜をスープに沈めて、その上から乾燥にんにくチップ、輪切り唐辛子、白ごまを思うさまふりかけ、火にかける。
つまり、もうもつには火が通ってるので、これ以上は煮込まず、野菜は野菜だけで煮る。
乾燥にんにくチップを、普通のにんにくのスライスにしてみたこともあるんだけど、ちょっと味がくどかったので私はチップが好みだな。


⑥もつを炙る。
はい、山場です。舞台で言えば一幕のラスト。
使うのは、どのご家庭にも必ずひとつはあるだろう、おなじみのコレ。

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トーチバーナーです。網は近所の何屋なのかよくわからん店で100円くらいで買った。
(普段は写真の奥に見えてる、排水口の上にセットした水切りラックに網を乗せて、油がそのまま排水口に落ちるようにしてるんだけど、「これだけ油が落ちました!」というのをやるために今回はボウルの上で炙った。)
腸壁の部分は炙ると固くなってしまうので、炙る前に箸でひっくり返して、ぽよぽよの脂身の部分が表にくるように揃える。

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しばらく炙るとこうなるので、暫し眺めたり、嗅いだり、つまんでこのまま食べたりする。ふふっ、か~わいい

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これだけ油が落ちました! わかりづらいな。やらなきゃよかった。


⑦もつを鍋に戻し、完成!!
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もつと戯れている間に野菜にもしっかり火が通ったので、もつをコロコロと鍋に放り入れたら完成!!!


もちろん、鍋を全部食べたあとは、好きなように締めてもらったらいい。
私は細麺を入れてラーメンにするのが好きだ。このスープの量で、麺をそのまま入れると水分を吸ってスープがなくなってしまうので、別の鍋で軽く茹でてから改めてスープに入れて煮込みラーメンにする。


というわけで、おうちで一人で簡単に食べられる背徳の作り方でした。
こんなに美味しいもつ鍋、本当は誰にも教えたくないんだけど、楽しいことがめっきり少なくなってしまったこの頃なので、ぜひ、自宅で背徳を存分に味わってほしい。
トーチバーナーを持っていない人はこの令和の世にさすがにいないとは思うんだけど、万が一持っていない人がいたら、宅配ピザに追いチーズして炙ってトロトロお焦げにしたり、自宅で炙りエンガワ塩レモン寿司を作ったりなど楽しみが無限大なので、この機会に買っちゃって損はない。

私はまた眠り、目を逸らし、黙るべきなのか ──ハエのたかるタコスを食べて決意したこと

メキシコを旅して分かったのは、「基本、この国の食べ物にはハエがたかっている」ということだ。裏路地の大衆食堂でも、今ふうの小洒落たオープンカフェでも、旅行者向けのお高いレストランでさえ、ハエとのエンカウントは不可避だった。私は最初こそハエを払おうと努力したが、ものの数分で諦めてしまった。だって、あとからあとから無限に飛んでくるハエをいちいち払っていては食事にならない。私は「このハエは1分前まで犬の糞にたかっていたかもしれない」などと想像することを自らに禁じながら、無我の境地で食事をやりすごしたのだった。衛生観念ポルファボル。

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グアナファトの市場の犬。

場面は変わり、ある秋の日の東京、私はとある企業の中途採用面接を受けていた。知名度は低いが伝統と実績のあるきちんとした企業だった。そこで私は、面接官である中年の男性社員が女性社員のことを一貫して「うちの女の子」と呼んではばからないことに、かなり大きな違和感と反感を抱いた。家で奥さんに「うちの女の子が立て続けに産休入ってさ〜」などと話す分には問題ないとしても、採用面接で、ましてや女性の応募者相手に「うちの女の子」を連発ってどういうことだよ、もし入社したら私もおまえの女の子ズの仲間入りかよキッッッッッショ!!! と、帰宅後にキレたツイートをひととおり投下して、一息ついて、ふと、思った。

『これってもしかして、メキシコのタコス屋で「なんでここのタコスにはハエがたかってるんだ!」とキレるのと同じことだったりするのだろうか?』

ああ、と、何だか急に、いろんなことが腑に落ちたような感じだった。

おそらく、キレ始めた私に向かって、タコス屋の主人はこう言うだろう。
「何を言っているんだ? ハエがたかっていたって、食べても死にはしない。現にここの人はみんなハエのたかったタコスを食べて生活している、今までもずっと。おまえがそんなに騒いだところでハエは根絶されないし、他のお客も気分が悪くなる。黙って食べるか、そんなに嫌なら出ていけよ」

そういうことだ。いちいちハエに怒って、追い払おうとしていては、食事にならない。この国の食事風景にはハエがいるのが当たり前なんだし、むしろそれがこの国らしいと言う人までいる。ハエを介して恐ろしい伝染病がまき散らされているならともかく、たかがハエごときで人は死なない。それなら、あの日の私みたいに、なるべくハエを見ないように、気にしないように、いないものとして、黙って食事をした方がずっと建設的だ。


それはともすれば、インドで「どうして歩いてるだけで物乞いに囲まれなきゃいけないんだ!!」と憤ったり、エチオピアで「ガスも水道もないなんてありえない!!」と気絶したりすることと大差ないのかもしれない。
それでも、日常のどんな隙間にも入り込んでくるハエが、どうしても視界に入ってきてしまって、やり過ごすことができない。

山手線を埋め尽くす車内広告。若くあれ、美しくあれ、そのままのあなたは見苦しい。女は謙虚に華やかに男を立てろ、男は強く逞しく女を守れ。20代はこうしろ、30代でこれはキツい、40代の大人にふさわしい何ちゃら。こんなあなたは価値がない、こんなあなたは恥ずかしい、こんなあなたでは全然足りない。あなた以外の人は問題ないと思っているので問題ない、あなたさえ我慢すればいい、黙って従えばいい。

一匹一匹はとても小さな虫である。彼らは今すぐ私たちを刺し殺したりしないが、確実に、静かに、僅かずつ私たちの精神衛生や生活環境に影響を与えている。しかし、あまりにも小さく、あまりにも多いので、無視して生活する方がラクなのは明らかだ。堪え切れず、「ハエがたかってるものは食べたくない」と声を上げれば、「どうしてそれくらい我慢できないの? 私は平気だよ。生きづらそう、もっと寛容になりなよ」などと言われて口を塞がれる。そうして、黙っていた方が賢明だということを嫌でも学習させられる。

さらに、この社会には、この虫がもとから見えない人も多く存在する。その中には、原因はハッキリしないながら、なんとなく生きづらかったり、なんとなくイヤな気分になることが多かったりする人もいるだろう。そんな人がある日、無数に飛び回る虫が見えるようになったところで、それは私が前のエントリで「寝た子を起こす」と表現したことと同じで、決してその人を救ってくれるとは限らない。本来、内面化された固定観念差別意識から私たちを解放するはずのエンパワメントの力が、「寝た子を起こす=余計なことをする」程度の効力しか持たず、せっかく起きた子に「こんなものが見えてしまうなら眠っていた方がマシだった」と言わせてしまうのがこの社会だ。


それでは私は、タコス屋でキレ散らかすような不毛な行為をやめて、黙ってハエまみれのタコスを食べ続けるべきなんだろうか?

いや、でも。でもやっぱり、食べ物にハエがたかっているのは、おかしいだろ。日本は"一応"、G7の一角を担う先進国なんだから。


たぶん、何の権力も持たない、批評家でも社会活動家でも何でもない一市民としての今の私にできることは、ハエの一匹一匹に腹を立てて、片っ端から潰そうとすることではない。また、ハエを見ないふりしている人に一方的に怒りをぶつけたり、改心させようとやきもきすることでもない。

そうではなくて、一度もっと広く、遠くを見ることだ。どうしてみんな、こんなにたくさんのハエに気がつかないのか。どうして、ハエを潰そうとすると邪魔されるのか。ハエはそもそもどこから沸いてくるのか。せめて、少しでも衛生的な場所で暮らすにはどうしたらいいのか。そう言う私もどこかで誰かの食事の邪魔をしていないか、ハエの湧きやすい環境づくりに加担していないか。そういうことを、できる範囲で真剣に考えたり、それを言葉にしたり、共に生きる人たちと話し合ったりすることなのだと思う。もちろん、時には怒ったり、悲しくなったり、途方に暮れたりしながら。

今日の私たちの当たり前の生活は、ハエなんかよりももっと大きくて凶悪なものをまっすぐ見据え、黙らされても黙らず、時にそれで命を落としてきた人たちの不断の闘争の上に成り立っている。そんな、勲章を受け、TED Talksや国連に招かれスピーチをするようなアクティビストになる必要は全くない(というか無理)にせよ、自分たちの住む場所を少しでも今より良くするためにどうしたらいいのか問い続けること、いま何が議論されているのか知ることを、疎かにしていいはずがない。

そして、私は信じている。私たちには、真摯に声を上げる誰かを不当に黙らせる権利などない代わりに、自ら声を上げる権利があるのだということ。誰かが声を上げても「どうしてそんなことでいちいち騒ぐの?」と冷笑する人だけでは決してなく、「何があったの? 何が問題なの?」と耳を傾けてくれる人はきっといるのだということを。


劇団四季の『キャッツ』をきっかけにブロードウェイ・ミュージカルの虜になったのは大学生の頃だ。夢中で通い詰めた舞台から得られた多くの経験は、私の目を開かせて、私の世界を広げてくれた。特に、NY留学中に観劇した『Kinky Boots』『Matilda』『Fun Home』『The Curious Incident of the dog in the Night Time』、そして今年ようやく見に行けた『Dear Evan Hansen』は、生きづらさや困難さ、弱さを抱えた多くの人をエンパワーする強力なメッセージ性と美しさとを持って、いまも私の心に焼き付いて消えずにいる。

人は誰も、その属性や身体的特徴、文化的バックグラウンドによって差別されない、傷つけられない。すべての人は美しく、その身体や心はその人だけのものだ。私たちは本来、誰を愛しても愛さなくても自由だし、誰にも指図されないし、誰からも貶められない。

そんなメッセージを受け取り、涙を流したりして、劇場を出て、日常である現代日本社会に帰ってくる。そうすると、劇場を出る前と比べて、より多くの、より多種のハエが見えるようになっている。面倒くさい。嫌になる。うんざりだ。でも、同時に、内側にくすぶっていた得体のしれない何かが、私の身体からすっと抜けていき、代わりに温かなエネルギーが満ちていくのを確かに感じる。

そうやって私は今まで、ミュージカルはもちろん、漫画や小説、音楽や絵画、アニメや映画、多くの優れた創作物に触れて、たくさんの豊かなものを受け取ってきた。現実では身を切るようにつらいこともたくさんあったけど、すぐれた表現者たちから道しるべを与えてもらって、何とか今日まで生きてこられた。それなのに、『あるがままの現実を見て、あるべき姿を見ない』ことを良しとしては、私の大好きな作品たちに申し訳が立たない。だからもう、眠らないし、目を逸らさないし、黙らない。これからは、少しずつできる範囲で、ちゃんと自分を守りながら、戦っていきたいと思う。


という、きわめて個人的な決意表明でした。ちなみに、件の面接は、「長く働く気はあるか?」と聞かれたので「女性の管理職の方はいますか?」と聞いたら「いますよ! えーっと、2、3人くらい……」と歯切れ悪く答えられ「ホォー…」と赤井秀一みたいな反応をしてしまったせいか知らないけど落ちたし、メキシコでは無事におなかを壊しました。やっぱり食べ物にハエがたかっているのはおかしいんだよ!!!!!!!! メキシコの歴史的建造物や遺跡、博物館は素晴らしかったので、機会があったらまた行きたいです。タコスはしばらく見たくもない。

When life itself seems lunatic, who knows where madness lies? Perhaps to be too practical is madness. To surrender dreams — this may be madness. To seek treasure where there is only trash. Too much sanity may be madness — and maddest of all: to see life as it is, and not as it should be!” ──ブロードウェイ・ミュージカル ”Man of La Mancha” より

つづ井さんは寝た子を起こしてしまったかもしれない ──地獄は地獄のままでありつづけるという話


【9/15追記しました】

はじめに言いたいことは、つづ井さんのメッセージは、彼女のファン層と影響力を鑑みても、おそろしく真っ当で、健やかで、まさしくこの時代にそぐうものだということだ。つづ井さんのような、感性のやわらかさと絶妙なバランス感覚を併せ持った方から、このようなメッセージが発信されたことをとても嬉しく思うし、彼女の気づきと決意が多くの女オタクの心にまっすぐ届いて、救いとなったことに間違いはない。それでも、きっとどこかに、つづ井さんでさえ救えなかった人、それどころかますます心の闇を深めてしまい、苦しんでいる人がいるのではないかと思い、このエントリを書いている。というか、いま、現在進行形で、私が苦しんでいる。この文章が同じ地獄を見ているどこかの誰かに届くことを願います。


つづ井さんの「メッセージ」、という書き方をしたが、実はつづ井さんは、誰かに何かを語りかけようとしていない。ただ、自分の身に起きたこと、自分の心の中で起きたこと、そこで自分はこうすることにしました、ということを書いているだけで、「みんなこうしようよ」「こうするべきだよ」とは一言もいっていない。私はこれをとても賢明というか、なるほどなぁ~と思ってしまったのだが、結局ここで「独身オタクでも自虐やめようよ」「自分に自信を持つべきだよ」と書いてしまうと、「女は結婚して子供を持つべきだよ」勢とやってることが同じ(つまり、他人に自分と同じあり方を強いる)ということになってしまう。彼女はこれを巧妙に回避している。無自覚なのだろうけれど……。


つづ井さんのnoteを読んで多くの人が感動した。幸せな気持ちを分けて貰えた。これは紛れもない事実だ。しかし私はこれを読んで、「いい文章だなあ、RTしたい!」と感動すると同時に、自分の心の中のゴチャゴチャと片付かず薄暗い片隅で、なにか意地悪な気持ちが蠢くのをはっきりと感じていた。


これを読んだ人たちは、他人からとやかく言われ傷つき疲れた自分を慰めてもらった心地がするだろう。そして、(つづ井さんがそうすることをまったく奨励していないにもかかわらず)、私も自虐をやめて、自分のあり方を肯定しよう! と思うだろう。繰り返すが、もちろんそれは素晴らしいことだ。自分が自分であるだけで、何かが間違っているような気がする状態というのは、あまりに苦しく、悲しい。


しかし、彼女たちはそう時を置かずに気がつくはずだ。自分で自分を否定する日々から脱したところで、そこはともすれば、元いた地獄とそう変わらない、また別の地獄かもしれないということに。


一つめの地獄。"私は"自分のあり方を否定しない。自虐しない。そして他人も貶めない。私はこれでいいんだ! そう決めたところで、"私"のあり方を否定し、貶め、改心させようとしてくる人たちは、いなくならない。それどころか、他人のあり方に口出ししてくる人のウザさが明白になってしまったぶん、今までよりしんどくなってしまう恐れさえある。


ここで隙あらば自分語り。
子持ちの既婚女性に囲まれて仕事をしたことのある私の経験から言うと、「独身で寂しいでしょ」という類の圧力に対し、「私は趣味もあるし友達もいるからぜんぜん寂しくありません、毎日とっても楽しいですよ」と反撃に出るのは、これ以上ない悪手である。それが紛れもない事実であろうと、だ。そんなことを言えば彼女たちは目の色を変えて「この哀れな小娘の考えを改めねば」とますます圧力を掛けてくることになる。


じつは、彼女たちは私に、彼氏や旦那と子をもうけて幸せになってほしいわけではない。本当はただ『自分の人生を肯定してほしい』のだと、気付いたのはその職場に入って半年ほど経った頃のことだった。そこで私は対応を変えた。「ほんっと結婚したいし子どもも欲しいんですけど、なかなか出会いがないんです。良い人いたらマジ紹介してくださいよ~!! イケメンで金持ちのインド人がいいな笑」とかなんとか、そんなふうに返すと、彼女たちは「何よインド人って~! まずはインド美人に負けないメイクを勉強しなさいよ~」とにこにこ笑ってその話題を終わりにしてくれるのだった。


パートタイムとして働く彼女たちは皆、子供や家庭のために、一度自分のキャリアを捨てている。
そんな彼女たちを、既婚子なしの上司は「まともな仕事をしたことのない人たち」と陰で蔑んでいる。
「今夜は娘の好きなホイコーロー作るの」と言いながら退勤処理をし、「快速行っちゃう~」とものすごい勢いで職場を出ていく背中を、どういう気持ちで見送ればいいか分からなかった。


私が言いたいのは、現代日本社会というのは単に独身オタク女性が迫害される社会なのではなく、自分の選んだ人生を自分で肯定できない人のたくさんいる社会ということだ。さらに、自分の人生は本当にこれでよかったのか、確信を持てない人たちは、自分と違う人生を選んだ人を否定することで、自分の人生を肯定しようとする。つまり、私の職場でいうと、パートさんたちは私や上司を「可哀そうな、寂しい人」扱いすることで、そしてキャリアウーマンの上司はパートさんたちを「安易に家庭に入った人」扱いすることで。そしてそれは決して、彼女たち個人の「怠慢」や「努力不足」に100%起因する事態、つまり完全な自己責任ではありえない。
そんな社会において、自分の独身オタクというあり方に胸を張り、「私は幸せです」と言い切れるつづ井さんに対して、反感を抱いたり、彼女を僻んだりする人に向かって、少なくとも"私"は「人の足を引っ張る嫌なやつ」と石を投げることができない。


二つめの地獄。私たちがつづ井さんに心動かされ、今の自分のあり方に確信を抱いたところで、つづ井さんは責任を取ってくれない。


いや、取る必要なんか全然ないよ。ないんだけど、つまり、私の人生の選択の責任を、私以外の誰もとってくれない、というシンプルな事実。シンプルだけど、ときどき忘れそうになる。


私たちには選択肢が与えられている。ことになっている。男を愛するも女も愛するも自由。結婚するもしないも自由。子どもを産むも産まないも自由。


それでも「結婚出産」=「問答無用で良いこと、素晴らしいこと」という価値観は未だ保存されたままでいる。「愛する人といっしょになりたい」「自分の子どもに会ってみたい」という人に結婚や出産のリスクを並べ立て「あなたの人生は本当にそれでいいのか、後悔しないか」と水を差す人は、いなくはないだろうがメチャメチャ嫌われるだろう。しかし、その逆をする人は……言うに及ばず。


そんな社会で、あえて、問答無用で祝福されないほうの人生を選ぶ人、また特に選んだつもりはないが自動的にそうなった人が、果たして、私は自分の人生を後悔しませんと、胸を張って言えるだろうか? 何だかんだで振り切れることができず、悩み続けるのではないだろうか?
選択ができるようになった、素晴らしいことだ。それでも、私たちはみんながみんな、膨大な情報を処理し、自分の状況を冷静に考慮し、誰にも忖度せず、純粋に自分の意志で、最適な行動をとることができるだろうか? 中にはいろんな理由でそれが難しい人がいる。傍目からは決して幸福でない選択をしてしまう人がいる。そんな人たちを、「あなたにも選択肢が与えられていたのに。きちんと考えて行動できなかった、この状況を予測できなかったあなたが悪い」と突き放す社会であるなら、もしかするとそこは単に2Pカラーの地獄ではないか?


つづ井さんのように自分を肯定できない人もいる。つづ井さんのように思い切れず、マッチングアプリをアンスコできない人もいる。もちろん、その人たちにつづ井さんのような人が遠慮・配慮する必要はまったくない。
ただ私は、そんな人たちの葛藤が、意味のない、時代にそぐわない、弱者の思考だと、一蹴される社会であってほしくないと思う。人生に回答編なんて存在しない。日本がとってもポリティカリー・コレクトで、どんな個人の尊厳も守られる天国のような場所になる日はまだまだ来そうにない。私たちの多くは悩み続け、苦しみ続け、また後悔をする、その繰り返しで歳を取っていくのだと思う。もちろん「これは私の選んだ人生で、わたしは私が大好きだ」と言えたらそれ以上うれしいことはない、でも、そう言えないことで、また自分を責めることほど、悲しいこともない。


つづ井さんは辛い思いをしながらも、自分を、自分をかたちづくる全てを誇ることを私たちに教えてくれたし、それは本当に素晴らしいことだ。その点をしつこいくらいに繰り返したうえで、私は、自分のあり方を問い続ける人のことを尊敬する。そして、現在進行形でどじょうの如くもんどりを打って悩み苦しんでいる私自身のことを、今夜くらいは祝福してあげたいと思う。



【9/15 追記】
想像をはるかに超えて多くの方に読んでいただいているようです。ありがとうございます。ちょっと反応を見て回ったら気になる反応がありましたので、言いたいことを言わせてください。

①私はつづ井さんの言うことやこれからすることをひとつも非難しません。つづ井さんのnoteを読んで自虐をやめようとか自分を肯定しようと思った方々についても同じです。このエントリで何をさておいてもまず始めに言ったように、とても素晴らしいと思うし本当にその通りにしていただきたいです。

②私はつづ井さん個人に向けてこれを発信していません。私がつづ井さんに何かを要求していると読み取った方が複数名いましたが、私は私を救うためにこれを書いただけです。
つづ井さんに責任を取れとも、配慮しろとも言ってないし、そういう表現はちゃんとひとつひとつ否定していたはずなんですが、誤解を招いてしまったなら申し訳ありません。以後このようなことが起きないよう対策を講じます。

③こんなことを長々と書く意味が分からない、だから何? 知らんがな、という反応もわりと多くありましたが、あなたには意味ないんでしょうけど私にはあるんです。これも何故かよくわからないんですけど、他人が作ったものが自分のために作られていないことに怒り出してしまう人っているんですよね。not for meという便利な言葉があるので使ってください。

共感を寄せてくださった方も本当に多くいらっしゃって、夕飯を抜いて書いた甲斐があったなあ(夕飯を抜くことは推奨しません)と泣きそうになりました。この記事は、ご指摘にもあったように、何も訴えていないし何も非難していない、何の発展の見込みもないどん詰まりの私のお気持ちです。それでもこんな私のお気持ちに寄り添ってくれる方がこんなにいるなら、きっとすこしずつ、私が「地獄」と呼んだ場所も良くなっていってくれるのではないかと思いました。ありがとう。Let's make the world a better place.

【ひとこと】
ブログにコメントもたくさんいただいています。ありがとうございます。私の文章からなにかを受け取って言葉を尽くしてくださったことにただ感謝です。質問もいくつかいただきましたが、特に私からお返事することはありませんのでご了承ください。

ポリコレ暴走機関車の見た『プロメア』

『プロメア』を観た。具合が悪くなった。

観終わってからも胃のあたりの不快感が消えず、鍵アカウントでぶちぶち小言をこぼしていたところ、フォロワーがこちらのツイートを共有してくれた。

私の不快感の元凶はこの方がきちんと整理して語ってくださっており、これ以上言うべきことは特にないはずなのだが、ただ暴れ狂うだけでは赤ちゃんになってしまうので、「じゃあどうしたらよかったんだよ」というのを頑張って考えてみたいと思う。

まず、上記ツイートの方は

中島かずきさんが「『差別を受ける者との共生』という自分にとってのテーマの集大成」と仰っている

と仰っているが、実際にそういう発言をしたわけではなく、インタビューの中で

差別される者との共存とはなんぞやというテーマも、これまで新感線のほうでずっと書いている話で、そういう意味では集大成

と語っていただけとのことで、以前からそのテーマに関心があって出来たのがコレなんだったらますます絶望が深まるばかりなのだが、とりあえず
『プロメアのコアのテーマ』『差別を受けるものとの共生』(コアは別のところにある)
であるということは念頭に置いて、なるべく落ち着いて話をしていきたい。
もちろんネタバレを多分に含みます。


ガロについて

とにかくバカだということが作中で繰り返し強調される。突き抜けたバカだからこそ突破口になりうることはあるし、理論より気持ちで動くキャラクターは共感を得やすいというのは分かる。それでもちょっとバカすぎやしないだろうか。バカすぎるというか、中身がなさすぎて、物語を強制的に(かつ、見た目良く)動かすための歯車に成り下がってしまっているというか……。
例えばクレイの正体を知るシーン。家が燃えて、おそらく自分以外の家族全員を失ったであろう彼にとってクレイは、唯一無二の精神的支柱だったはずだ。そのクレイが非人道的な人体実験に関与しバーニッシュを苦しめていることを知って、ちょっと洞窟で反省して、即座に勲章を返上しにクレイのもとに向かう。「うなぎが絶滅危惧種だと知ったので反省して今年の土用の丑の日にはうどんを食べようと思う」くらいの軽さだ。すべてを失った世界で唯一信じられる理想を打ち砕かれた人間のとる行動とは思えない。もうちょっと迷いとか、葛藤とか、怒りみたいな、ぐちゃぐちゃした心情を吐露する場面があってしかるべきじゃないだろうか。「テロリスト野郎があんなこと言ってたけど、嘘だよな? 嘘だって言ってくれよ旦那!!」みたいなシーンとか、もしくはリオの言うことを嘘だと決めてかかった結果として自分も人体実験に加担してしまいそこでやっと後悔とともに真実を受け入れるとか、やりようはいくらでもあるはず。そこで初めて、「こんなもの!!」と勲章を投げ捨て、踏みつけ、クレイを睨みつける。熱いじゃん……。

リオについて

ガロに比べればまだキャラクターがはっきりしている。顔がかわいい。あんまり突っ込むところはない。

クレイについて

どう見てもヒトラーであり、彼の思想はどう考えても優生思想であり、バーニッシュを動力源としたエンジンはどう見てもホロコーストである。ナチス式敬礼をしないのが不思議なくらいだ。
彼が悪に心を染めた要因となるようなエピソードは語られない。それはそれで良い、むしろ好ましい。「実は幼いころに自らの炎が原因で両親を亡くし」などと言われても冷めるだけだ(そういう観点から言えば『弱虫ペダル』の御堂筋くんの過去編は残念だった。御堂筋くんには何の理由もなく、何の目的もなく、ただキモくて嫌なやつでいてほしかった)。
一口に悪役と言ってもそのあり方はさまざまで、中には主人公より観客の支持を集めてしまうラブリーチャーミーな敵役もいる。しかしクレイを見ていてもヒトラーだなあ……としか思えないので、とにかく生理的嫌悪がすごい。ムスカのような可愛げもない。……いや、ほとんど存在まるごとネットミームになってしまったムスカと比べてはいけないかもしれない。
しかも、そのヒトラーを殺さず生かす、という選択肢をガロは選ぶ。自分から二度も全てを奪い去った男を、である。たとえば、リオをも凌ぐ炎エネルギーの持ち主であるクレイを煽って煽って限界まで発火させてプロメアにぶつけて相殺させてGOOD BYE、という人柱的な使い方もできたはず(サンド伊達のゼロカロリー理論を参考に)。ガロがとにかく「みんなを救いたい」という思想の持ち主だったことを強調させたいのは分かるが、こいつはどう考えても生き残る資格がない。もしスピンオフやアナザーストーリーがあるならなるべく苦しんだ後に派手に散ってほしい。隅田川の花火みたいに。

(追記: お風呂場でスピッツのα波オルゴールを聞いていたらだんだん頭が冷えてきて、「どう考えても生き残る資格がない」と言ってしまったことを撤回したくなった。たとえどんな極悪人でも"生きる資格"のない人なんていません。クレイ憎しで自分を見失っていました。ただ、フィクション内での表現として、「苦悩しながらも断腸の思いでかつての師を手にかけ、それを背負って生きていく弟子」というのはだいしゅきなのでそういうのが見たかったという素直な気持ちも否定できない。でもプロメアの雰囲気には合わないかな。でもきっちり罪は償ってほしい、相応の報いを受けてほしいので、どうだろう、弱体化したプロメアと一体化して「ぷろめあたん」的なマスコット生物になっちゃうとか……?)

バーニッシュとプロメアについて

というわけで、どう見ても社会的弱者である。自力では何ともしがたい要素で差別を受けており、一部の目立つ過激派のせいで大きくイメージを損ねているという点では、少数民族や異教徒、性的少数者のようでもあるし、社会に"害"をなすお荷物であるという描かれ方からは、身体・精神障害者の暗喩のようにも受け取れる。
ただ「燃やしたいという衝動」については、また別の考え方が可能であって、たとえばこれを『反社会的な思想・信条』のメタファーとすると、「燃やしたいというのはどうしようもなく湧いてくる心の声であり、燃やさないと生きていけないのに、社会的タブーであるがために規制され、罪に問われる」というのは、「君たちは自由ですよ(ただし法律・良識の範囲内でネ)」という国家権力や社会の合意に対するカウンターであるという見方もできる。私の友人には重度のショタコンがおり、18禁の同人誌をひっそりと描くことでその欲望を昇華しているという。好きでショタコンになったわけではないのに、欲望に身を任せた瞬間に犯罪者になってしまう事実が本当につらいと話していた。現実の少年には指一本触れない=誰も傷つけないことをプライドとして日々同人誌を生産し続ける彼女のことを、バーニッシュを見て少し思い出したりした。
しかし、ご存じの通り、彼らの発火能力は最終的に失われてしまう。たとえバーニッシュが社会的弱者をあらわしていても、彼らの炎が反社会的思想をあらわしていても、エルサの氷の力のような二面性を持っていたとしても、はたまた人間のコントロールの及ばない自然災害をあらわしていようが、もうあのラストで全部台無しだ。現実に議論の種となっているイシューを最後どう片付けるか、どう折り合いをつけるのか、と固唾を飲んで見守っていたのがバカみたいだ。
ちょっと長くなりそうなのでラストについては別項で深めたいと思う。

ガロとリオの関係性について

「バーニッシュも飯を食うのか」と、差別どころか人間扱いさえしていなかったガロが、一瞬で「バーニッシュは同じ人間! 苦しめるなんてヒドイ! 俺はみんなを救いたい!」と豹変するのが気に入らない。個人的に気に入らないだけでシナリオ上大きな問題はないです(『グリーンブック』を見た後も同じようなことで騒ぎまくった)。もう少しバーニッシュへの差別意識や嫌悪感を残したままリオと関われなかったのだろうか。バカには保守的で頭の固いバカと、周りの言うことで自分もころころ変わるバカと、いくつかタイプがあるが、ころころタイプのバカだと本当に人間性に厚みがなくなってしまう……代わりに話を進めやすくなる。先ほど「歯車に成り下がっている」と言ったのはガロのこういうところだ。差別意識というのはそんなにクイックルワイパーを使ったみたいに一拭きでお手軽きれいになってしまうものなのだろうか。そう簡単じゃないから、バーニッシュが焼いたというだけでピザが投げ捨てられる世界になってしまったのではないのか。
こいつはただ自分の衝動のために俺の大切な街を燃やし続けたテロリスト、手を貸すのはマジで気に入らねえが、ここは一時休戦だ! と、睨みあうようなシーンがなかったことが残念で仕方がない。なるべく殺さないようにしてるし、何か問題でも? と涼しい顔でテロ行為を正当化するリオのドライさ、キレた魅力を殺してしまっている。相反する二人だからこそ、あの共闘も、キスシーンも光るのではないか。せめて「リオ・デ・ガロン」と「ガロ・デ・リオン」で言い争う場面くらいあったって良かったと思う。頼んでもないのに「リオ・デ・ガロン」って、もう完全降伏に等しくない?

ラストシーンについて

とにかく、発火能力を焼失させるべきでなかった、の一言に尽きる。
「ぼくのかんがえたさいきょうのプロメアのラストシーン」がどういうものかというと、何だかんだで今この瞬間の地球大爆発は防いだものの、バーニッシュたちの衝動は消えてくれなかった。戦いを通して、リオの言う『衝動』について未だ理解も共感もできないが、とにかく自分がリオたちバーニッシュを変えたり、いないことにすることはできないと気付いたガロ。何だかんだで壊滅してしまった街を再建にかかるが、彼はあえて『燃えやすい街』を作り、「いつでも燃やしに来い、俺が全部消してやる」とリオに告げる。リオはバーニッシュたちの集落に帰っていき、彼らは適度に距離を置いてそれぞれの生活を営むが、時折ガロの街を襲撃する。リオとガロの炎バトルは街の人たちにとって一大イベント、最大の娯楽となり、マッドバーニッシュが来るたびに街は大賑わい。いいぞ! 燃やせ! どうせまた建てればいいだけだ! キャー!! リオたゃがうちを燃やしたわ!!! ご褒美~~~!!! 倒れるご婦人。リオくーん!! うちも燃やして~~~!!! ピースくださ~~~い!!! ったく、消すのは俺たちレスキュー隊なんだから、あんまり煽るなよな!! そう言いながらもニヤつきを隠せないガロたちレスキュー隊の面々なのであった……。
えーーーーこっちのほうが絶対熱いじゃん!!!! 中島かずきどうして私に助言を仰がなかったの??? という茶番はさておき、本当に、どうして、あんなラストにしてしまったんだろうという気持ちが消えない。バトルが気持ち良ければそれで良いのだろうか? 私はかっこいい上にシナリオもちゃんとした映画が見たいと思うのだが、かっこよければ整合性は二の次で許されるのか? そのないがしろにされた整合性のせいで作品の品位がガクッと落ちてしまっても、キャラクターがペラペラになっても、話として一貫性がなくても、それでもかっこよければそれでいいの? 本当に?

技術を持つ者の社会的責任について

冒頭で「差別と共生はプロメアのメインテーマではない」ということを確認したのはなぜかというと、「なぜ差別と共生をプロメアのメインテーマにしなかったのか」という憤りがあるからである。男同士のホモソーシャル的友情の勝利なんて掃いて捨てるほどあるテーマなのだから、せっかく「~とはなんぞや」という思索を続けてきたのだったら、なぜそれを作品にして社会に投げかけなかったのか。私はすべての作品がポリコレに丁寧に配慮して、弱い立場の人をエンパワーし、人々が日々生活で抱える難しさに示唆を与えてくれるような、『ブラックパンサー』みたいに社会現象まで巻き起こす大作になるべきだとは微塵も思っていない。思っていないのだが、これだけの素晴らしい画を作るアニメーションの技術力があり、シーンごとにバチバチに嵌まる音楽があり、実力のある役者をそろえておいて、「頭カラッポで楽しめる整合性無視のアクション大作」を作るというのは、あまりにも、あんまりにも勿体ない。「頭カラッポでどっぷり楽しめるシーンもありつつ、きちんとアップデートされた価値観に基づいた社会的メッセージを織り込み、メインターゲットである10代~20代の若者にただ頭カラッポな2時間を過ごさせない」作品を、どうして作れなかったのか。観客も、そんなものは全然ほしくないっていうことなのか。それがなんだか無性に悲しい。

ウルトラハイパー余談・差別と共生について

先日、NHKで「ムスリム社員の働く日本企業で、イスラム教への理解を深めるために交流会が行われた」というニュースが流れていた。この交流会に参加した日本人の社員が、「みんないっしょなんだということがわかりました」と笑顔でコメントしているのを、私はぞっとする思いで聞いた。「みんないっしょ」というのが「みんな同じ人間」という意味なのだとしたら、お前は今までムスリムを何だと思っていたんだという話だし、文字通り「みんないっしょだということがわかった」と言うなら、「いや全然いっしょじゃねーーーだろうが交流会で気絶してたの???」と全力で突っ込みたい。私たちは違う。全然違う。神様も歴史も文化も思考も全然違う。この国の人間は「共生」を考えるとき、何故か「みんないっしょ」にしたがる。「話せばわかりあえる」と思いたがる。だから「自分と違うしわかりあえない」相手に出会うと、排斥(そんな人は最初からいませんでした~)もしくは同化(いっしょになれば嫌われないよ~)の二択しか選択肢がなくなってしまう。「違うままで、お互い深入りせずに、そこにある」という選択肢を、何故かとらない。そんなことをすれば「わかりあおうとしないのは怠慢だ」となる。具体例を挙げれば、「カムアウトしやすい職場を作ろう!」なんていうのはちゃんちゃらおかしい。どうして「ゲイの人もぼくたちといっしょなんだということがわかりました」とマジョリティが納得できる環境をわざわざ整えなければいけないのか。お互いのセクシュアリティに踏み込まなければいいだけの話だ。作るべきなのは「カムアウトする必要のない職場」である(もちろんしたい人はすればいいし、カムアウトした人が不当な扱いを受けないようにしなければならない)。
バーニッシュが能力を失ってしまう描写はあまりにも「日本的」だった。そうやってアイヌ民族琉球民族も在日外国人も移民も難民も「みんないっしょ」もしくは「そんな奴らはいなかった」という扱いを受けてはずなのだから、もう令和なんだからそんなものは打ち破ってほしかった。全然違う私たちが全然違うままで楽しくやっていける未来を描いてほしかった。ただただ、残念だ。