on my own

話し相手は自分だよ

Twitterのbioに「/」で区切って好きな役者や演目を羅列する私達観劇ヲタがが見つめなおすべき“個性”と“意識”

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↑精一杯個性的で面白い写真を撮るべく一人サウンド・オブ・ミュージックを始める在りし日のnoi氏

 

本当は今から豚キムチを作る予定だったんだけど、どうしてもこれだけ言いたくて言いたくて具合が悪くなってきたので、書き終ったら豚キムチ作ろうと思います。おなかすいてるんで、手短に済ませます。

 

aonooo.hatenablog.com

 

釣りかもしれない。炎上商法かもしれない。
それでもこのような記事が生まれ、拡散されていく現代日本社会に絶望しか感じません。心の中は……闇だ……。

 

具体例を上げると分かりやすいだろう。自分の説明をするツイッターのプロフィールの場で「/」で区切って好きな物をひたすら並べている人(これには共通の趣味の人を見つけやすいメリットがあるけど)、音楽や漫画や映画や小説を喋り続ける人、個性的な人の表面の表面を真似してアバンギャルドさを演出している人、道具みたいに彼氏のスペックを自慢する女の子、残念だけどそれはあなたの個性ではない。何かを好きある事自体が個性だと思っている人が多いけど、それはその人のアイデンティティでも無ければ、説明にもならないのだ。 (上記ブログ本文より)

 

このブログで語られているのは、つまりこういうことだと思う。違ったらごめん。
・個性があるほうが面白いし、人生楽しい。
・みんなが個性的と思ってることは実は個性でもなんでもない。
・好きなことを突き詰めて、表現、発信しよう。

 

さて、私達観劇ヲタは、私個人の実感としておよそ8割(いや、それ以上……?)の人達がbio(プロフィール欄のこと)に好きな役者や演目を書き連ねている。
例えばこんなふうに。
『スリル・ミーが大好きな女子大生。再演しないと放火しちゃうぞ。ご贔屓→松下洸平/柿澤隼人/良知真次 その他、洋画/BW/小劇場/Disney/写真/アート/SFも好き。』
おなかがすいてるんで良い例が浮かばないんですけど、こうやってスラッシュで区切られた羅列によって自分が何者かを説明しようとしている人が大半だ。

 

そんな我ら観劇ヲタは、このブログを書いた方にしてみれば、「みなさんは好きなものを表明しているだけで個性的だと思っている実は面白味のない無個性な人たちです。もっと自分の好きなものを追求して、ユニークなことを発信していきましょうね。」と赤ペンでも入れられてしまうんだろう。「いっぱい贔屓がいるわりに凄まじく中身が薄い」とか? 確かにたった一人を追いかけてる人って概して「濃い」人が多いけど。

 

でもちょっと待ってほしい。
観劇ヲタに限らず、人は人を楽しませるために存在しているわけじゃない。
「面白い」とか「無個性」とかジャッジされるために存在しているわけじゃない。
みんなお笑い芸人やアーティストを目指しているわけでもないし。
だいたい、「個性的である」こと自体、一種の幻想ではないの?

 

私たちは私たちが思っている以上に、ガッカリするくらいに、「普通」だ。みんな同じようなものを同じように好きになり、嫌いになり、買っては捨て、同じような、たとえ自伝やエッセイなんか出版したところで誰にとっても価値のない、そういう「普通」の人生を生きる。生きて死ぬ。「普通」に死ぬ。
この季節、電車の窓からホームを見ると、あまりに「黒い」ことに驚かされる。みんな同じような服を着て、同じようなアプリで遊びながら、何の変哲もない一般家庭に帰宅するために真顔でホームに並んでいる。
観劇ヲタなんか真に典型的だ。同じような役者を同じように応援して、観劇して、だいたい同じような感想を抱いて、「〇〇幕間! やっぱり××さん不調だな。でも##のデュエットは何度聞いても鳥肌♡」みたいなツイートをトイレの列でちまちまと流して、それの繰り返し。ときどき諸事情により贔屓を入れ替えながら。

 

いや、いいじゃん。
全然いいじゃん? だってみんな「普通」なんだから。「普通」に生きているんだから。
何かを好きであるだけでは「個性」としては弱い? よしもとのオーディションじゃあるまいし。『一億総ピン芸人』とか某さんが掲げてるわけでもないし。
どうして「個性的である」ことが「楽しさ」や「幸せ」、果てには「人生の意味」なんてものへとまっすぐに向かうと言えるだろう。

 


発信することも表現することも良い事には、楽しい事には違いない。
ただ、それだけが人生じゃない。あなたが言う「表現」だけが、「表現」じゃない。
パン屋でバイトしている女子高生がパン生地をこねることも、ホームレスのおじさんが段ボールの上で寝ることも、ついには背筋をしゃきっと綺麗に伸ばして歩くだけの行為だって「表現」になりうる。
家に帰って、あ~~とか疲れた~~とか言いながら重い鞄を下ろして、ネクタイを緩め、寝ている飼い猫の頭にそっと手を伸ばす瞬間こそが、最もその人がその人らしい、輝いている瞬間であることだって、たぶんある。たぶん……。

 

で。私たち観劇ヲタは「個性的」になるべきでしょうか。他人と違う自分を積極的に発見して行くべきでしょうか。贔屓をスラッシュで区切ることを卒業して、表現者のひとりとして自覚を持って生きるべきでしょうか。
全部NOだ、馬鹿野郎。「個性的」な人の「表現」する「個性」とかいうものが見たければアメブロのランキングを上から順番に見ていけば良い。あと若手歌舞伎役者の坂東巳之助坂東新悟両氏のブログめっちゃトンでて面白いです。マリウスで衝撃デビューした田村良太氏の昔のブログとか、キメてるとしか言いようがなくておすすめ。

 

何にも作れない、名前なんて残せない、もし沢山の人を楽しませられるとしたら何だろう、シンデレラ城の前でプロポーズしてフラれるとか? そのくらい。
そんな「普通」で「平凡」で「没個性」で「面白味のない」「凡人」が寄り合ってなんとか暮らしているのが社会で、歌えもしなければ踊れもしない人たちがなけなしの給料を紙切れに溶かして2時間から3時間じっとお利口に座ってるのが劇場だ。
いいじゃん、平和じゃん。
そんなふうに思ってしまう私もまたどうしようもなく「普通」で、アイデンティティなんかどこ探したって無くて、「BEFORE AFTERサイコーーー!!!」とか「ワンピース歌舞伎サイコーーーもサイコーーーー!!!」とか、ゴミみたいなIQを露呈するツイートをこれからも繰り返す事だろう。
たぶん、死ぬまで。報われなくても、蔑まれても、誰かと同じような人生でも。