on my own

話し相手は自分だよ

私はまた眠り、目を逸らし、黙るべきなのか ──ハエのたかるタコスを食べて決意したこと

メキシコを旅して分かったのは、「基本、この国の食べ物にはハエがたかっている」ということだ。裏路地の大衆食堂でも、今ふうの小洒落たオープンカフェでも、旅行者向けのお高いレストランでさえ、ハエとのエンカウントは不可避だった。私は最初こそハエを払おうと努力したが、ものの数分で諦めてしまった。だって、あとからあとから無限に飛んでくるハエをいちいち払っていては食事にならない。私は「このハエは1分前まで犬の糞にたかっていたかもしれない」などと想像することを自らに禁じながら、無我の境地で食事をやりすごしたのだった。衛生観念ポルファボル。

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グアナファトの市場の犬。

場面は変わり、ある秋の日の東京、私はとある企業の中途採用面接を受けていた。知名度は低いが伝統と実績のあるきちんとした企業だった。そこで私は、面接官である中年の男性社員が女性社員のことを一貫して「うちの女の子」と呼んではばからないことに、かなり大きな違和感と反感を抱いた。家で奥さんに「うちの女の子が立て続けに産休入ってさ〜」などと話す分には問題ないとしても、採用面接で、ましてや女性の応募者相手に「うちの女の子」を連発ってどういうことだよ、もし入社したら私もおまえの女の子ズの仲間入りかよキッッッッッショ!!! と、帰宅後にキレたツイートをひととおり投下して、一息ついて、ふと、思った。

『これってもしかして、メキシコのタコス屋で「なんでここのタコスにはハエがたかってるんだ!」とキレるのと同じことだったりするのだろうか?』

ああ、と、何だか急に、いろんなことが腑に落ちたような感じだった。

おそらく、キレ始めた私に向かって、タコス屋の主人はこう言うだろう。
「何を言っているんだ? ハエがたかっていたって、食べても死にはしない。現にここの人はみんなハエのたかったタコスを食べて生活している、今までもずっと。おまえがそんなに騒いだところでハエは根絶されないし、他のお客も気分が悪くなる。黙って食べるか、そんなに嫌なら出ていけよ」

そういうことだ。いちいちハエに怒って、追い払おうとしていては、食事にならない。この国の食事風景にはハエがいるのが当たり前なんだし、むしろそれがこの国らしいと言う人までいる。ハエを介して恐ろしい伝染病がまき散らされているならともかく、たかがハエごときで人は死なない。それなら、あの日の私みたいに、なるべくハエを見ないように、気にしないように、いないものとして、黙って食事をした方がずっと建設的だ。


それはともすれば、インドで「どうして歩いてるだけで物乞いに囲まれなきゃいけないんだ!!」と憤ったり、エチオピアで「ガスも水道もないなんてありえない!!」と気絶したりすることと大差ないのかもしれない。
それでも、日常のどんな隙間にも入り込んでくるハエが、どうしても視界に入ってきてしまって、やり過ごすことができない。

山手線を埋め尽くす車内広告。若くあれ、美しくあれ、そのままのあなたは見苦しい。女は謙虚に華やかに男を立てろ、男は強く逞しく女を守れ。20代はこうしろ、30代でこれはキツい、40代の大人にふさわしい何ちゃら。こんなあなたは価値がない、こんなあなたは恥ずかしい、こんなあなたでは全然足りない。あなた以外の人は問題ないと思っているので問題ない、あなたさえ我慢すればいい、黙って従えばいい。

一匹一匹はとても小さな虫である。彼らは今すぐ私たちを刺し殺したりしないが、確実に、静かに、僅かずつ私たちの精神衛生や生活環境に影響を与えている。しかし、あまりにも小さく、あまりにも多いので、無視して生活する方がラクなのは明らかだ。堪え切れず、「ハエがたかってるものは食べたくない」と声を上げれば、「どうしてそれくらい我慢できないの? 私は平気だよ。生きづらそう、もっと寛容になりなよ」などと言われて口を塞がれる。そうして、黙っていた方が賢明だということを嫌でも学習させられる。

さらに、この社会には、この虫がもとから見えない人も多く存在する。その中には、原因はハッキリしないながら、なんとなく生きづらかったり、なんとなくイヤな気分になることが多かったりする人もいるだろう。そんな人がある日、無数に飛び回る虫が見えるようになったところで、それは私が前のエントリで「寝た子を起こす」と表現したことと同じで、決してその人を救ってくれるとは限らない。本来、内面化された固定観念差別意識から私たちを解放するはずのエンパワメントの力が、「寝た子を起こす=余計なことをする」程度の効力しか持たず、せっかく起きた子に「こんなものが見えてしまうなら眠っていた方がマシだった」と言わせてしまうのがこの社会だ。


それでは私は、タコス屋でキレ散らかすような不毛な行為をやめて、黙ってハエまみれのタコスを食べ続けるべきなんだろうか?

いや、でも。でもやっぱり、食べ物にハエがたかっているのは、おかしいだろ。日本は"一応"、G7の一角を担う先進国なんだから。


たぶん、何の権力も持たない、批評家でも社会活動家でも何でもない一市民としての今の私にできることは、ハエの一匹一匹に腹を立てて、片っ端から潰そうとすることではない。また、ハエを見ないふりしている人に一方的に怒りをぶつけたり、改心させようとやきもきすることでもない。

そうではなくて、一度もっと広く、遠くを見ることだ。どうしてみんな、こんなにたくさんのハエに気がつかないのか。どうして、ハエを潰そうとすると邪魔されるのか。ハエはそもそもどこから沸いてくるのか。せめて、少しでも衛生的な場所で暮らすにはどうしたらいいのか。そう言う私もどこかで誰かの食事の邪魔をしていないか、ハエの湧きやすい環境づくりに加担していないか。そういうことを、できる範囲で真剣に考えたり、それを言葉にしたり、共に生きる人たちと話し合ったりすることなのだと思う。もちろん、時には怒ったり、悲しくなったり、途方に暮れたりしながら。

今日の私たちの当たり前の生活は、ハエなんかよりももっと大きくて凶悪なものをまっすぐ見据え、黙らされても黙らず、時にそれで命を落としてきた人たちの不断の闘争の上に成り立っている。そんな、勲章を受け、TED Talksや国連に招かれスピーチをするようなアクティビストになる必要は全くない(というか無理)にせよ、自分たちの住む場所を少しでも今より良くするためにどうしたらいいのか問い続けること、いま何が議論されているのか知ることを、疎かにしていいはずがない。

そして、私は信じている。私たちには、真摯に声を上げる誰かを不当に黙らせる権利などない代わりに、自ら声を上げる権利があるのだということ。誰かが声を上げても「どうしてそんなことでいちいち騒ぐの?」と冷笑する人だけでは決してなく、「何があったの? 何が問題なの?」と耳を傾けてくれる人はきっといるのだということを。


劇団四季の『キャッツ』をきっかけにブロードウェイ・ミュージカルの虜になったのは大学生の頃だ。夢中で通い詰めた舞台から得られた多くの経験は、私の目を開かせて、私の世界を広げてくれた。特に、NY留学中に観劇した『Kinky Boots』『Matilda』『Fun Home』『The Curious Incident of the dog in the Night Time』、そして今年ようやく見に行けた『Dear Evan Hansen』は、生きづらさや困難さ、弱さを抱えた多くの人をエンパワーする強力なメッセージ性と美しさとを持って、いまも私の心に焼き付いて消えずにいる。

人は誰も、その属性や身体的特徴、文化的バックグラウンドによって差別されない、傷つけられない。すべての人は美しく、その身体や心はその人だけのものだ。私たちは本来、誰を愛しても愛さなくても自由だし、誰にも指図されないし、誰からも貶められない。

そんなメッセージを受け取り、涙を流したりして、劇場を出て、日常である現代日本社会に帰ってくる。そうすると、劇場を出る前と比べて、より多くの、より多種のハエが見えるようになっている。面倒くさい。嫌になる。うんざりだ。でも、同時に、内側にくすぶっていた得体のしれない何かが、私の身体からすっと抜けていき、代わりに温かなエネルギーが満ちていくのを確かに感じる。

そうやって私は今まで、ミュージカルはもちろん、漫画や小説、音楽や絵画、アニメや映画、多くの優れた創作物に触れて、たくさんの豊かなものを受け取ってきた。現実では身を切るようにつらいこともたくさんあったけど、すぐれた表現者たちから道しるべを与えてもらって、何とか今日まで生きてこられた。それなのに、『あるがままの現実を見て、あるべき姿を見ない』ことを良しとしては、私の大好きな作品たちに申し訳が立たない。だからもう、眠らないし、目を逸らさないし、黙らない。これからは、少しずつできる範囲で、ちゃんと自分を守りながら、戦っていきたいと思う。


という、きわめて個人的な決意表明でした。ちなみに、件の面接は、「長く働く気はあるか?」と聞かれたので「女性の管理職の方はいますか?」と聞いたら「いますよ! えーっと、2、3人くらい……」と歯切れ悪く答えられ「ホォー…」と赤井秀一みたいな反応をしてしまったせいか知らないけど落ちたし、メキシコでは無事におなかを壊しました。やっぱり食べ物にハエがたかっているのはおかしいんだよ!!!!!!!! メキシコの歴史的建造物や遺跡、博物館は素晴らしかったので、機会があったらまた行きたいです。タコスはしばらく見たくもない。

When life itself seems lunatic, who knows where madness lies? Perhaps to be too practical is madness. To surrender dreams — this may be madness. To seek treasure where there is only trash. Too much sanity may be madness — and maddest of all: to see life as it is, and not as it should be!” ──ブロードウェイ・ミュージカル ”Man of La Mancha” より