読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

on my own

話し相手は自分だよ

女友達の新しい彼氏との馴れ初めを聞きに行ったら死ぬほど文学だったから文学書きました

 銀座三越のライオン像の前に立ち、日没間近の空を見上げる。紺色の空に縁取られた和光時計台は、夢を見るように淡く光りながら静かに時を刻んでいた。午後7時15分。

f:id:noi_chu:20160623004013j:plain

 銀座の街を滑るように進む雑踏はいつだってどこか上機嫌で、約束がある人もない人も、みんな等しく軽やかだ。次々と通り過ぎては私の視界からフェードアウトする通行人たちの、その各々全てに人生があり、家族があり、大切な人がいるだろうことに想像を巡らせてみる。そしてその全ては、私の人生とは今後、二度と交わる事がないだろうことにも。

「結論から言うとね、彼氏ができたの」

 至って真面目な面持ちを作り、T女史はそう切り出した。銀座の目抜き通りを新橋の手前までしばらく歩いたところの、大きなおもちゃ屋の上層階に店を構える気楽なイタリアンレストラン。その奥で、私たちはブラックオリーブをつまみながら、早々に本題へ踏み込もうとしていた。




 T女史は私のバラエティ豊かなオタク友達のひとりだ。ジャンルはほとんど被らないものの、年も経歴も似ていることから妙に意気投合し、時折こうして美味しいものを食べる仲となった。ゆるくウェーブを描く長い髪にしばしば手をやりながら、ピアスを揺らして上目遣い気味に話すT女史は、うっすらと笑みの形をつくって、こう続けた。

「本当に何も予定がなくて、暇で暇で仕方ない休日があってね。私、突然思い立って、キャバクラの体験入店に行こうってなったの。もちろん今の職場は副業ダメなんだけど、ほら、体験入店って3時間で1万5千円とかもらえるすごく割の良いバイトじゃない。だから、家から歩いて行けるキャバクラで、1日だけ働こうと思って」

 1年と半年ぶりに彼氏ができたから、話を聞いて欲しい──彼女からそう連絡が来たのはつい先日のことだ。私は彼女が長らく、こつこつと出会いの場に赴いては、ろくでもない男に引っかかって、LINEをブロックする経緯を何となく眺めていたので、『やっとか』というのが、私の正直な感想だった。

「そのキャバクラの客層が本当に酷くって。酔ったおじさんに抱きしめられたりとかして気分最悪だったんだけど、ある時、白いシャツを着て白い紙袋を持った何だか爽やかな若い男性が10人くらい入ってきたのね。え? ううん違う違う、モルモン教徒じゃなくて。結婚式の帰り道だったみたい──もしかしたらモルモン教の結婚式だったのかもしれないけど」

 パーテーションで仕切られた店の向こう側ではどこかの会社の社員たちが小さなパーティーを催していた。賑やかな笑い声とグラスのかち合う音がこちらまで響いてくる。小皿の上の丸々としたブラックオリーブが、その騒がしさを吸収するように艶やかに光る。あとにはT女史の話し声と、辛口のジンジャーエールの氷がぶつかるからからと乾いた音だけが残った。

「そのとき、私に指名が入ったの。見たら、私がその集団の中で2番目にかっこいいなと思ってた人だった。先に言うと、この人が彼氏になるんだけど……その人に私、めちゃめちゃしつこく口説かれて。どうしても一緒に食事がしたいって言うから、勢いに負けてLINEを交換したの。上智卒の26歳の公務員。嘘でしょって思ったけど嘘じゃなかった。保険証とか社員証とかいろいろ見せてもらったけど、ぜんぶ本物だったから」

 半熟卵の乗ったグラタンを取り分けながら私は、『上智卒の26歳の顔の良い公務員などという人種が果たしてこの世に実在するのか』という根本的な疑問を抱いたが、それを口にするのは野暮というものだろう。私達は実在論についての討議をするためにここに来たわけではないのだから。

「2回目に会ったのは彼が予約した銀座のフレンチのお店。そこでお互いのことをいろいろ話したんだけど、私、上智卒のイケメン公務員が今まで何人と付き合ってきたのか気になったからストレートに聞いたのよ。そしたら、『まあ6人くらいかな』って。私、ほんとに、それくらいだろうなって納得したから、ふ~んって言ったんだけど、どうやら納得してないって誤解されたらしくて、彼が『それは、一夜限りの女のことも含む?』って聞いてきて、あ、一夜限りの女はカウントに入れてなかったのか、って。もしカウントするならどんな数字になるか興味があったから、素直に聞いたの。『含むと、何人なの?』って」

上智卒の26歳イケメン公務員は積極的に墓穴を掘っていくスタイルらしい。前衛的である。

「そしたらね、『スクラムが組めるくらい』って言われて。スクラムって言うと、ラグビーだと数人でも組めるじゃない。だから、ん? っていう顔をしたら彼が『ごめん、伝わってないみたいだから言い直すね。サッカーチームが2つできる上にベンチを足したくらい』って。つまり最低22人に、控えが1人しかいないとは考えにくいから、まあざっと30人くらい? その話を聞いて私、彼を『監督』って呼ぶことにした」

 私は、上智卒の26歳イケメン公務員と熱く短い一夜を過ごした女達が、紅白に分かれてサッカーの試合をしている様子を想像せずにはいられなかった。イナズマイレブンならぬ行きずりイレブンだ。髪を振り乱した女達が鬼の形相でボールを奪い合っている。そこへホイッスルの音が鋭く響き渡る。あれはレッドカード……いや、違う。コンドームだ。審判がコンドームを高々と掲げている。退場を言い渡された選手は、監督と肩を並べてラブホテルに吸い込まれていった。

「3回目に会ったのは銀座の寿司屋で、そこで改めて付き合いたいって言われたんだったかな。でもね、私、考えたんだけど、分かりやすく彼の性欲を食欲に置き換えてみるとね、彼は高校時代から食べ始めて、大学時代に5~6皿食べて、卒業してから今日までもう数十皿と平らげてるわけ。そんな満腹の状態で、私って言う皿を食べたがる理由は何? って。そしたら監督が言ったの、『君は僕の前にやっと現れたメインディッシュだ。まさに銀座の寿司なんだ。今までのお皿も美味しくなかったわけじゃないけど、生ハムとか、サラダとか、そういうつまらない小皿だった』って」

 一所懸命、食欲と料理の話に置き換えてくれてはいるが、結局性欲の話なんだと思うと気が遠くなってくる。銀座の、一貫ずつ出てくるような江戸前寿司の店で、婉曲表現を多用して『やりたい』と言う精神状態、また言われる気分とはどんなものなのだろう。どちらにせよ私には雲をつかむような話だ。寿司に感情移入する方がまだ容易かもしれない。

「それで、なんか付き合うことになって、帰り際に路上で初めてキスした。マジで無味乾燥なキスだった。それが2週間前の話。彼のことは、その時点では好きでも何でもなかったよ。でも、向こうから好きだ好きだって言ってきてくれたら何となく好きにならざるを得ないじゃない? まあ、なんで付き合う気になったかって言うと、正直なところ……行きずりイレブンを2回クリアしたあげく、ベンチの控えまで余すことなくコンプリートしちゃうような男のトロフィーを、掲げてみるのも悪くないかなって思ったの」

 バジルの香る魚介のジェノベーゼをゆるく巻きつけたフォークを置き、私は少しだけ逡巡してから、尋ねた。で、掲げたの? トロフィー。彼女は潤んだ唇を赤い舌で舐め取って、首を傾げた。私はうまく意図が伝わっていなかったことを察して表現を変えた。ごめん、隠喩やめるわ。やったの? 彼女はぱっと表情を明るくした。

「それがね、やってないの! 私がそういう気分じゃないなら2か月でも、3か月でも待つって言われて、あ、これは本気なんだなって思って。というわけで、1年と半年ぶりに彼氏ができましたって話。あ、あとね、一応彼に『私、腐女子だけど大丈夫?』って聞いたんだけど、『僕の親友はBLの出版社に勤めている。あと僕はおかっぱ頭の男にはタチとして欲情しがちだから大丈夫』って」

 ミモザのグラスを愛おしげにそっと撫でて、彼女は言った。テーブルの端に伏せられたスマホは数分おきに身悶えていて、彼女に言い寄る男が他にも複数いることを暗に示していた。氷が解けきってほとんど味のしなくなってしまった温いジンジャーエールを飲み干しながら、私は彼女に『おめでとう』を言うべきか否かについてしばし思索を巡らした。ほどなく、言葉は自然に口をついて出た。『おまえは何を言っているんだ』、と。

f:id:noi_chu:20160623012836j:plain



 場所をカフェに移した私達は、カフェオレを口に含みながら、甘い夜風に吹かれていた。島崎藤村を始めとして著名人が多く学んだという泰明小学校が真向かいにあった。子どもの声の響かぬ校舎は闇に沈んで、朽ち果てた廃墟のようだ。島崎藤村が通った学び舎と言われても、正直あまりピンとは来ないが、島崎藤村がアリの巣を枝で掻き回したり、カエルの腹に爆竹を詰めたりしたかもしれない学び舎と言い換えるとなんだか急に感慨深い。

「例えばね、不二周助が、私のために死ぬわけ」

 オーガニックなティーンエイジを過ごした方々のために説明すると、不二周助というのは私とT女史の世代のオタク女が全員通過したであろう伝説的マンガ『テニスの王子様(テニプリ)』の登場人物であり、『不二周助が私のために死ぬ』というのは彼女が今日まで愛し続けたドリーム小説(マンガの登場人物と疑似恋愛を楽しめるファンメイドの創作小説のこと。読者はJavaScriptを駆使した名前変換システムを使って小説内の女の子の名前を自分の好きな名前に変えることにより、一層作品世界に没入できる)内での出来事である。

「それで毎日悲しみに暮れている私を、えーっと、まあ菊丸でいいや、菊丸英二とかが慰めてくれるの。不二周助との思い出に浸る私の悲しみに寄り添って、ずっとそばにいてくれて、『愛してるにゃー』とか何とか言ってくれて、最終的に私は菊丸英二と愛し合う。でもね、私、現実にはそんな無償の愛なんて絶対にありえないと思う。だって、男が私のために何でそんなに愛情を注いでくれるのか、私には全然理解できないの。ってか何のメリットあるの? って思うわけ」

時折、異国のことばの飛び交うオープンカフェの空気は酔っぱらったようにざわめいて、彼女の空虚な『愛してるにゃー』を見る間にすっかり包んでしまった。私は曖昧に相槌を打ちながら、カップの底に溶け残った角砂糖の粗さをスプーンの背で感じ取る。口にしているのは私と同じカフェオレのはずなのに、T女史の語り口は言葉を重ねるごとに熱っぽくなっていく。濁流の如く溢れ出る彼女の秘めた激情を、私はせき止めるすべを持たなかった。

「結婚はまだいいよ。分かるよ。配偶者以外とは関係を持たないっていう法的な契約関係じゃん。でも"付き合う"って何? タダでセックスできる相手を確保できるっていう以外に何があるの? 道端で手を繋いで歩いてるカップルを見るとどうしても『ああこいつら、このあと滅茶苦茶セックスするんだろうな』って考える。無印良品のカタログに出て来そうな無味無臭のカップルでさえ帰ったら滅茶苦茶セックスするんだと思うとグロくてグロくて仕方なくて。でも私ね、結局、ドリーム小説に育ててもらったから、良いドリーム小説を書いて、ドリーム小説に恩返しがしたいっていう気持ちだけなの。決してこの身で体験することができないボーイズラブと違って、男女の恋愛を描くドリーム小説でモノを言うのは良質な実体験に基づくリアリティのみなわけ。だから私はリアリティを追求するために男と付き合う、ドリーム小説に活かすために男と付き合う、監督のトロフィーも舐める、そして上質な、愛のある、良いドリーム小説を書く。だって現実には利己心に基づいたメリットのない駆け引きしかできないから。つまり腐ってんだよ人と付き合うってのはよお!!!」

 もしこの場にちゃぶ台があったら、確実にAdeleも裸足で逃げ出すTurning Tableが繰り出されていたので、私はここがフレンチスタイルのカフェであることに心から感謝した。頬を赤くし、息を荒らげたままの彼女を前に、私はつい考え込む。この現実世界には不二周助も雲雀恭弥もシリウス・ブラックも、カカシ先生どころか土井先生だって居やしない。現実の冷ややかな駆け引きによる『愛』と呼ばれる何かを前にしたときの、凍りつくような絶望。それは果たして、私達オタク女が、幻の恋人が与えてくれるとろけるように甘い愛をごくごく飲んで育った代償に背負わされた十字架だろうか。


 彼女は銀座の寿司となって皿の上に供される代わりに、銀座の路上でひとつキスをくれる優しい恋人を手に入れた。PRADA、Tiffany、Cartier、BurberryにCHANEL……華やかに飾られた店内から漏れ出す光に幸福を演出されながら、彼女は心の中で6月の薄曇りの日に手嶋純太とドライブした湘南の海のにおいを思い出している。夢の世界を生きる彼女は現実で私に微笑んで、有楽町駅の白い蛍光灯の明るさの中に吸い込まれて行った。