on my own

話し相手は自分だよ

日常雑記: They call me Mimi.

(たまにTwitterに投下するには長すぎる日記っぽいことも書いていきたいな~ということで、第一弾です。ゆるゆるっと暇つぶしにちょうどいいくらいの文章を投げていけたらいいな。)

 

 本名とほとんど関係のないあだ名でばかり呼ばれてきた。ネット上で出会った人と頻繁に顔を合わせるようになってからは、ともすると、ハンドルネームで呼ばれる機会の方が多かったりする。だから、違った名前で呼ばれることには慣れていたはずだった。もちろん、呼ばれる名前の数だけ私はほんの少し違った顔の人間にはなるけれど、それは私の表層に薄らと色が付く程度のことで、現実味のない妙な名で私を呼ぶその声の響きは、私の根幹を揺るがすような衝撃にはなり得なかった。

 


 どうやら私の名前は、日本人以外にはうまく発音できないどころか、聞き取ることさえも困難なものであるようだ。西洋人においては特に顕著で、正しく呼んでもらえた試しが無い。聞き返されるのはまだ良い方で、大抵の人は勝手に間違えた名前を覚えて、勝手に私をその名で呼ぶ。訂正するのも面倒なので、私は彼らを間違ったままで放置する。どうにも間抜けな感じのする名だ。呼ばれるたびに、こちらの知能指数がほんの僅か落ちる気さえする。


 海外のカフェでは名前を聞かれて、飲みものができると名前を呼んでもらえるんだよ。そう噂に聞いてはいたが、実際に名前を聞かれた時は、正直ちょっと感動した。マレーシアの病院に併設されたスターバックスでのことだった(同行人が熱を出したので、皆で病院に連れて行ったのだが、非常に大きく立派な病院だったので、皆はしゃいで、病人を差し置いて社会科見学のようになってしまった。良い思い出だ)。私の注文したアイスラテのカップには、黒いサインペンで、ご多分に漏れず、微妙に間違った私の名が殴り書きされていた。ああ、やっぱりか……。脳の隅の方で幻滅しながら、私はガムシロップをたっぷり注いで、甘すぎるラテをごくごくと飲み干した。


 ひと月前に生まれて初めてニューヨークに来て、私はスターバックスを休憩所兼Wi-Fiアクセスポイントとして利用することを覚えた(今となっては、わざわざ高価なラテを買わなくてもWi-Fiに繋ぎ放題のスポットがいくらでもあることを知っている)。そして、ある日名前を聞かれた瞬間、ふっと、「別に、本名じゃなくてもいいじゃん」ということにやっと思い至った。むしろ、今までどうして馬鹿正直に本名を名乗っていたのか不思議なくらいだった。どうしよう。何て名乗ろう。一瞬だけ逡巡して、私の口はぽろりと、こんな言葉を吐きだした。

 Mimi.


 みずきちゃんという幼馴染がいた。母親同士が高校の同級生で、赤ん坊のころから姉妹のようにして育った。髪が艶々ときれいで、目のくりっとした可愛い女の子だ。彼女のことを、皆が「ミミちゃん」と呼んでいた。幼い私はその悪戯っぽい響きに憧れた。私の名前も「み」の音で始まる。どうして、みずきちゃんだけが「ミミちゃん」と呼ばれて、私は呼んでもらえないんだろう。しかし、みずきちゃんも私も忙しくなって、しばらく会えなくなり、私はその呼び名のことも忘れかけていた。「ミミ」との再会はちょうど二十歳を過ぎた頃だ。『RENT』の映画版で、ヘロイン中毒のゴーゴーダンサーの女の子がパワフルに歌い踊るのを観て、私は「ミミ」への撞着を十数年ぶりに思い出した。ニューヨーク、イーストヴィレッジ、彼女はnaughtyに微笑んで、言う。They call me Mimi.


 足元に茶色のナプキンの散らばる、混雑した店内で、私はぼんやりとその時を待った。ラテン系らしい彫りの深さが印象的な店員が、大声でその名を呼ぶまでに、時間はそうかからなかった。Mimi! ラテができたよ! Mimiは悠々とカウンターまで歩みを進め、カップを受け取って、Thanks、と(出来る限り)フレンドリーに微笑みかけた。その日から、私は日本人以外を前に名乗る際、「もし発音しづらかったらMimiと呼んでね」、と付け加えている。ただ、残念ながら、皆なるべく元の名前で呼ぶように努力してくれるので、私を日常的にMimiと呼ぶ人間は未だ現れない。というわけで今のところ、Mimiは休日の昼下がり、混雑したカフェのカウンターにのみ出没する、レアキャラである。


 「Mimi」と書かれたカップになみなみと注がれたアイスラテは、いつも通り私が過剰に人工甘味料を入れるので、いつも通りの甘さだった。味も苦みも量も一緒、同じスターバックスなので至極当然である。それなのにどうしてか、あのラテに限っては、どっしりと重く、融かした鉛のように、私の胃に流れ込んでくる心地がした。店員の聞き間違いでも何でもなく、私がそうなるべく意図し、差し向けた結果のその呼び名。ニューヨーク、グランド・セントラルにほど近い五番街、どれがダイムでどれがニッケルか、未だよく分からず必死に財布を掻き回しつつ、私は言った。I'm Mimi. あの瞬間、ニューヨークは私に問いかけていた。君は誰? 逡巡しつつも思わず口からこぼれたその名に、おそらく、私は責任を持たなくてはならない。