on my own

話し相手は自分だよ

オンデマンド・レビュー『さらざんまい』

ところで、「おすすめ」されるのが苦手です。「おすすめ」されるということは、「おすすめ」してくれている人はその作品が好きで、きっと私も好きになってくれると思うから薦めてくれているわけで、何だか「うっ・・・・・」と身構えてしまいます。そのキラキラピュアピュアしたお薦めの気持ちが眩しい……。人が推しについて数時間話し続けるのとかは全然聞けるんですけど。「ね、のいちゃんも私の推し、好きになってくれたでしょ?」などと言われてしまうと、かつてカルトだと知らずにとあるキリスト教系の教団に通って聖書の読み方を習っていた頃、先生役のお姉さんに「ね、のいちゃんもこれで神様を信じるよね?」と言われて言葉に詰まったときのことを思い出してしまいます。その教団からは何度聖書を教えてもイエスを信じないということで見捨てられてしまったのですが。
それでも、人が「これは見る・語る価値がある」と思ったものは知りたい。しかし「おすすめ」されるのはキツイ。
というわけでTwitterで「他人の感想をガチで聞いて回りたくなった作品」をマシュマロで募集しております。本でも漫画でも、映画でも映画でも、映像があれば舞台でもOKです。AmazonプライムNetflixにある作品だと有難い。見て、ましな感想が書けそうだったらこうしてブログにしていきたいと思います。ホームにピン留めしてありますので、よかったらあなたをざわつかせた作品をこっそりお聞かせ願えますと幸いです。

f:id:noi_chu:20190721212700p:plain

オンデマンド・レビュー(←いま考えた)第一弾、「さらざんまい」です。ネタバレ含みます。

(クリックしても購入しても、のいには一銭も入りませんのでご安心ください)

名前自体は聞いたことあってビジュアルもどこかの駅にポスターが貼ってあるのを見たことがあったのですが勝手に「作画の良いケロロ軍曹」みたいな感じかなと思ってまったく見る気がありませんでした。「おすすめ」してくださって感謝です。

一話を見終わった時点では「えっ、何もわかんなかった!!!!!」と叫ぶ以外に特にすることがありませんでした。ちょっと世界観のクセが強すぎて、「今どきの若者はこういうわけわかんないものを面白いと錯覚するのか? さすが箸が転がっても面白い年頃じゃな……」と老害ismに走りそうになってしまったくらいなのですが、二話、三話と見続けるほどに、だんだん脳がこの「気の違ったプリキュア」ワールドに適応し始め、少しずつこれがどういう物語なのかわかってきました。
というか、だいたいプリキュアなんですよね。少年たちには守りたいものがある。つながりたい人がいる。それを脅かすものを倒し、大切なものを守るために彼らは変身する。異界の力を手に入れる。それにはリスクがともなう。最終的に彼らは一皮むけて成長する。ただ、いちいち癖が強いだけで……。
皿は「円」であり「生命」の「器」である。「生きること」とはすなわち「欲すること」である。この考え方すごい面白いですよね、『生物は遺伝子の乗り物』ならぬ『人間は欲望の乗り物』というところでしょうか。人間ひとりの単位で見れば「始まりも終わりもある」んだけど、人と繋がりをつくることで、幾多の「始まり」と「終わり」が限りなく接近し、いつか「円」になるわけです。最後に割れたサラちゃんのお皿や川に飛び込むトオイは「小さな死」を意味してるんじゃないでしょうか。生きることはつまり、少しずつ死んでいくことで、同時に少しずつ新しくなっている。異界とまじわって「ちょっと死んだ」彼らは、たとえどんな悲痛な未来が待っていても、生きる限り自分は何かを欲し続けるんだということ、そして生きている限り誰かと繋がり続けるんだということを学びました。そしてそれは自分が選ぶのだということも。それはつまり生命のエネルギーを得たということで、意地汚く見苦しくも生にしがみつくことを肯定する、メチャメチャ前向きで社会的なメッセージだったと思います。
繰り返し出てくる「橋」や「川」のモチーフもすごく効果的で、単に河童の生息地が川だし舞台が浅草だから、というだけでなく、あちらとこちらの境界線としての川、イニシエーションとしての川、禊としての川、と、深読みすればなかなか考察が捗りそうな感じで、まあ私にそんな知識もないので「民俗学っぽいぜ」と悦に浸るだけで終わっちゃうんですけど。
結局カワウソって何だったのかよくわからないし、敵を倒すためでなく尻子玉を転送する(????)ために秘密の漏洩が必要なのもいまいちなんでだよという感じだし、ケッピの絶望がそもそも悪いんじゃないか?という気もしなくもなく、また「つながるためには(さらざんまい!するためには)知られたくない秘密を暴かれなくてはいけない」というのもそんな「私たち心友だから隠し事はナシだよ」みたいなのってどうなんだよとか、エンタのカズキへの想いの描き方が軽すぎてちょっと……とか、そのあたりは何度も見てきちんと考察・批評してるブログがほかにあると思うので、私のほうで深く考えるのはやめておきます。


全11話を見終わり「カワウ~~~ソイヤァ~~~」と口ずさみながらネット上の反応を見ていて、すごく興味深いなと思ったんですけど、「最終話死亡説」で軽くひと悶着あったみたいですね。
死亡説とか死神説で有名なのはトトロで、もちろんそれに言及して「あの物語から何を受け取ったの???」とガチギレしている人を見かけたのですが、気持ちすごくわかります。私も〇〇〇〇〇〇という作品のメインの二人でラブラブエッチな同棲妄想みたいなことをしている人を見て「あの作品を見て出てくるのがそれか?? お前は義務教育の国語の授業を辞書に載ってるエッチな単語に片っ端から下線を引いて過ごしていたのか??」とイライラしたり……これはぜんぜん違うお話でしたね。いやでもあの二人でラブラブエッチはねーよ頭沸いてんのか?
気を取り直してさらざんまいですが、カズキとエンタは既に死んでいてトオイは自殺……というのはよく考えなくてもトオイが11話かけてカズキやエンタから受け取ったことが全部ブチ壊しというか人生ゲームに猫が乱入してグチャグチャにされて全部やり直しみたいな感じだと思うんですけど、きっと死亡説に面白みを感じてしまう層というのは、「博士の愛した数式」に出てくる博士みたいに記憶が10分程度しかもたないんだと思います。そりゃ10分の単位で見たら死亡説は面白いです。宗教画のパロディとか思わせぶりなセリフとか。しかしそれも11話という長期スパンで見ると一瞬で意味をなさなくなる。でも彼らは10分で記憶がなくなってしまうので、短いスパンでしかメッセージを受容することができない。「全体」を俯瞰して、何が起きていて、何を伝えてくれようとしているのか、分からないというか、そういうことに全然興味がないんじゃないでしょうか。
私はそういう見方をする人をつまんないし勿体ねーなと思いますが、それは私が私の見方を唯一無二で絶対に正しい(私が思うんならそうなんだろう。私ん中ではな。)と思っているからで、「私の見方が一番正しいんだ! 死亡説なんてクソだ!!」とFF外から乗り込んで相手を否定する資格なんかもちろんありません。というか「100%正しい解釈」なんてどこにもありません。多分、幾原監督の頭の中にだってないでしょう。私がこれまで2000字近く使ってえらそうに書き散らしたものだって「お前はなにを言っているんだ」レベルの妄言である可能性さえあります。
それでも「70%くらいはまっとうな解釈」というのは、その作品が一定の質を有する限り、どの作品にもあるというのが私の持論です。そして作品をフラットに眺めて、社会的な意義とか、芸術的な価値とかについて考えるとき、「70%まっとうな解釈」にたどり着いていることは大前提として、受け取り手に要求されてしかるべきことだと思うのです。もちろん暇なスキマ時間を潰すために適当に流し見して「トオイくんの夢女になりて~」とか呟く、という見方だって否定されるべきではないし、繰り返しになりますがそもそも作品なんてリリースされた瞬間に見た人のものになってしまって、その人の頭の中にどう取り込まれるか決める権限なんか誰も持ってないんですが、「70%まっとうな解釈」に一所懸命たどり着こうとする行為って、結局製作者への敬意の現れなんじゃないかと、私は思います。あとめっちゃ楽しいしね。ラブラブエッチ妄想の人も楽しいことは楽しいんでしょうけど……。イライラするのでやめておきましょうね。

さらざんまいの話をぜんぜんしてませんが、今後もこんな感じで感想を書いていけたらと思います。

っていうかハッパ育てて生計立ててる男子中学生サイコーでは?

高校をやめて図書館に通っていた頃の話 ――トロブリアンド諸島の夢

春が来るたびに思い出すのは、一冊の本のことだ。
それはうちの近所の図書館の、薄汚れて擦り切れた古い蔵書の一冊で、私はそれが何階のフロアのどのあたりにあったかまで鮮明に思い返せる。
いつまでも胸に残る金言が記されていたわけでもない。目を見張るような美しい挿絵がはさまれていたわけでもない。
それでも、その記憶は今もなお私の深いところにあって、私の心を救ってくれる。


f:id:noi_chu:20190326193314j:plain
宮古島の夕日。


実は私は高校を出ていない。
厳密に言うと、高3まで通ったが、卒業できなかった。
どうして学校に行けなくなってしまったのか、今となってはよく思い出せないし、どの病院に行っても病名は結局つかなかった。いじめられているわけでもなんでもなかった。友達はたくさんいたし、部活なんか意味もなく4つくらい入っていた。
あの頃の私に何が起こっていたのか、ちょっとセンセーショナルすぎて書くのが憚られるのだが、教室に入って授業が始まると、頭の中がとにかく殺意でいっぱいになってしまうのだった。これは高1の秋くらいから前触れもなく始まった。前の席の奴の脳天に手元のシャーペンを勢いよく突き立てる妄想が頭から離れないので、もはや先生のお話どころではなくなってしまう。もちろん成績はガタ落ち、テストの順位はほとんどクラス最下位だった。
そんなこんなで、高2の5月頃からいわゆる五月雨登校になり、高3に入ったころには教室に入らず、保健室で自習をするようになった。
ちょっとした進学校だったせいか、保健室登校はあまり歓迎されなかった。昼休み、お弁当を友達と食べようと廊下を歩いていたら、学年主任に「保健室登校中なのに、構内をウロウロするのはちょっと」と小声で言われた。また、担任は自分のクラスに不登校の生徒がいることが恥ずかしくてたまらないようで、詳細は伏せるが地味な嫌がらせを受けた。そういう細かなことが重なって、高3の秋から私は学校に行くのをすっぱりやめた。つまり、高校を卒業することを諦めた。
苦労して入った第一志望の高校を辞めるには勇気が要った。それでも私は退学を選んだ。留年までして卒業に固執するよりも、高卒認定(いわゆる大検)をとって早く大学に行ったほうが精神衛生によさそうだという判断だった。


学校に行くのをやめた私の、一日のスケジュールはこんな感じ。
朝、8時起床(舐めくさっている)。母が作ってくれたお弁当を持って、制服を着て、近所の図書館に一番乗りする。学校に行くわけでもないのに制服なのは勿論ラクだからである。毎日毎日図書館に来る謎の高校生に、何も言わず閲覧室のデスクの利用票を渡してくれた図書館の方には本当に頭が上がらない。
図書館の資料を使わずに自習していると叱られるので、地図帳なんかをあてつけがましく机の隅に広げながら、昼過ぎまで勉強。
1時過ぎに、通っていた小さな塾の自習室が開くので、電車で移動し、お弁当を食べる。ひとりぼっちでひたすら自習。
4時を回ったくらいから学校を終えた塾の仲間がやってきて、いっしょに講義を受ける。近くのスーパーにカップ麺をみんなで買いに行くのが数少ない楽しみだった。10時になる前に帰路に就く。10時半帰宅。12時に就寝。
当時の私の日記にはこう書き残されている。「受験のことだけ、私のことだけ考えてればいいから毎日しんどいけどハッピー」。
塾の講義を受けている間、例の殺意の発作は一度も起きることはなかった。


毎日そうやって10時間強を受験勉強に充てていたわけだが、ひとりで黙々と進めるにも限界があって、わりと頻繁に飽きが来る。飽きたなあと思ったとき、私は素直に作業を中断して、図書館の館内をウロウロし、蔵書を物色することにしていた。特に社会学の棚が好きで、文化人類学という学問領域があることをそのとき初めて知った。
ある日、何となく手に取った本に、トロブリアンド諸島の住民について、マリノフスキーという文化人類学者が研究したことが書いてあった。
トロブリアンド諸島とはニューギニア島の東にある小さな島々の総称で、そこでは古くから「クラ」と呼ばれる儀礼的な交易がおこなわれているのだという。簡潔に言うと、そこの人々はカヌーに乗って、ただの貝で出来た首飾りと腕輪を、首飾りは時計回りに、腕輪は反時計回りに、隣の島に運ぶ。そして返礼の品を受け取り、自分たちの島に帰ってゆく。このクラはたいへん危険な旅で、それに加わること自体が名誉であり、英雄的な行為だ。人々はその装飾品といっしょに、それにまつわる、かつての英雄たちの歴史と物語とを語り継いでいく。そうやって人々は繋がり合い、混ざり合って、命を紡いでいく。


それを読んだとき、私は「ああ、もし将来私が本当にダメになったら、トロブリアンド諸島に行って、クラ交易に参加しよう」と、わりと本気で心に決めた。


当時の私のステイタスは実質『中卒』であった。大学受験さえ成功すれば、日本の大学は入るのは難しくても出るのは簡単だといわれるので、きっと卒業までなんとか漕ぎつけられるだろう。しかし受験に失敗すれば、私は『中卒』のまま、もしかしたらショックで引きこもりになってしまうかもしれない。つまり私はそのとき『中卒引きこもりニート』と『まともな四大卒』のルート分岐点にいた。これは私にとって相当な精神的負荷となっていた。
しかし、『トロブリアンドショック』を受けて、私はひとつ大きな気づきを得た。
たとえ中卒メンヘラニートだろうが、はたまた有名大卒バリキャリOLだろうが、トロブリアンド諸島に行ってしまえば、そこでは「隣の島に貝のネックレスを届けた人」が偉いのだ。私は体力にはそんなに自信がないが、お話を書いたり詩を書いたりするのは得意だし、絶対音感まで備えているので、きっと良い吟遊詩人になれるだろう。過酷な旅を終えた私は砂浜に腰下ろし、ネックレスを大切そうに手で撫でながら、伝説の中の英雄たちについて歌った唄を、コーヒー色の肌の島民たちに聞かせる。私の歌声は波打ち際で弾ける飛沫に溶けて、いつか世界の海を巡るだろう。
そういうことを考えたら、今まで私を縛っていたものがスッと、お祓いしたみたいに消えていく心地がした。


精神科に通院し、精神安定剤を服用しながら受験するという、なかなかクレイジーな挑戦だったが、結果としては第一志望の大学に合格し、晴れて私は年齢的には現役で大学生になることができた。
こんな状態の私が大学に合格することを、家族も友人も、後で聞いたが塾の先生さえも、(私以外の)誰も信じていなかったが、やはり周りの人が学校の授業を受けている間、ひとり静かに受験のための勉強に専念できたことが功を奏したのだと思う。


私のこの図書館でのエピソードを読んで、「は? それがどうして心の救いになるの?」と混乱する人も多いだろう。私が言いたいのは、つらくなったらトロブリアンド諸島で貝殻を運びましょうね、ということではない。人は誰しも、他人とは共有できない、その人だけのファンタジーを持っていて、ままならない毎日に擦り減っていく魂を、その虚構世界に癒してもらっているということだ。それは幼いころ家族と過ごした夏のキャンプ場かもしれないし、電気屋の店頭に置かれたテレビに一瞬映された異国の青年の横顔かもしれない。何がその人にインスピレーションを与えるかはその瞬間まで誰にも分からない。それが、私の場合はあの日の図書館の文化人類学の棚だった。
あれから、他人の脳天にペンをブッ刺したい欲求はきれいさっぱり消えてくれたものの、私はお世辞にも、情緒の安定した立派な人間になったとはいえない。ただ、時々うんざりしたり全部放り出しそうになったとき、ふと都会の喧騒の狭間から、あの音が聞こえてくる。一生行くこともない、そもそも実在しない、私の内的世界の大海にぽっかりと浮かび、揺れる、あの島に寄せる波音が。

パッドマンと「正しさ」について

f:id:noi_chu:20170123021205j:plain
下校中の女の子たち。2014年ニューデリーにて



就活の面接でよく聞かれるとされる質問に「あなたの尊敬する人」というのがある。私はついぞ聞かれなかったが、もしこの質問をされたら、「インドで生理用ナプキンを作ったおじさん」と答えようと固く心に決めていた。
おじさんのことを知ったのは、大学生のころに偶然目にしたブログ記事からだったと思う。彼は小さな村の貧乏な一般家庭の出の、妻を愛する普通のインドのおじさんだ。彼の何がすごいのかと言うと、いまだ生理がタブー・禁忌・穢れとされるインドで、衛生的な生理用ナプキンを誰でも製造できる機械を開発するのみならず、その地域の女性がみずからナプキンを製造販売し利益を得るシステムを発案し、女性の自立と人々の啓蒙に貢献した。大統領から栄誉ある賞を賜り、国連やTEDでスピーチを披露するなど、今や世界中から称賛の声鳴りやまぬスーパーヒーローなのだ。
もちろん最初から順風満帆に事が進むはずもなく、妻に逃げられ、村から追ん出され、なかなかに散々な目に遭うのだが、彼はそれでもくじけず「正しさ」へと向かって、結果、多くの女性を救った。ひととおりのストーリーを読んだ私は感動に打ち震えた。当時、就活、というか、どう働くべきか、みたいなことに悩んで行き詰って、毎日毎日鬱屈としていた私の目に、おじさんは聖人君主のように見えた。

その「ナプキンおじさん」が『PAD MAN』という映画になったので、さっそく観に行った。
映画そのものの評価はたくさんの人が文章にしているので、あえて私は細かいことを言うつもりはない。素晴らしい映画だった。あのおじさんの話を、お堅いドキュメンタリーにするのではなく、ボリウッドムービーの明るさ、楽しさ、老若男女みんなに伝わる明快さで表現してくれたことを心から嬉しく思う。
ちょっと話は逸れるが、前に私の恩師がしてくれた話があって、「地形としてはたいへん珍しいがなかなか観光資源として生かし切れていない渓谷がある。ここに人を呼ぶにはどうすればよいか」という問いを、トップ大学とFラン大学のそれぞれのゼミで問いかけたところ、トップ大学の学生は「その渓谷の価値や歴史がよくわかる資料館を建てる」と答え、Fラン大学の学生は「でかいバンジージャンプを作る」と答えた。私はこの話が大好きでよく引き合いに出すのだが、「楽しさ」が人に与えるパワーというか訴求力は決してバカにできない。楽しければそれは勝手に続くし、人はどこからともなく集まってくる。
もちろんこの世のすべてのものがコンテンツとして面白おかしいものである必要はない。それでも、「ナプキンおじさん」は「インド映画」に翻案されて然るべきものであったし、それ以外はありえなかったと断言できる。ありがとうインド。ありがとうおじさん。これを読んだ人でパッドマン未見の人は今すぐ観に行ってください。


私がおじさんをすごいと思うポイントがもうひとつあって、それは他者へと向かう想像力だ。だっておじさんに生理は来ない。月に5日、お腹が痛くて、股の間から血が出続けて、部屋には入れてもらえず、学校にも仕事にも行けず、黙って耐えていることしかできないインドの女性たちについて、今まで誰もきちんと想像して、慮ってこなかったから、21世紀にもなって映画冒頭のような状況がまかり通っていたのだ。
……と、映画を見るまでは思っていたのだが、実際におじさんがしたことを映像で見せられると、実はおじさんにそんな想像力なんて大してなかったんじゃないか? と、思わずにいられなくなってしまった。
どういうことかというと、本当に妻の気持ちを「想像」できるなら、恥ずかしさのあまり号泣された時点でナプキン作りを完全に諦め「君に毎月ナプキンを買えるほど稼ぐ男になるよ」となるべきだし、女子医大の校門に張り付いてナプキンを配ろうとする姿はけっこう怖い。女子学生たちは少なからず恐怖を覚えたはずである。私だったら通報してる。



人に寄り添い、助けになるのに、「想像力」…つまり、「相手の気持ちがわかること、わかろうと努力すること」は、そんなにも大切だろうか?
結局、おじさんがすごかったのは、「自分が正しいと思うことをやり続ける」という点であり(それを「強さ」と呼ぶのではないかと私は常々思っている)そのおじさんの「正しさ」は世界基準のリベラルな「正しさ」に思いっきり合致していた、だから彼はスーパーヒーローになりえた。
「自分が正しいと思うこと」は、必ずしも「みんなが正しいと思うこと」や「Aさんが正しいと思うこと」と一致せず、そのミスマッチはときに相模原の事件のような悲劇を生む。強さ=正しさではないことはこのことからも自明である。渋谷の交差点で100人に聞いたら100通りの正しさがあるわけで、社会とかいうものはこの「正しさ」を、なんとなくそれとなくすり合わせて妥協しあって暮らそうとする人たちの寄り集まったものでしかない。
おじさんの「正しさ」は世界を揺り動かした。そこに「想像力」は必要なく、ただおじさんの「強さ」があった。



母の友人の娘さんに、ゆりちゃんという、二十代半ばの心優しい女の子がいて、彼女はその繊細さからどこに行ってもうまくやることができない。学校もバイトも、がんばりすぎて、うまくやろうとしすぎて、すぐにダウンしてしまう。今は両親の自営業を手伝っているが、彼女と会うたびに、彼女が焦りを覚えていることがひしひしと伝わってくる。
そんなゆりちゃんだが、お姉さんもお母さんもお父さんも、みんなゆりちゃんのように心優しく、ひとの気持ちを思いやれる人たちなので、いつも「ゆりのペースでやればいいのよ」と言っている。私はそれを真綿で首を絞めるような行為だと思いながらも咎めることができない。私としては、刺身にタンポポを乗せるような仕事でもいいので、ハードルを下げに下げてでも何かを始めたらいいと思うのだが、私はゆりちゃんの気持ちのしんどさやつらさがよく分かってしまう、保健室登校経験者であり、ゆりちゃん側の人間なので、「どの口がよくも」と考えてしまって、ゆりちゃんにハッキリともの申すことができない。
今回パッドマンを一緒に見に行ってくれたT女史は、ある意味でオーガニックなティーンエイジを過ごしたので、ゆりちゃんのような人の気持ちがまったくわからないらしい。
「えっ、家出たら!? 派遣の単発バイトとかやればいいじゃん!? 毎日家にいるとかヤバイよ、何でもいいから始めなよ」
と、今まで誰もゆりちゃんに言えなかったことを、きっとT女史なら出会って3分で言ってあげることができるんだろう。それでゆりちゃんはきっと多かれ少なかれ傷つくのだろう。ショックを受けるだろう。でも、それでゆりちゃんが奮い立って、現状を何か変えることができるのなら、T女史は「正しさ」でゆりちゃんを導いたことになる。
「ゆりのペースでいいのよ」と「刺身にタンポポを乗せろ」では、実は後者のほうがゆりちゃんを救うことになるのなら、「他者へと向かう想像力」などというものは、いったいどこまでのリアルな効力を持つのだろうか。



クソのような不正入試や、上沼恵美子に対する蔑視発言など、うんざりするようなニュースが虫のようにわき続ける現代日本で、いま必要とされているのは、常に「正しさ」をアップデートし続ける勤勉さと、その「正しさ」を実践するエネルギーを持つ人、つまり「正論で殴る」人たちなのかもしれない。
そんなことを考えながら、その夜は終電で帰った。翌日も仕事なのに、終電まで遊ぶのは、正しくないことだとはわかっていたが、渋谷の交差点を歩く100人に99人は正しさをだいたい実践できない人であり、私もそのうちのしがない1人なのだ。

南の島で泳ぐためにピル外来に行ってきた

▼はじめに
この文章は、私個人の「月経不順やPMSの改善のために低用量ピルを服用する」という選択と、それにまつわる体験を記録として残したものです。
私と違う選択をした人を、否定したり、考えを改めさせたりする意図で書かれたものではありません。
この件についてコメントや質問をいただいても、私から何かお答えすることは基本的にありません。


「南の島に行かないか」と、大学時代の友人から連絡があった。これほどまでに茫洋として甘美な誘いを、私はほかに知らない。私は二つ返事でその誘いに乗った。


(インドネシアのバティック。いつかインドネシアにも行きたい)


まずは第一に、水着を買わなくてはならない。これは一大事だ。私は地元のスイミングプールで運動のために泳ぐ用の、機能性と耐久性以外にとりえのない水着しか持っていない。そんな水着しか持っていないのに「私は南の島に行く」だなんて、恥ずかしくて口が裂けても言えない。今すぐオシャレで可愛くて防御力の低そうな水着を用意しなければ。それから、強力な日焼け止め。ドラッグストアで売っている中で一番防御力の高そうなものを手に入れなければならない。さらに、ハリウッドスターみたいなサングラス。スマホの防水カバーとセルフィースティックと、プラスチックケース入りの防水「写ルンです」も、持っておくに越したことはないだろう。南の島にはビックカメラもないし。


ここまでリストを作って私は、はたと我に返り、急いでカレンダーを確認した。とある友人の話を思い出していた。大学を出るまで一度も海外に行ったことがなかった彼女は、卒業旅行として彼氏とのハワイ旅行を果たしたが、生理と丸被りしたおかげでマジで何もできなかった、と。22歳で初海外でハワイ、というだけで相当ダサいのに、そんなお粗末な事態になってしまって、当時の私は完全に他人事として大いに笑わせてもらったのだが、この度は私とて他人事ではない。こともあろうか、私の体はフレンチシェフの如く気まぐれなので、被るのか、回避できるのかすら分からない。さて困った、と首を捻ったその瞬間。まるで雷のように、天啓が授けられた。
そうだ、ピル外来行こう。(BGM: My Favorite Things)


低用量ピルのことはずっと前から知っていた。何度か効用や飲み方を調べてもいた。もし、私をずっと悩ませてきたPMSと月経不順が、これを飲むだけである程度改善するならどんなに良いか。そう思っても、なかなか行動に出ることができなかった。周りに飲んでいる友人はいたが、片手で足りる程度だし、女友達の間でもなかなかそんな話にはならない。まず、婦人科に抵抗がある。病院が嫌だなんて、子どもみたいな理屈ではあるが、婦人科に抵抗のないご婦人などそうそういないだろう。
しかし、今の私は違う。南の島に行くのだ。今からピルを服用して気まぐれな周期を正常に戻せば、ハワイ・ショックの轍を踏まずに済むはずだ。南の島に行かない自分はもう死んでしまった。私は新しくなって、新しい選択をすることができる。私は迷うことなくGoogleのアプリを叩いていた。



「ピル外来」というワードにプラス地名で検索すると、検索上位にそれらしき医療機関が表示されたので、何も考えずにリンクをタップする。怪しげなところは何もない、ふつうのクリニックだと思ったので、「予約」ボタンを押してオンライン予約に取り掛かる。希望する診察内容や空きのある日時を選ぶくだりは、完全にヘアサロンとかレストランとかの予約と同じで、そのうちオズモールやホットペッパービューティーみたいなところで婦人科の予約ができるようになってもいいかもしれない。名前や連絡先まで入力したら予約完了メールが来て、あとは当日行くだけだ。ピルを飲むと決めた瞬間から、ここまで五分。


さて時はさっさと流れて予約当日、駅チカで便利なそのクリニックへ向かうと、受付のお姉さんが「本日はこちらでよろしいですか」と、選択肢の書かれた紙を見せてくれた。人目がある中で診察の内容を口にしなくてもいいようにという配慮である。やさしい世界だ。私が頷いたのを見て、お姉さんが問診票をくれる。表面が患者の記入するパートで、裏面が予想外に密度の高い「ピルとはなんぞや」のパートだった。これをじっくり読み込んで、すべてに「理解した」というチェックを入れて提出すると、婦人科の診察室に招き入れられる。本日のメインイベントである。理知的な表情と話し方の女性医師が、鮮やかな手際と滑らかな口ぶりでスパパと説明をしてくれるが、私にはピルの基礎知識があった上に、さきほど問診票の裏を読んだばかりなので、どれもクリアに理解することができた。保険適用のピルと保険適用外のピルの違いや、私がピルを飲む目的を考慮して、今回は保険適用のものを処方してもらうことになった。無理をせず健康的な生活を心がけること、定期的に診察・検診を受けに来ることを約束し、最後に、急に具合が悪くなったときにどうしたらいいかの説明を受け、安心して診察室を後にすることができた。隣接する薬局で、ミントの香りの爽やかな男性薬剤師から爽やかな説明とともにピルを受け取りミッションコンプリート。クリニックに足を踏み入れてから薬局を出るまで、ちょうど一時間程度。飲み始めは次の生理が始まったときなので、まだ服用してはいない。熟すには早い果実を寝かせるように、大切に引き出しにしまってある。



私よりずっと早くからピルを飲み始めた友人が、つい先日言っていた。「ピルを飲み始めたら、自分の体が勝手に担わされた神秘性みたいなものを、やっと捨てられた気がした」。私は彼女とまったく同じ気持ちではないにしても、その感覚はよく理解できる(まだ飲み始めてもいないんだけど)。誰からともなく課せられた『ままならなさ』 ──さらにその『ままならなさ』はいつしか私たちの思考の枠組に入り込んで内在化してしまうのだが── その枷から、もし、ある程度自由になれるとして、いったい誰が迷惑を被るだろう。私が、私の体のために行動したことを、いったい誰が責められるだろう。

「寒いと思ったら上着を着る」とか、「お腹すいたらクッキーをつまむ」とか、そういうレベルの話と同じで、「自分の体に起きていることに対し、何かアクションをとる」という行為は、誰にとっても自然なものだ。だからきっと、私が『ままならない』自分の体をコントロールし、南の島で泳ぐために、ピル外来へ赴いたことは、とても自然なことだったはずだ。寒いも、お腹すいたも、痛いもしんどいもきついも、何も我慢しなくていい。耐え忍んでも、何のためにもならない。たとえピルを飲んだ結果、体に合わなくて結局やめることになったとしても、私はこの選択を、それにまつわる私の行動を、一旦は手放しで祝福したいと思う。そして、南の島の澄んだ浅瀬で、指先がぶよぶよになるまで泳ぎ続けたいと思う。


後日改めて、南の島で遊び惚ける私の写真9割、ピル服用の後日談1割くらいのブログを書くつもりである。


▼しつこいようですが、このブログエントリやピルについてのコメント・質問には、基本的に何もお答えしません。

6月28日の日記

この間、パスケースを落とした。パスケースの中には定期の他に職場のセキュリティカードが入っていて、私はそのために筆舌に尽くしがたい思いを味わった。財布も携帯も鍵も一度も落としたことなんかなかったのに、あの一瞬のせいで私の人生は、職場のセキュリティカードを落とした迂闊で間抜けな人生へと塗り変わってしまった。
その前には、よく利用していた家具のネット通販サイトから私のクレジットカードの番号が流出し、その結果、深夜0時にお風呂から上がってスマホを見たら4万5千円の利用通知メールが届いているという怪事件にまで発展した。実家に財布を置き忘れて近所の知り合い宅に金をたかりに行ったのは先々週の夜更けのことだ。極め付けに、先日階段をたったの三段転げ落ちてしたたかに打ち付けた肘が未だに痛い。



こんなにも不運が続くのも人生史上稀に見ることだったので、先週末、明治神宮にお祓いに行った。なぜ明治神宮かと言うと、もはや観光地化されていてお出かけするだけで楽しそうだったし、何より大抵の神社が「一万円から」と設定する初穂料が五千円スタートでたいへん良心的だったからだ。たったの五千円でどれだけ私の厄が祓われたのか数値化してくれるガイガーカウンターが入り口に設置してあればよかったのだが、そんなものは未来永劫開発されそうにないので、まあ気持ちの問題だよな、と思いながらお札を持って帰った。お札はベッドフレームに立て掛けるようにして置くことにした。毎朝毎晩、二礼二拍手一礼をするほど熱心ではないものの、目が合えば一礼くらいはするようにしている。



どこで見かけたのか忘れてしまったが、日本人の宗教観について、「日本人の言う『無宗教』とは、特定の宗教的組織に属していないこと」という記述を読んで、なるほどそれだと膝を打った。
日本人は宗教的でない、という言説を見聞きするたびに、それは絶対に違う、誰もお守りを踏めないし鳥居を蹴っ飛ばせないはず……と悶々としていたから、雲が晴れたような心地だった。社訓が独特で社長のパワーが強い企業などを、私たちは「宗教っぽい」などと形容したりする。宗教=【共通のルールに従う人の集合】そのもののことだと理解しているからこその表現に違いない。



教祖が国際指名手配されたとあるカルト教団の信者女性のところに1年通って聖書の読み方を習った話はまた別の機会に回すとして、私の見たところ、小さな集団(この"小ささ"は敷地面積や規模の大小ではない)を敬遠する人々にほどなく近いところに、そのような組織の中にようやく心の安寧を見出す人々というのも確かに存在する。また、「シューキョーなんて気持ち悪い、まっぴら」などと豪語する人がまさしく『宗教的』な集団や活動に入れ込んでいるケースも珍しくなさそうだ。そういう人たちを、いかに集団の狂気から遠ざけるかが、現代日本社会の課題である。みたいなことを村上春樹が言っていた。(私は村上春樹のことは「やれやれ、僕は射精した」くらいしか知らないけど、彼のオウム真理教についてのルポルタージュやエッセイはすごく好きで何度も読み返している。)
お守りは踏めないし鳥居は蹴っとばせない人たちが、1日5回礼拝するムスリムを見て「厳しい宗教だ」という感想を抱く。「職場のセキュリティカードを落としてしまったり、不運が続くので、明治神宮で五千円支払ってお祓いをしてもらった」という冒頭の文章を読んで、まったく違和感を抱かなかったのだとしたら、その感性はたいへん"宗教的"だと言わざるを得ない……かもしれない。

6月24日の日記

唐突に静かな気持ちになる、たとえば今日のように昼寝しすぎた日の夜更けなどに。静かな気持ちになったついでにボロボロのふやけたノートを引っ張り出してきて、小さな文字で細々と綴られた当時の心境を読み耽ったりする。しんしんと。そして若いなぁとか思うのだけど、そのノートを使い切ってから2年しか経っていないことに、つまり私が今も『若い』という事実にゾッとする。この『ゾッ』はうまく言葉にならない。これからも私はいろんなことを間違え、いろんなことに気がつき、ときに気がつき損ね、試行錯誤を繰り返しては学んでいかなければならないというそのことにゾッとする。


本人には絶対に口が裂けても言えないが、老年期と言われる年頃の人を見ると「あとは死んでいくだけだから楽でいいよな」と思ってしまう。その歳になってしまえばもう誰も彼を変えられないし、もちろん彼も変わる必要がない。そのやり方でその歳まで生命を維持できたのだから、彼のやり方は結果論的に正解だったと言わざるを得ない(そういう意味で、私は儒教で説かれる『年長者への敬意』に共感する)。長距離走で前を走る人に対する妬みにも似ている。もちろん彼らは遠く険しい道のりを命がけで走り抜けてきたわけで、それは理解しつつも、羨ましく思う気持ちをどうしても止められない。


のいさんは本当に多趣味だね、と先輩に言われた。先輩は旦那さんとしばしばスキーや旅行を楽しみながらも、主な楽しみはお酒を飲むことなんだと言う。私は私の趣味を趣味とは思っていない。世間一般で言われる趣味とは『余・暇』を潰すための手段であり人生の時間を深めるためのエッセンスだ。私にとっての趣味は痛み止めのモルヒネや登山者の握るロープに例えられる。日々はあまりにも面倒なことやしんどいこと、つらいこと、理解しかねることに満ちていて、気を確かに持たないとすぐにそれらに毎日を埋め尽くされてしまう。そのため、頭の中に常に楽しいことや好きだと思えることをいくつもストックしておいて、状況に応じて選び、自分を楽しませ、和ませて、シンドいやメンドいに押し潰されないように引っ張り上げてやるのだ。そうすれば生活に潜んだ面白さや周りの人の温かい気持ちにも気づけるくらいに感受性が回復する。そうやってメンタルを即時回復しながらしか私は生きていくことができない。


私ものいちゃんみたいに夢中になれる趣味が欲しいとか、どうしてそこまで好きになれるのか知りたいとか、そういうこともよく聞かれるが、私には逆に夢中になれる趣味もなくどうやって生きていけるのか本気で意味がわからない。麻酔なしで開腹手術をするようなものではないのだろうか。わからない……と、ついこの間までは思っていたのだが、最近になって何となく分かり始めてきた。私が舞台やサブカルなどのコンテンツに注いでいるエネルギーを、多くの人は人間関係に注ぐのではないだろうか。地元の友達、学校の友達、職場の仲間、恋人、家族、子どもなどなど。彼らが自らの外側に張り巡らすセーフティネットを、私は自らの内部に張り巡らせ、自分のメンタルがどこまでも落ちていかないようにしている。
誰もひとり取り残されて死にたくはない。死なないようにする方法が異なるだけで、私はそれを内側に取り込んでしまうことを選んだ、それだけの話だ。そのおかげで、私は眠る前の静かなひと時に「今日はまあまあ楽しかったな、よくやれたな」と思える。今夜は冒頭で書いた通り昼間寝すぎてしまったので、少しだけその静かな時間を引き延ばして、自分の内側やその外側に、目を凝らしてみたかった。

私はひとりの夜を寂しいと思ったことはない。

5月17日の日記

母親という存在について、私はここ数年、意図的に思考停止をしてきたように思う。生活の中でさまざまな選択をしていくにあたり、私は母親の存在を考慮に入れることをしなくなった。疎遠になったわけでも、ましてや絶縁しているわけでもなく、昨年新しく柴犬を迎えてからなんて毎日のように写真が母からLINEで送られてくるし、それに対して私も「世界一かわいいちゃんだわ~ん」とか「おしゃんぽ行ったかわん?」とか反応を欠かさないので、むしろ学生時代と比べてもコミュニケーション量は増加している。それなのに、私は「ママとは友達です」とは口が裂けても言えない。きっと一生言えない。


多分、私にとっての母親は大きすぎて、複雑すぎて、永遠に解けそうにない長々とした計算式のようで、私は幼いころからいつもその難解さを持て余していた。母の事をどう思えばいいか分からなかった。特に私が家を出てから、母は何を思ったか突如として親戚の優しいおばさんのような立ち位置にシフトしてきたので、私はその問いをずっと留保したまま今日まできてしまった。


正直なところ、小学生みたいな言い方になってしまうが、私は母はすごい人だと思うし、いい人だとも思う。国家資格を持ってフルタイムでバリバリ仕事をしていて、もう何年も管理職をしている。お調子者で、馬鹿馬鹿しいことが好きで、隙あらばひとりで歌ったり踊ったりするところは私にとてもよく似ている。常に最悪の事態を想定する私の性分はおそらく母から受け継がれたもので、たとえば友人が5分連絡なしに約束に遅れると「〇〇線 事故」などでツイート検索したりして万一友人が事故で亡くなっていた場合にいちいち備えてしまう(というのはさすがにエクストリームな例ですが)。そういうところで私は本当にI'm my mother's daughterだなと感じる。


一方で母は、私のやることなす事すべて一旦否定しないと気が済まないが、それを彼女は『母親としての重要な役割のひとつ』だといつも豪語している。私は何か新しいことを始めるとき、全く根拠もないのにぼんやりと「できるんじゃん?」と思ってしまうタイプの能天気な人間だが、私が「〇〇をしようと思う」というような発言をした時の母の反応は決まって「あんたみたいな人が〇〇なんて絶対にできるわけない」だ。一番古い記憶が「あんたみたいな人が一年生の子をお世話なんかできるはずない(小学校の記憶)」で、以下「一年生~お世話」部分を塾通い、高校受験、厳しい部活、大学受験、大学通学、海外旅行、独り暮らし、大学院進学、留学、就職、仕事、資格取得……に挿げ替えたものが断続的に続けられる。「いいじゃない、やってみなさいよ」と言われたことは神に誓って一度もない。


しかし能天気な私はそう言われてもやらずにいられないので、「無理」「後悔する」「やめておけ」「死ぬぞ」「あんたなんか私の娘じゃない」などの刺々しい言葉を背中に受けながら結局、実行に移してしまう。そうしてそれが軌道に乗ったり何とか成功したりすると、ここで母は突然神様のように協力的になる。塾から帰った私のために夜食を用意してくれた。○○大なんか何浪しても無理、と言いながら受験料を払ってくれた。バイトが遅くなった日は駅まで車で迎えに来てくれた。日本からNYに向けてα米を送ってくれた。一人暮らしで使う家電を品定めして値切ってくれた。私は突然のハイパー菩薩タイムに多少ビビりながらもそれを遠慮することはなかった。いつもそうだった。


しかし、この、ハイパー菩薩タイムに突入するまでの悪魔のような母の姿とその口から吐かれる呪詛があまりにも恐ろしいので、随分長いあいだ、私の中の"母親"のイメージはメドゥーサの如き禍々しい様相を呈していた。それが嫌で苦しくて半ば家出同然で実家を飛び出してから、冒頭で言った通り私はなるべく、なるべく母親の事を考えないようにしてきた。どうしたって被害者ぶりたくなってしまうし、自尊心をダイレクトに傷つけるべく発されたとしか思えない罵詈雑言を数えきれないほど受け続けて疲れ果てていて、いくら頑張っても許せそうになかった。そもそも、『誰かに何か酷いことをされた自分』を認識すること自体がまずしんどいことに違いなかった。周囲の人は菩薩タイム中の母の姿しか知らないので、私が母に何を言われたと訴えようと信じてもらえない。母は母で、私が視界から飛び出していったことによって心の中の何かが吹っ切れたのか、よく分からないが突然丸くなった。私を否定するようなことも言わなくなって、まるで牙を抜かれたようになってしまっていたので、余計、あの恐ろしい日々は私の脳が作り上げた妄想だったのではないかと思ったくらいだった。


そして今日、ふらふらと歩いていたら、本当に何の前触れもなく、雷が落ちたみたいに、私はハッと、「あれ、もしかしてうちの母って、良い人なのでは?」と思った。意味が分からないと思うが私にも全然分からない。たぶん神の啓示をうけたマザー・テレサやジャンヌ・ダルクも直後はこんな気持ちだったろうと思う。
『ハイパー菩薩タイム』などと茶化して皮肉っていた、あのときの母は本当に協力的だった。母が助けてくれなかったら最後までやり遂げることのできなかったことがたくさんある。刺々しく文句を言いながら、呪詛を吐きながら、いつも母は私の味方だった。どうして今まで気づかなかったんだろう。いや、気づくわけがない。棘が鋭すぎて、その棘に包まれた母の献身を、私はいままで一度だって真正面から認識できていなかったのだ。


そして私は思った。「いや、うちの母さん、子育て下手すぎでは? ってか不器用すぎでは!??」
母は私の決意を一度ひん曲げてやることによって私を強くしてきたと思っているのかもしれないが、私はそのたびにきっかりしっかり傷ついて挫かれていやんなってしまってきたので、あれさえなければもう少し素直で明るい人間になっていたと思うし、母親をメドゥーサに喩えるような娘になっていなかったはずだ。実家を出て丸3年、母の日から数日遅れて、(なんか知らんが突然)私はやっと母が私にしてくれたことを真っ直ぐな気持ちで受け止め、感謝できるようになった。しかし分からない。どうして母はあんなに非効率とも言える子育てを実践していたのか。彼女をそんなダークな子育てへ駆り立ててしまうほどに彼女の娘は出来が悪かったのか。母自身は私に対して繰り返し言ってきたことをどう思っているのか。聞けるわけない。
というわけで謎は残りつつも、頭の中でまとめられたこと、理解できたことだけ、せめてもの思いで書き残しておく次第である。